子嬰
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子嬰(しえい、? - 紀元前206年、在位:紀元前207年 - 紀元前206年)は、統一王朝の秦の最後の君主。史料では秦王子嬰とも呼称される。
統一王朝の秦としては、三代目の皇帝であるために史家によっては三世皇帝と呼ばれるが、実際は皇帝には即位してはいない。姓は嬴(えい)、諱は嬰という。本来なら、公子嬰なのだが、史記で『子嬰』と記されて以来、そちらのほうが有名になってしまったという。
[編集] 略歴・人物
史書には、始皇帝の孫と記録されているが、その父親については諸説あり、小説では、始皇帝の長男の太子・扶蘇の子であるとされることが多いが、詳細は不明であり、中には、始皇帝の子であるとか、荘襄王の子(=始皇帝の弟)であったり、或いは趙高の魔手によって自決された公子将閭(一説では始皇帝の異母弟とも)の子とする説もあるというが、一切は不明である)とされる。
秦に対する反乱が全国に広がり、秦政府の力では対処出来なくなっている最中、丞相の趙高のクーデターにより、二世皇帝(胡亥)が24歳の若さで自殺させられると、混乱する人心の安定を図る趙高により、秦建て直しの切り札として、器量に優れ、人望も厚い子嬰が秦王として擁立されることとなった。
注:史記の記述によれば、趙高は、秦に対する反乱が激化する原因は、秦の君主が皇帝を名乗っているからだとして、皇帝の称号を廃し、王の称号を復活させたとある。しかし、近年の研究によれば、これは、前漢の記録官が劉邦の権威を高めるために歴史事実を書き換えたものであって、実際には皇帝を名乗っていたのではないかとの指摘が為されている。
しかし、この直前に趙高が、当時咸陽の近くにまで攻め入っていた反乱軍の将軍・劉邦に内応して、王となろうとしているとの噂が広まり、危険を感じた子嬰は、趙高とその一党の粛清を決意。即位式当日に、急病と称して欠席して趙高を誘き出してその一党とともに殺害した。
これによって、秦国内は一時的に安定し、咸陽の軍官民の士気は大いに高まった。しかし、時すでに遅く、劉邦の率いる反乱軍は最終防衛線たる武関に拠った秦の朱蒯軍を殲滅し、咸陽の目の前に迫っていた。ことが決したことを悟った子嬰は劉邦に降伏。その一族ともども身の安全を保証された。秦での王として子嬰が在位したのは49日間だけだった。
しかし、劉邦に続いて、項羽が咸陽に入ると、かつて始皇帝が諸国を滅ぼした罪等を持ち出され、一族ともども処刑された。この処刑が、後に劉邦による項羽討伐の大義名分のひとつとなった。