ブルガリア帝国
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ブルガリア帝国(ブルガリアていこく)は、現在のブルガリアを中心にバルカン半島の東部を支配したブルガリア人の帝国である。アゾフ海沿岸の草原地帯から移住してきたテュルク系遊牧民のブルガール人によって建設された第一次ブルガリア帝国(681年 - 1014年)のもとでキリスト教を受け入れ、支配者のブルガール人と原住の南スラヴ人とが一体化してブルガリア人を形成、第二次ブルガリア帝国(1187年 - 1396年)のもとではイヴァン・アセン2世の時代に最大版図を実現したが、14世紀にオスマン帝国の度重なる侵略を受け、世紀の終わりまでに併合し尽くされて消滅した。
19世紀にオスマン帝国から独立して成立した近代ブルガリアも1908年から1946年までの王国時代にツァーリを国王の正式な称号とし、ブルガリア帝国と呼ばれることもある。
[編集] 第一次ブルガリア帝国
7世紀後半、黒海北岸の大ブルガリアから分離してドナウ川下流域のデルタ地帯に侵入してきたドナウ・ブルガール人は、アスパルフ(イスペリフ)を指導者としてこの地方の支配者であった東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と戦い、スラヴ人を支配する国家を形成し始めた。彼らは681年にビザンツ帝国と講和を結んでこの地域の支配権を認められ、第一次ブルガリア帝国を建国する。
建国当初のブルガリア帝国はテュルク系遊牧民の部族連合的性格を色濃く残し、君主は有力部族から選ばれる人物でハーンを称号とした。国内ではブルガール人は少数派で、支配下には様々な部族に分かれたスラヴ人がおり、ブルガール人は次第にスラヴ語を受け入れ、スラヴ人とブルガール人が一体となって現在のブルガリア人に繋がるスラヴ系の集団となっていった。
8世紀を通じブルガリアはビザンツ帝国と激しく争ったが、8世紀末に即位したクルム・ハーンのもとで神聖ローマ帝国に敗れて衰退したアヴァールの旧領を奪取し、東ヨーロッパ随一の大国に成長した。9世紀初頭にクルムはビザンツ帝国を破ってトラキア地方に勢力を拡大し、のちの首都となるソフィアを奪った。811年にはビザンツ皇帝ニケフォロス1世の親征を受けるがこれを打ち破り、813年にはビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲するに至る。しかし、814年にはブルガリア軍はレオーン5世によって撃退された。
クルム以降、ブルガリアの歴代ハーンはビザンツ帝国支配下のスラヴ人の反乱を支援して南への拡大を続け、ボリス1世のとき864年にキリスト教に改宗した。キリスト教への改宗は異教の信仰を堅持する貴族たちの反抗にあったがハーンはこれを鎮圧し、893年に即位したシメオン1世のもとでコンスタンティノポリス総主教から独立したブルガリア正教会を確立、ハーンは918年より皇帝(初期はバシレウス、後にツァーリ)を称するに至った。
シメオン1世のとき、ブルガリア帝国の領土はマケドニア地方やギリシャのペロポネソス半島北部にまで及び、第一次ブルガリア帝国は最盛期を実現したが、その後は次第に衰え、970年にはキエフ大公スヴャトスラフ1世によって占領され、971年にはキエフ軍を討ったビザンツ軍によって併合された。976年には独立を回復したものの、マジャル(後のハンガリー王国)やビザンツ帝国にしばしば敗れた。986年からはビザンツ帝国の対ブルガリア30年戦争が開始され、1014年にはキンバロングーの戦いでサムイル帝が戦死、1018年、ブルガリアはビザンツ皇帝バシレイオス2世によって完全に併合し尽くされ、第一次ブルガリア帝国は滅亡した。
[編集] 第二次ブルガリア帝国
ブルガリアは第一次帝国の滅亡後ビザンツ帝国領となっていた。バシレイオス2世はブルガリアの事情に配慮した統治を行ったが、彼の後継者たちの時代になるとブルガリアには圧政がしかれ、民衆の不満が増大していった。12世紀後半にコムネノス王朝が倒されるとビザンツ帝国は急速に衰退していった、そんな最中の1185年、タルノヴォ地方でブルガリア貴族の反乱が起こると、ビザンツの統治に不満を持っていたブルガリアの人々はたちまち反乱者に荷担してゆき、1187年に反乱の指導者のひとりイヴァン・アセン1世が即位して第二次ブルガリア帝国(ワラキア=ブルガリア王国)を建国した。
第二次ブルガリア帝国はビザンツ帝国を破って勢力を拡大し、第四回十字軍によってコンスタンティノポリスが征服されてビザンツ帝国が滅亡する1204年までにトラキアの西北部まで勢力を拡大した。ビザンツ帝国が滅びるとトラキアの正教会信徒の保護を名目にラテン帝国と戦い、1205年には第2代皇帝カロヤン=ヨハニッツァがラテン帝国の初代皇帝ボードゥアン1世を破った。
カロヤンの死後、イヴァン・アセン2世(イヴァン・アセン1世の子)とその従兄ボリルとの間で皇位をめぐっての争いが起きたが、イヴァン・アセン2世が最終的に勝利して皇帝として即位した。
イヴァン・アセン2世の時代にブルガリア帝国はアルバニア、マケドニアにまで進出してブルガリア帝国の最大版図を実現、帝国の最盛期を築き上げた。また、ヴェネツィア共和国と通商関係を結び、修道院や大学を建設するなど経済・文化的にもブルガリアに繁栄をもたらし、1235年には第1次ブルガリア帝国の滅亡以来失われていたブルガリア正教会の自治独立を回復した。
しかし1241年にイヴァン・アセン2世が死去して以降はモンゴル帝国の侵攻を受けて国土が荒廃し、またビザンツ帝国の継承政権の中でもっとも繁栄したニカイア帝国と戦って敗れた。13世紀末にはキプチャク・ハン国の有力者ノガイによる侵攻を受けてその属国に陥り、その後も1330年にはセルビア人に大敗、また皇族や貴族の間での内紛が続いて急速に衰退していった。
1362年に新興のオスマン帝国がブルガリアのすぐ南方にあたるトラキア地方のアドリアノープル(エディルネ)を征服するとブルガリアはその直接の侵攻にさらされるようになり、オスマン帝国に服属を余儀なくされた。オスマン帝国はさらにブルガリアの直轄地化を徐々に進め、1396年までに全ブルガリアがオスマン帝国に併合されて、第二次ブルガリア帝国は滅亡した。
[編集] 関連項目
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