イヴァン4世
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イヴァン4世(Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich, 1530年8月25日-1584年3月18日、在位1533年-1584年)は、リューリク朝モスクワ大公国の君主(ツァーリ)。イヴァン雷帝(Иван Грозный / Ivan Groznyi)という異称でも知られる。ヴァシーリイ3世の子。
帝権の強化と版図の拡大につとめ、ツァーリズム(専制政治体制)を確立した。彼の時代には、ルーシの大部分を支配するに至ったモスクワ大公国の領域は「ロシア」と称されるようになっていたとされ、しばしばロシア帝国は彼の時代にほぼ成立したとみなされている。その一方で、きわめて残虐・苛烈な性格であったためロシア史上最大の暴君と言われている。彼の「雷帝」というあだ名は彼の強力さと、冷酷さをともに表わすものである。
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[編集] 生涯
イヴァン4世の政策は常にツァーリ権力の強大化を目標としていたが、その手法や姿勢にはおおむね1560年頃を境に顕著な違いが見られる。大雑把にいえば治世前期のイヴァンは大貴族(ボヤーレ)たちの専横を抑えつつ、有能な側近たちとともに諸方面の改革に努力した。しかし治世後期に入ると有力貴族らの相次ぐ粛清や悪名高いオプリチニナの創設などの暴政が展開され、リヴォニア戦争の失敗などもあって国土は著しく疲弊した。またイヴァン個人も年とともに嗜虐性を加え、奇矯な振る舞いが増えていったといわれている。
[編集] 生い立ち
イヴァンの父となるモスクワ大公ヴァシーリイ3世は、1505年に貴族の娘ソロモニヤ・サブロヴァを妃とするが、長く子を儲けることができなかった。そこで、ヴァシーリイは1525年に府主教ダニールによる婚姻無効の宣言を得て彼女を尼僧院に追放、かわりに翌年の1月にリトアニア系貴族グリンスキー家出身のエレーナ・グリンスカヤと結婚した。エレーナは、夫ヴァシーリイのために1530年に長子イヴァン、1532年に次子ユーリーを産む。
エレーナの母アンナは1380年のクリコヴォの戦いでモスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイに敗れたタタールの将軍ママイから五代目の子孫と言われており、これが真実であれば、イヴァン4世はクリコヴォの戦いにおける勝者と敗者双方の血を引くことになる。
[編集] 親政以前
イヴァン4世は父の死によって1533年12月3日に3歳でモスクワ大公に即位するが、実権は摂政となった母のエレーナと、その愛人イヴァン・オボレンスキー公が握っていた。エレーナは、イヴァン4世の叔父ユーリー・ドミトロフスキーとアンドレイ・スタリツキーによる大公位簒奪の陰謀を阻止し、モスクワ大公国全域への単一通貨の導入や、リトアニアとの国境紛争に勝利するなどの業績をあげた。
しかし1538年にはエレーナが死去し、後ろ盾を失ったオボレンスキー公も失脚する。これにより、それ以後9年間にわたって有力貴族たちが実権をめぐって暗闘を繰り返し、イヴァン4世は傀儡として不安定な少年時代を余儀なくされた。のちにイヴァン4世がクルプスキー公宛て書簡のなかで回想しているところによれば、この頃イヴァンと弟のユーリーは貴族たちの横暴に苦しめられ、日々の食事にも事欠く有様であったという。
[編集] 親政期の内政と外征
1547年1月16日、イヴァン4世は16歳で正式にツァーリとして戴冠した。その治世の初期には穏やかな改革と近代化が進められた。法律を改正し、常備軍「ストレリツィ」を創設したほか、「ゼムスキー・ソボル」と呼ばれる身分制議会を開設した。また、教会を国家に服属させた。1566年には紙が西欧より輸入され、ロシアで初めての印刷所をつくった。
外征では、東方のタタール諸国へ進出し、1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハン・ハン国を併合した。モスクワの聖ワシーリー寺院は、カザン・ハン国を支配下におさめたことを記念して建設されたものである。このとき、イヴァン4世はその美しさに感動したあまり、設計者がそれ以上に美しいものをつくらないようにと彼を失明させたという伝説(史実には反する)を残している。このほか、1581年にはコサック(カザーク)の首領イェルマークのシベリア遠征に援助を与え、ロシアの東方拡大の端緒をつくった。
西方に対しては、ヨーロッパへの進出をはかり、1553年に白海経由によりイギリスとの間に通商関係を開いた。また、バルト海への勢力拡大を目指し、スウェーデンやリトアニア、ポーランド、ドイツ騎士団などと戦った。
しかし、1558年に始まるリヴォニア戦争はとくに長期化し、国力は疲弊した。イヴァンは戦争遂行のため、軍人となる士族の収入を確保しようと農民の移動を制限したが、これは後に農奴制を生み出した。
1583年、リヴォニア戦争はモスクワ大公国にとって不利な条件で講和は結ばれ、イヴァンのバルト海進出は失敗に終わっている。
[編集] 治世後期の混乱とその死
1564年、イヴァンはツァーリ直属の警備隊オプリチニナを創設し、貴族への圧迫を強めた。彼はオプリチニナを使って大貴族に対して領地を没収する圧制を敷き、恐怖政治を行った。加えて、オプリチニナは次第に賊徒化し、貴族や農民たちに強盗を行うようになった。ノヴゴロド公国との争いで、イヴァン4世はオプリチニナにノヴゴロドを破壊させ、その際に数万人が犠牲になったといわれる。
この頃には飢饉が起こり、長期の戦争とあわせて社会の混乱を深めた。さらに1571年、首都モスクワはクリミア・ハン国軍の襲撃を受け、灰燼に帰する。混乱の末、オプリチニナは1572年に廃止された。
晩年のイヴァンは後世の歴史家から常軌を逸したと評価されるような奇矯な行動を繰り返した。1574年ころには突然退位を宣言してタタール系貴族シメオン・ベクブラトヴィチをモスクワ大公位とし、一年ほどしてから復位した。また1581年には、あやまって息子イヴァンを自ら殺してしまう。
1584年、イヴァン4世は没し、荒廃した国は息子フョードル1世に相続された。
[編集] イヴァン4世の性格と私生活
イヴァン4世は複雑な性格の持ち主で、処刑や拷問を好むなど非常に残虐であると同時に、きわめて敬虔な一面をも持っていた。
伝説によれば少年時代のイヴァン4世はクレムリン宮殿の塔から犬や猫を突き落とすのが趣味であり、貴族の子弟を引き連れてモスクワ市中で市民に乱暴狼藉をはたらいていたとされる。一方で府主教マカーリーに師事して深い宗教的教養を身につけ、礼拝や巡礼を好んだという記録もある。当時クレムリン宮殿にはビザンティン帝国からもたらされた膨大な古典作品が所蔵されており、歴史家クリュチェフスキーはイヴァン4世を「16世紀最大のモスクワの雄弁家にして著述家」としている。
1560年代以降のイヴァン4世は、少しでも自分の意志に反対する者に対しては、即座に拷問や処刑を行なうようになった。一例としてクルプスキー公の書簡によれば、1564年のはじめに酒宴の席で酩酊して放浪芸人とともに踊りだしたイヴァンを名門貴族のレプニン公が諌めたが、イヴァンは彼に仮面をつけて踊りに加わるように命じ、レプニン公が拒絶するとその夜のうちに彼を殺害させたという。
イヴァン4世は1565年にオプリチニナ制度を導入して以後、アレクサンドロフ離宮で常にオプリチニキ(オプリチニナ隊員)と起居をともにしていた。この時期にイヴァン4世のもとを訪れた外国使節らの記録によれば、イヴァンはオプリチニキとともに修道院を模した共同生活を送り、黒衣をまとって早朝から長時間の祈祷や聖課を行ない、好んで鐘衝き役や聖歌隊長を勤めたという。一方、午後には処刑や拷問が行なわれ、イヴァン自身もそれに加わるのが常だった。
イヴァンは拷問の様子を観察するのを好み、犠牲者の血がかかると興奮して叫びをあげたと記されている。夜には放縦な酒宴が開かれたが、イヴァンは不眠に悩まされて深夜まで寝付くことができず、しばしば夜伽師の物語に耳を傾けたり離宮内をひそかに徘徊していたという。
イヴァン4世は聖職者をも容赦せず、高徳な人物として知られた府主教フィリップやノヴゴロド大主教ピーメンらを次々に粛清した。しかしイヴァンは神を深く畏れており、プスコフでミクラというユロージヴィに激しい非難を浴びたときは強い衝撃を受け、予定していた「懲罰」を中止している。アレクサンドロフ離宮でも、日々処刑や殺戮に明け暮れる一方で、毎夜のように聖母マリアのイコンに敬虔な祈りを捧げていたという。
晩年にはクリミア・タタール軍によるモスクワ焼き討ちや、皇太子イヴァンの誤殺に衝撃を受け、しばしば幻視や幻聴に悩まされた。この頃イヴァン4世はオプリチニクの殺戮の犠牲者たちの記録簿(シノーディク)作成を命令し、遺言状のなかで自らの行為を悔やむかのような言葉を残している。
[編集] イヴァン4世を描いた作品
イヴァン4世の一生は、セルゲイ・エイゼンシュテインによって映画化されている。