ツァーリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ツァーリ(царь, 英綴り: Tsar, Czarなど、起源はラテン語のCaesar)とは、ブルガリア・ロシアなどで使用された皇帝の称号。そもそもは、ローマ皇帝、その継承者である東ローマ(ビザンツ)皇帝を意味する称号として「カエサル」[1]という語が用いられており、その称号を周辺の国家が用いたもの。その際に発音が変化して「ツァーリ」となった。一般に「皇帝」と訳されることが多い。 近年日本では「ツァーリ」より英音に近い「ツァー」の表記が増え始めている。
目次 |
[編集] ブルガリアのツァーリ
ブルガリアのツァーリは、第一次ブルガリア帝国のシメオン1世がビザンツの首都コンスタンティノポリスへ攻め入った際、和平の条件の一つとして「皇帝」の称号を得たことによる、とされる。[2]
これを足がかりにシメオンは「ブルガリア人とローマ人の皇帝」と称して、ビザンツ皇帝の位を奪取することを目指したが果たせなかった。
しかし、その後も第二次ブルガリア帝国、近代ブルガリア王国においても君主の称号として用いられつづけた。
[編集] ロシアのツァーリ
1480年にモンゴルからの自立を果たしたモスクワ大公国のイヴァン3世が、初めてツァーリの称号を使用し始めた。そして、1547年にイヴァン4世はウスペンスキー寺院において、ツァーリとして正式に戴冠を行い、外交文書においてもツァーリの称号を用いて各国君主、教皇などと外交交渉を行った。ただし、この段階では「全ルーシのツァーリにして大公」という形でこの称号は用いられており、かつてのローマ帝国、ビザンツ帝国を志向した帝国というより、むしろキエフ公国(キエフ・ルーシ)の延長上に自らの国家を位置づけていた。
ただし、モンゴル支配時代(モンゴル帝国)には、サライに君臨するジョチ・ウルスのハンを指して「ツァーリ」と称する用例も見られ、必ずしも単純に、上記のよう位置づけるのが妥当かどうか疑問ともされる。また、ローマ・ビザンツ帝国をロシアが継承するという「ロシア=第3ローマ」論に見られるように、ツァーリという称号はローマ・ビザンツの継承者の称号として用いられたとする説もある。これらに関しては、イヴァン4世は西洋のツァーリ(カエサル)と東洋のツァーリ(ハン)を継承する称号として「ツァーリ」を称した、という説が有力である。
1721年、大北方戦争に勝利して祝賀ムードが高まる中、ロマノフ朝のツァーリであったピョートル1世は元老院(ピョートルの時代に創設)から、「インペラートル(Императорイムピラータル)」、「祖国の父」、「大帝」といった称号を認められた。これは古代ローマ帝国の「インペラトル」由来のもであり、インペラートルの理念はルーシ世界の統治を志向したツァーリの称号とは異なり、ロシア帝国の皇帝という意味合いの強いものであった。上記の西洋・東洋のツァーリを継承したという説に基づくと、ピョートルがインペラートルの称号を用い始めたことは、ロシアがユーラシア国家の枠組みからヨーロッパ国家の枠組みに変貌したことを意味している、と指摘されている。しかし、その後も歴代のインペラートルは、民衆にも馴染みの深いツァーリの称号もあわせて使用し続けた。
ツァーリの称号は、1917年のロマノフ朝滅亡まで用いられた。ロシア革命で退位を余儀なくされるニコライ2世が最後のツァーリであった。
[編集] 脚注
- ↑ ビザンツ時代の公用語であるギリシャ語では「カイサル」。ビザンツでは皇帝の称号の一つではあったが、単に「カイサル」といった場合は副帝を指した。
- ↑ ただし、中期ビザンツにおいては、一般的に皇帝の称号は「バシレウス(中世以降のギリシャ語ではヴァシレフス)」である。