プロイセン
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プロイセン(Preußen)はバルト海沿岸の地域。
ホーエンツォレルン家が支配した王国についてはプロイセン王国を参照せよ。
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[編集] 領域・由来
プロイセンの領域は西は後ポンメルンでドイツに接し、東はメーメル川を境にポーランド・リトアニアに隣接、ヴァイクセル川(ポーランド名ヴィスワ川)で東西に分けられる。プロイセンの住民のほとんどは第二次世界大戦後に逃亡したり追放されたりしてドイツに移住し、領域はロシアとポーランドに分割されたため現在ではプロイセンという地域・国はない。
プロイセンという名前は、プルーセン人またはプルッツェン人として知られるヴァイクセル河口付近に居住した先住民に由来する。民族大移動以降はソルヴ人やカシューブ人のようなスラヴ系民族も移住してきたが人口は希薄な未開の地であった。またもう一つの説では、ロシアあるいはルーシの近くをプロシアと呼んだことから来ているとも言われている。
[編集] キリスト教伝来
977年プラハのアーダルベルトによってこの地域にキリスト教が伝えられたがプルーセン人は服さず、アーダルベルト司教は997年4月23日斧で打ち殺された。ピャスト家のポーランド大公ミェシュコ1世とその子ボレスワフ1世は神聖ローマ皇帝オットー1世やその後継者たちと封建的主従関係を結んだことによりオーデル川以東の支配権を得たが、プロイセンはその後も長くキリスト教化されなかった。
[編集] 東方植民による騎士団の支配
1217年ころ、マゾフシェ侯コンラート1世は異教徒プルーセン人に対する征服を企てたがローマ教皇の呼びかけにも周辺の諸侯は応じず、クルムラントの領有権と引き換えに協力を申し出たのはドイツ騎士団であった。1226年総長ヘルマン・フォン・ザルツァに率いられ、ドイツ騎士団による東方植民が始まる。この征服戦争は東方十字軍とも呼ばれ、改宗に応じない先住民は容赦なく殺戮されるという凄惨なものだった。
1228年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の発したリミニの金印勅書により騎士団のプロイセン領有が認められ、1230年に結ばれたクルシュヴィッツ条約に基いてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンの全ての権利を認めたため、ドイツ騎士団はプロイセンの領有権を確立、ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)やダンツィヒ(現ポーランド領グダンスク)などの都市を拠点に騎士団領が発展していった。残忍な征服者に対し先住民は頑強に抵抗し1260年に大反乱、1283年に至ってなお反乱が見られた。だがドイツ騎士団の軍事的優位は動かしがたく、14世紀前半までにプロイセンはキリスト教化された。文字を持たなかったプルーセン人は記録を残さず、わずかに生き残った人々も次第にドイツや周辺地域からの移民に同化されたため、今ではこれら先住民のことはほとんど分からない。
ドイツ騎士団領プロイセンは20の大管区に分割されており、各地の修道院を拠点に管区長が選挙で選ばれた総長の指示に従って統治するという中央集権的で能率のよいシステムに基いて運営されていた。騎士団員は修道士の戒律に従い私有財産の所有も妻帯も許されなかったが、ドイツからは領土を持たない貴族の子弟が次々と入会してきたため人材は豊富で、移民の受け入れも盛んだったため14世紀中葉には騎士団領は繁栄の頂点にあった。この移民をよく受け入れる気風はずっと後の時代にまで及び、プロイセン王国の繁栄の基礎となった。
しかしポーランドもヤギェウォ朝の支配の下に勢力を拡大しており、プロイセンの住民もドイツ人支配からの解放を望んだため、1410年ドイツ騎士団はタンネンベルクの戦いでポーランド・リトアニア連合軍に大敗を喫し、1411年の第1次トルンの和約で領土の一部を失った。1454年より再び戦いが勃発し、1466年第2次トルンの和約が結ばれて西プロイセンの全域と東プロイセンの一部がポーランド王の領土となり、残された東プロイセンを保ったもののポーランド王に服従する封建臣下となった。
[編集] ホーエンツォレルン家の支配
1511年総長に選出されたホーエンツォレルン家のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハは1525年ルター派に改宗、領内の騎士団を解散して世俗の諸侯となりプロイセン公国を創始する。1568年、アルブレヒトの死にともなって、同じくホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒは、アルブレヒトの子アルブレヒト・フリードリヒと共にポーランド国王からプロイセンの共同相続を認められ、同君連合への道を開いた。
1618年プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの死によりプロイセンにおけるホーエンツォレルン家は断絶し、プロイセンはヨアヒム・フリードリヒの子ヨーハン・ジギスムント選帝侯がプロイセン公を兼ねる同君連合となる。このころはまだ選帝侯の領土は各地に分散した飛び地ばかりであり、プロイセンもその1つに過ぎなかった。
17世紀に入ると新興のスウェーデン王国がバルト海に勢力を伸ばし、またロシア帝国もポーランド王国と対決する。この過程でポーランドは弱体化し、プロイセンの自立化が進む。1660年フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯はプロイセン公国をポーランドの宗主権から解放した。1679年大選帝侯はスウェーデンよりポンメルンを占領し、ドイツへの影響力を排除した(1720年に獲得)。海軍も強化し、バルト帝国に君臨したるスウェーデンのくびきをいち早く脱して強国への足掛かりを築く。
[編集] プロイセン王国
1701年大選帝侯の子、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクに赴きプロイセン王として即位、フリードリヒ1世となる。当時、三十年戦争で疲弊したとはいえ神聖ローマ帝国の威光はいまだ衰えず、皇帝の臣下に過ぎないブランデンブルク選帝侯が王位につける見込みほとんどなかった。そのような僭越が許されたのはスペイン継承戦争に備えて皇帝レオポルト1世が一兵でも多くの軍勢を集めねばならず、フリードリヒ1世が8000の兵を援軍として送ることを約束したからである。これによりブランデンブルク選帝侯は帝国の領内ではないプロイセンにおいて王であることが許された。しかしこの称号はプロイセンの中だけの、いわば格下の王号であって、ブランデンブルク選帝侯が正式にプロイセン国王として認められるにはフリードリヒ大王による西プロイセン獲得を待たねばならなかった。王国においてむしろ北辺に過ぎないプロイセンがこのホーエンツォレルン家の支配する国の名となったのは、プロイセン公国がどの大国にも属さない独立国家だったからなのである。そして大北方戦争後期の敗勢のスウェーデンから前ポンメルンを獲得するなど、バルト海地域の勢力図を塗り替えていった。
このあとプロイセン王国はホーエンツォレルン家の支配の下軍事大国への道を歩んでいく。移民を受け入れる伝統は新たな王国に受け継がれ、プロイセン地方にはフランス王国やザクセン公国などから追放された有能なユグノーたちが移住してきて産業を振興させた。1772年にはフリードリヒ大王による第一次ポーランド分割の結果西プロイセンもプロイセン王国領となった。
[編集] 解消
プロイセン王国は19世紀後半さらに勢力を増し、1867年北ドイツ連邦の盟主となる。さらに1871年プロイセン国王ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝となったが、皇帝自身はそれがドイツ帝国によるプロイセン王国の併合だと感じ、嫌悪感を隠さなかった。事実プロイセン王国意識は急速に薄れていき、皇帝ヴィルヘルム2世がプロイセン王を名乗ることはもはやほとんどなかった。プロイセン地方もまた大帝国の中では影が薄くなってしまった。
1918年、第一次世界大戦におけるドイツ帝国の敗戦にともないプロイセン王国はヴァイマル共和国の一邦となる。西プロイセンはポーランドに割譲されて「ポーランド回廊」と呼ばれ、これによって東プロイセンはドイツ本土と隔てられた飛び地となった。この地域に対するドイツの領土要求が第二次世界大戦勃発の原因となる。
1933年フランツ・フォン・パーペンのクーデターによりプロイセン州内閣が解散させられ、プロイセン王国の名残りであった州はナチ党政権下で大管区に分割されて完全に消滅した。第二次世界大戦中のプロイセン地方はドイツ軍が劣勢になるにしたがって東部戦線の戦場となり、プロイセンの人々は敗戦直前の混乱の中でソ連軍を恐れて大量の難民となって西方に押し寄せた。このときプロイセンに留まった人々もまた戦勝国の復讐的な占領政策の対象として土地を追われることになり、 これによってポーランドやロシアなどの住民がプロイセンに流入した。いわゆる「ドイツ人」ではないスラヴ系の少数民族は追放を免れたが、あまりに激しい人口の入れ替わりのためプロイセン地方固有の文化はほとんど失われた。 終戦後の1947年2月25日連合国管理理事会法令47号によりプロイセン国家の解体が宣言されたが、とうの昔にプロイセン国家などというものは存在しなくなっていた。
[編集] 現在のプロイセン
戦後プロイセンはポーランドとソ連に分割され、リトアニアに接する北部はロシア共和国カリーニングラード州になり、その他の地域はポーランドに帰属した。現在ポーランドの支配する地域で東プロイセンにあたる地域はオルシュティン(ドイツ名アレンシュタイン)に県庁を置くヴァルミア・マズールィ県となり、西プロイセンに当たる地域はポモージェ県(県庁所在地グダニスク)に含まれている。
敗戦直後までプロイセンを構成していたドイツ系の人々は今ではほとんどドイツに溶け込み、その方言や習慣などは故郷を覚えている高齢者のなかで細々と保たれている。 混乱の中で追放されなかった少数の住民もまたポーランドとソ連の支配下ではプロイセン人としてのアイデンティティをほとんど放棄せざるを得なかった。 ドイツへと避難した人々はすでに周囲に同化しているが一定の団結を保ち、保守派の一翼を担っている。これらの人々はもはやほとんど祖国への帰還を望むことはないが、中には1990年に最終的に確定したドイツとポーランドの国境、オーデル・ナイセ線に異議を唱える人もいる。