阮朝
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阮朝(グエンちょう、vi: nhà Nguyễn)は、ベトナム(越南)の最後の王朝。1802年 - 1945年。タイソン朝(西山朝)に破れて滅亡した広南阮氏の生き残り、阮福暎(グエン・フク・アイン)が、タイソン朝を打倒して建国した。都はフエ(トゥアンホア/順化、フースアン/富春)。
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[編集] 歴史
[編集] 建国
阮朝の世祖高皇帝(嘉隆帝)阮福暎(阮映)は、大越黎朝(黎中興朝、後期黎朝:1532-1789)の時代に現在の中南部ベトナムを支配していた地方王権 広南阮氏の出身である。黎中興朝時代、黎朝帝室は実権を失い、北ベトナム・ドンキン地方(東京)を支配する東京鄭氏(鄭王)と南の広南阮氏(阮王)という二大地方王権が分立し、両者はソンザイン(霊江)を国境として対峙していた。この南北両国を当時の口語史料はスーダンチョン・スーダンゴアイと呼び、文語史料は南河国・北河国と呼び、中国・日本の史料は広南国・東京国(交趾国)と呼び、欧文史料はコーシャンシーヌ(コーチシナ)・トンカン(トンキン)と呼ぶが、両氏とも公的には大越皇帝(黎帝)の臣下を名乗り、独立の国号や帝号、年号を持つことは無かった。
広南阮氏は1774年に中部南方のタイソン(西山)・クイニョン(帰仁)から北上してきた西山阮氏と北部タンロン(昇隆=現ハノイ)から南下してきた鄭氏の連合軍に首都フースアン(富春=今のフエ市キンタイン地域)を落とされ、1777年には逃亡先の南部ザーディン(嘉定=現ホーチミン市)を落とされてほとんどの王族が殺された。広南阮氏の滅亡により黎朝下の南北両国は名目上は東京鄭氏の権勢の下に統一されたが(「皇黎一統」)、実際には広南阮氏の旧領は西山阮氏三兄弟(阮岳、阮恵、阮侶)が占有しており、南北対立の構図は変わらず、南方の王者が中部北方フースアンの広南阮氏から中部南方クイニョンの阮岳(西山阮氏長兄、泰徳帝)に変わっただけであった。広南阮氏消滅後、西山阮氏末弟の阮恵は黎朝の政局に介入し、鄭氏・黎朝を倒して首都をフースアンに移し、大越西山朝を樹立したが、これも北方の王者が北部の東京鄭氏から中部北方の阮恵(光中帝)に変わっただけで、南北分立の構図はそのままであった。結局、西山朝の南北両朝廷(クイニョン朝廷・フースアン朝廷)もまた対峙・抗争に突入した。
1777年以後シャムに亡命していた阮氏の生き残り阮映はシャム王とフランス王の支援を受けて粘り強く西山朝への攻撃を継続していたが、西山朝の内紛を衝き、10年の戦いの後に西山朝を打倒した。1802年に首都を中部北方のフースアン(フエ)に定め、広南阮氏を再興(但し、1802年以後は越南阮朝と称する)、年号をザロン(嘉隆)と改めた(この年号は南の嘉定の「嘉」と北の昇隆の「隆」を統合した象徴とされる)。1804年には中国の清から越南国王に封ぜられ、ベトナム国(越南国)を正式の国号とし、阮朝は清に朝貢を行って形式上従属したが、国内や周辺の諸民族・諸国に対しては皇帝を称し、独自の年号を使用し、「承天興運」を国是として、ベトナムに小中華帝国を築き上げた。国号・国是と年号は国内の公文書の冒頭に必ず記載された。阮朝は現在のベトナムにほぼ等しい領域を支配した最初の統一政権であった。
1815年、嘉隆律例が発布され、中国的な制度が導入される。第2代の聖祖仁皇帝(明命帝)の時代には清の制度に倣った中央集権化が推進され、科挙制度や省区分の地方制度が整備された。ヨーロッパ諸国との関係では、建国当初は親フランス的であったが、中国的な支配体制が整備されていくにつれて排外的な傾向があらわれるようになり、明命帝はキリスト教を禁止し、排外政策に転じる。
[編集] フランスの侵略
一方、19世紀後半に入ると、フランスがインドシナ半島への進出を強めた。
- 1847年 - フランス艦船がダナン港で阮朝艦船5隻を撃沈。
- 1851年 - 1857年 - 阮朝がフランス、スペインの宣教師を斬首刑に処す。
- 1858年 - ダナン陥落。フランス・スペイン連合軍がダナン港占領。
- 1859年 - サイゴン(今のホーチミン市第一区、第二区)陥落。フランス軍がサイゴン占領。
- 1861年 - ミト、ジャディン陥落。
- 1862年 - ビエンホア、ヴィンロン陥落。
- 1862年 - 第1次サイゴン条約。阮朝はフランスに対し3港の開港、コーシャンシーヌ(南圻)東部三省の割譲等を約束
- 1867年 - フランス軍がコーシャンシーヌ(南圻)全省を征服。
- 1873年 - ハノイ陥落。しかし、フランス軍は12月に清の黒旗軍に敗れる。
- 1874年 - フランス・ベトナム条約。阮朝はコーシャンシーヌ(南圻)六省全省をフランス直轄領とすることを承認
- 1882年 - ハノイ再び陥落。
- 1883年 - フランス・ベトナム条約。アンナム(中圻)を王ある保護領とし、トンカン(北圻)を王なき保護領とする
- 1884年 - パトノートル条約。阮朝領土全域を征服
- 1885年 - 旧暦5月23日、フエ陥落(「失守京都」)。阮朝の権威は完全に失墜。フランスが清仏戦争に勝利して天津条約締結。清がフランスの阮朝領土(越南国)保護領化を承認
天津条約により、阮朝領土(越南国)は三圻に分断され、それぞれフランスの植民地(南圻:直轄領、中圻:王ある保護領、北圻:王なき保護領)とされ、阮朝はアンナム(中圻)においてのみ名目上の王権を維持するフランスの傀儡となった。ただし、その権威は依然として南圻・北圻でも維持され、阮朝の年号も1945年まで越南三圻全域で継続して使用された。
[編集] 王朝の終焉
- 1940年 - 日本軍の北部仏印進駐
- 1945年3月11日 - 日本軍の反仏クーデターで、保大帝が越南国の再興、ベトナム帝国としてフランスからの独立を宣言(但し、事実上は日本の傀儡政権)
- 1945年 - 八月革命で、ホー・チ・ミン(胡志明)がベトナム民主共和国の独立を宣言。保大帝ことグエン・フク・ディエン(阮福晪)はアンナン王(越南皇帝)を退位して一市民ヴィン・トゥイ(阮福永瑞)となり、ハノイ(河内)のベトナム民主共和国政府顧問に就任。これにより、阮朝は最終的な終焉を迎える。
[編集] 阮朝の歴代皇帝
- 嘉隆帝 (ザロン‧Gia Long)阮福暎Nguyễn Phúc Ánh - (1802年 - 1820年)
- 明命帝 (ミンマン‧Minh Mạng)阮福晈Nguyễn Phúc Kiểu - (1820年 - 1841年)
- 紹治帝 (ティエウチ‧Thiệu Trị)阮福暶Nguyễn Phúc Tuyền - (1841年 - 1847年)
- 嗣徳帝 (トゥドゥク‧Tự Ðức)阮福蒔Nguyễn Phúc Thì - (1847年 - 1883年)
- 協和帝 (ヒエプホア‧Hiệp Hoà)阮福昇Nguyễn Phúc Thăng - (1883年)
- 建福帝 (キエンフク‧Kiến Phúc)阮福昊Nguyễn Phúc Hạo - (1883年 - 1884年)
- 咸宜帝 (ハムギ‧Hàm Nghi) 阮福明Nguyễn Phúc Minh- (1884年 - 1885年)
- 同慶帝 (ドンカイン‧Ðồng Khánh) 阮福昪Nguyễn Phúc Biện- (1885年 - 1889年)
- 成泰帝 (タインタイ‧Thành Thái) 阮福昭Nguyễn Phúc Chiêu- (1889年 - 1907年)
- 維新帝 (ズイタン‧Duy Tân)阮福晃Nguyễn Phúc Hoảng - (1907年 - 1916年)
- 啓定帝 (カイディン‧Khải Ðịnh)阮福昶Nguyễn Phúc Tuấn- (1916年 - 1925年)
- 保大帝 (バオダイ‧Bảo Ðại)阮福晪Nguyễn Phúc Thiển - (1926年 - 1945年)