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北宋 - Wikipedia

北宋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

北宋(ほくそう、960年 - 1127年)は、中国王朝の一つ。趙匡胤五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号はであるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。南宋もともに、宋、宋朝である。北宋期の首都は開封

十一世紀の北宋
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十一世紀の北宋

目次

[編集] 歴史

中国歴史
東周
北宋
中華民国(台湾)
(参考:
台湾問題

[編集] 建国

後周の殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤が後周の最後の皇帝から禅譲を受けて建国する。趙匡胤は他の十国を征服し、分裂状態の終止を目指すが、志半ばにて病死する。

後を継いだのは弟の趙匡義(趙光義)であるが、この継承には不明な点が多く千載不決の議と呼ばれる。太宗となった趙匡義は兄の事業を受け継いで中国の統一を果たし、科挙制度の充実を図る。科挙制度は太宗の子真宗の代で完成されたといわれる。

[編集] 澶淵の盟

科挙制度の確立は皇帝独裁権の確立をもたらしたが、同時に過度の文官優遇により軍事力の衰退をもたらした。

1004年、北方のが南下して宋に侵攻してきた。真宗は親征軍によりこれを迎え撃ち、遼に対して毎年財貨を送ることで和睦した(澶淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西のタングート族は西夏を名乗って宋に反旗を翻していたが、こちらにも1044年、財貨を送ることで和睦した(慶暦の和約)。

この盟約により平和を獲得した宋は圧倒的な経済力を背景に高い文化の華を開かせる。この時期には絵画・陶磁器漢詩などいずれの分野でも中国歴代でも最高峰と称される作品が少なくない。また経済の発展と共に一般民衆の経済力も向上し、首都開封では夜になっても活気は衰えず、街中では自由に市を開く事が出来、道端では講談や芸人が市民の耳目を楽しませていた。

また後世において、遼や西夏(後に南宋時代の金も含めて)財貨を贈る事で平和を買ったことを財政面や民族主義的な側面から非難する意見もあるが、これによって遼や西夏の支配階層を堕落させて結果的には相手国の軍事力の弱体化を招いただけでなく、絹織物や陶磁器、茶などを愛好する習慣がこれらの諸国の社会全体に広まったために輸入量が激増して結果的には贈った財貨を上回る財貨が宋側に還流する事になり、結果的には宋の経済力の強化に繋がったとみる見方もある。

[編集] 新法・旧法の争い

しかしその経済的発展の裏側で社会的な矛盾は進行しており、民衆の間での経済的格差は非常に大きな物となっていた。また遼・西夏に対しての防備に使われる軍事費が国家財政の大きな負担になっており、また大商人・大地主の囲い込みによる税収の減少は無視できない状態になっており、何らかの改革が求められた。

六代皇帝神宗王安石を登用して国政改革にあたらせた。この動きは新法・王安石の新法などと呼ばれる。この新法は主に零細農民の保護と大商人・大地主の抑制を目的とした物であったが、新法は地主・商人勢力とそれらの出身である官僚との大反対を受ける。これらの反対派の事は旧法派と呼ばれる。

この新法派と旧法派の争いは日に日に激しさを増していった。新法派の王安石に対して、旧法派の首領は司馬光である。この二人の生きている間は党派争いはまだしも高い理念による物であったが、両者の死後はひたすらに党利による理念抜きの争いに堕した。新法派が勝つと旧法派の官僚は一気に中央から遠ざけられ、法律を全て改定され、その後に旧法派が盛り返すと今度は逆の事が行われるといった有様であった。

この様な事が国家体制に影響をもたらさない訳が無く、次第に宋の国体は傾いていった。

[編集] 滅亡

八代皇帝徽宗は非常な芸術的才能を備えており、その絵画は北宋のみならず中国歴代でも最高峰の一人とされる。しかし皇帝として行った事は、蔡京、李彦、童貫など皇帝に取り入って利益を得ようとする側近達に影響され自らの芸術のために巨大な庭石や庭木を遥か南方から運ばせて巨額の国費を使い(花石綱)、その穴埋めのために新法を転用して、増税を行うといった状態であった。これに対する民衆反乱が頻発し、国軍はその対応に追われていた。この時期の反乱の一つにヒントを得て、話を膨らませていき、講談として広まり、後に集大成された物が『水滸伝』である。

その中で長く北方の宿敵である遼は中国の東北地方満州から興ってきた女真族の脅威を受けていた。女真族は遼の様々な搾取に対抗する為団結し1115年に自らの国であるを建てた。この女真族に目を付けた宋政府は金に対し、共同で遼を攻めることを約束した(海上の盟)。

1121年と共同して出兵をし、遼を滅ぼし、燕雲十六州の一部を取り返した(しかし返還前に燕雲十六州全土は金軍による略奪と住民の北方への移動が行われており、当分その地方からの税収は望めなかった)が、その後金に対抗するために遼の残党と手を結ぼうとしたため金の怒りを買い、1127年に開封を落とされ皇帝・欽宗、上皇・徽宗を北方へ連れ去られた。これを靖康の変と呼ぶ。欽宗の弟である趙構が南遷して杭州で皇帝を宣言し、地形や気候の関係で金の影響力が強く及んでいなかった淮河以南の地を確保して宋を再興した。 これ以降は南宋と呼ばれる。

[編集] 政治

[編集] 文治主義

が各地に軍閥とも言える節度使の割拠を許し、続く五代十国時代の騒乱に至ったことに鑑み、太祖・趙匡胤にはじまる宋朝政権は、各地の有力者の勢力をそぐとともに、殿試を実施するなど、科挙を本格的に運用し始め、名実ともに文臣官僚制が完成の域に達した。以前、南北朝時代五胡十六国時代、五代十国時代といった群雄割拠の状況は、これ以降の中華王朝では、近代にいたるまで見られなくなる。

宋代の支配体制は唐代の貴族層が五代十国の騒乱で没落した後に、士大夫と呼ばれる新しい層が中心となる。士大夫は教養を持った富裕市民と言うような存在であり、学問を積み、科挙に合格する事で官僚となる事で、貴族のように血縁により尊崇されるのではなく、科挙の合格者を出して顕官に登る事で周囲の尊敬を集め、地方の顔役的存在となり、財産を築く。反対に言えばどんなに財産を積んでいようと出世する人間がその一族から出なければ、尊敬は受けられず、財産もいずれは消滅してしまう事になる。

皇帝が、これらの士大夫出身の官僚を手足として使い国政に当たる体制は、「皇帝専制」、「君主独裁」とも称される。ただ、その一方で、真宗の没後に年少若しくは病弱な皇帝が相次ぎ、宋皇室とは血縁関係のない、皇太后及び太皇太后が皇帝の職務を代行し、政治を安定させたことは注目に値する。

これらの士大夫層は官僚であると同時に地主・大商人であり、かつ文化の担い手でもあった。これ以降の中国で次の代を除けば、歴史の表舞台に登場するのはほぼ士大夫に限られ、それ以外ではヌルハチのような王朝創設期の人物とその周りにいる存在かあるいは李自成洪秀全と言うような反乱指導者になる。

[編集] 科挙制度

文帝により始められた科挙制度だが、科挙が真の意味で効力を発揮しだしたのは宋代だと言われる。では科挙を通過しても貴族層の妨害に遭い、何年も官途に就けない事があった。韓愈がその例である。宋代になると貴族層の没落により、そのような事は無くなった。

宋代における科挙の主な変更点としては、まず殿試を行い始めた事である。それまでは地方での第一次試験である解試、中央での第二次試験である会試の二種類があり、更にその上に皇帝の目の前で行われる殿試を作ったのである。当初は殿試により落第する者もあったが、落第する者は基本的に無くなる。またそれまで多数あった科挙の科目(教科の事ではなく、受験のコース)を進士・明法などに絞り、神宗期に進士科一本に絞った。これ以降は科挙の合格者を進士と呼ぶようになる。

科挙制度に置いては毎年の試験官がその年の合格者と師弟関係を結び、それが官界における人脈の基礎となる。落第者のいない殿試が存在する意味もここにあり、皇帝との間で師弟関係を結ぶ事で皇帝に直属する官僚と言う意識を生み出すのである。

宋代は歴代でも非常に科挙の盛んな時代であり、ほぼ3年に1回行われ、一回に付き3~400人が合格した。ちなみに主席合格者の事を状元と呼ぶ。

宋代にはそれまでに見られなかった個人が国家を背負うような気概が見られる。新法・旧法の争いにせよその気概があったからこそあれほど争いが激しくなったとも言える。その源となったのは科挙により実力で地位を勝ち取ったと言う誇りだと思われる。宋代を通じて官僚と官僚予備軍の学生達の勢力は非常に強く、学生達の運動によって時の宰相が罷免される事もあった。

[編集] 官制

宋の官制は北宋の元豊年間を境に大きく変化している。宋初以来この元豊改革までは、五代の影響を大きく受け、唐制における官名が寄禄官(俸給表)と化し実職を表さないなど、唐制や明清の官僚体系からは分かりにくい形をとっていた。例えば六部の侍郎や員外郎は、実際に六部の仕事をするのではなく、俸給のランクを表しているのである。

この時代の官制を簡単に述べれば以下のごとくである。中央官制は形は旧来の三省六部・九寺・五監を保持している。この中の中書省が門下省の権限を吸収した形で権限が集中化されて宰相府となっており、宰相は同中書門下平章事と呼ばれ、1名ないし3名が選ばれ、副宰相として参知政事が数名選ばれる。

宰相府は民政を担当し、軍事を担当するのが枢密院である。枢密院の長官・枢密使と副長官・枢密副使に参知政事を合わせて執政と呼び、宰相と執政が全体の政務にあたる。

行政機関である六部・九寺・五監であるが、これらにはあまり実質は無く、代わって実際に行政を行うのが使職と呼ばれる役職である。

  • 三司 - 財政。
  • 御史台 - 官僚の監察。
  • 審官院 - 人事。
  • 太常礼儀院 - 祭祀。
  • 審刑院・刑部・大理寺 - 裁判。

などの役職がある。

旧来の役職名は仕事の内容を表す物ではなく、その仕事がどのような位階に存在するかを示す物となっている。つまり唐代の三品の上とか九品の下と言ったものと同じである。

地方官制における最大の行政区分(語の意味としては監察の範囲)がであり、その下に、その下にがある。州の長官は知~州(~の部分には州の名前が入る)と呼ばれ、その副官として通判という役が付けられる。県が行政の末端単位であることは、他の時代と変わらない。

だが、北宋元豊年間に、三司の仕事を戸部が行うようになり、六部の官名は実職を表すようになるなど、唐以来の形に整理され、その後北宋後期から南宋に受け継がれた。なお、地方制度に関して言えば、元豊官制改革はそれほどの影響を与えていない。

なお、宋代は宦官の影響があまり記録に残されていない。無論童貫など知られた宦官もいたが、その他の時代に比較すればそれほどの存在の大きさではなかった。

[編集] 兵制

宋の兵制は傭兵制である。太祖は節度使らの権力を削ると同時に、自らの出身母体である禁軍(近衛軍)を強化して、これを正規軍とした。この政策により中央の力を強めて節度使が地方に割拠するのを抑えるためである。しかしそれだけではなく、自らが禁軍の司令官から皇帝になった事を鑑みて、禁軍の制度を改変して全軍の司令官職を廃止して皇帝直属とし、その下部の存在としてしか将軍を使わない事に決めた。

正規軍の禁軍と輜重兵である廂軍とがあり、常備軍は北宋中期に140万を数えた。

しかし数だけ多く、実際の戦闘となると不安な兵士が多かったようであり、また、文人重視主義の為武人は蔑視され、結果、兵士のなり手を探すのに苦労することもままあり、兵士には罪人出身者が目立つこともあった。

このような傾向への対策のひとつとして、王安石は保馬法と言う軍制改革案を出している。保馬法は軍馬を飼育する事を奨励するためのものであり、歩兵が多い宋軍が騎兵を増やす事で戦力の向上を狙ったものである。

[編集] 改革

宋は官僚が歴代王朝の中で最も優遇された時代であり、給金だけでなく事ある度に皇帝からの下賜があり、官僚を引退した時にも多額の金銭が渡された。それに加えて無駄な官僚の数も非常に多く、国家の負担として改革がどうしても必要となった。

財政・軍事を中心とした王安石の改革が行われ(王安石の項を参照。)、地方制度では保甲制と呼ばれる制度を導入し、10家を1保とする集落の最小単位を作った。

王安石が中央を去った後の1080年に神宗の主導により官制の改革が行われた。それまでの二重体制を改めて、名称(唐制)と実権を一致させ、形式的には三省六部制を復活させた。しかし中身は同じではなく、それまで作られてきた宋独自の制度である使職などの役職の上に唐の名称の服を着せたようなものである。

[編集] 経済

この時期になると江南の経済力は圧倒的になり、華北は消費社会として江南からの食料によって支えられる事になる。

宋は農業・商業の上で著しい変革が見られた時期であり、宋の経済力は非常に高いものがあった。遼との澶淵の盟で払う事になった絹20万匹、10万両と言う額はいかにも巨額なものであるが(銀で一括すれば約11トン)、真宗は「10倍の額になるかと思っていたが、この程度で良かった」と言っている。もちろんこれは大げさに言ったのだろうが、それでも宋に余裕がまだあった事は確かであり、真宗が封禅の儀式を行う際に使った費用は澶淵の盟の額の60倍と言う。

科挙発達の影には、受験勉強を可能にする紙や印刷技術の普及がある一方、科挙に成功して、その人格を社会的に認められた人物が土地を寄付されて大土地所有の景観が変わり、さらに科挙に失敗した知識人たちが訴訟ゴロ(宋代には「嘩徒」、では「訟師」などと称される)となり訴訟の激化(健訟)を招くなど、この時期には、明清期に通じる、多くの社会的変化が見られた。

[編集] 農業革命

中国の人口は前漢末の2年に5600万になり、その後は戦争による減少と増加を繰り返している。その間に人口6000万を越えた事は一度も無い。しかし北宋に至り6000万を突破して1080年の試算では9000万となっている。これ以降は1億を限界点として、清代まで減少と増加を再び繰り返す。この人口を支えたのが新しい農業である。唐代までに大きく発展した鋤などの農機具を背景として、南のベトナムからもたらされた占城稲という安定性のある早稲が導入され、また米と麦の二毛作が拡大した。中国全土の経済の重点は、この時期までに確実に華北から江南へと移動した。さらに地域によっては果樹養蚕などの生産を行い、農業の分業化が進んだ。

これらの収益により財産を積み上げた者には、形勢戸と呼ばれるものがあり、彼らの中には税の運搬・官僚の接待など(役と呼ぶ)が政府より義務として与えられる代わりに徭役などで優遇されるものが多かった。また一族から官僚を出した者は官戸と呼ばれ、役も免除される事になっていた。

[編集] 水運

食料の増産に対して、それを運ぶための水運も非常に発達した。煬帝によって作られた黄河長江を結ぶ運河を基本として、非常に細密な運河網が築かれており、運河は全国の4分の3の地域を網羅していた。首都・開封はこの運河を使用することを前提にした都市であり、内部を運河が貫通している。

またそれまで軽視されていた海運技術が大幅に向上し、頑丈なジャンク船が開発され、日本朝鮮から東南アジアインドまでを舞台とした貿易網が発展していく。

[編集] 商業

物資の増産と交通網の整備は商業を活発化させる。行と呼ばれる商人ギルドが誕生し、年の商業形式が整えられていく。これに伴い、約束手形が通用するようになり、四川陝西では世界初の紙幣である交子が発行され流通した。交子は地域が限定されており、かつ期限が切れると無効になってしまうものであるが、それでもこの意義は大きく、北宋の商業の発達を示す物である。

また唐代までは都市は夜になると門を閉じてしまい、都市内の各地区も出入りが禁じられた。しかし宋代にはこれらが取り払われ、開封では夜になっても路上に商店が立ち並び、にぎやかであった。この様子が『東京夢華録』の中に生き生きと描き出されている。

[編集] 税制

税制は宋代を通じて唐・五代十国から引き継いで両税法が行なわれた。全国の戸を土地を持ち、税を納める戸である主戸、土地を持たぬ客戸に分類し(主戸客戸制)、主戸は五等戸制の下に、五等のランクに分類され、夏と秋に穀物を徴収された。しかし、現実に人々の重課になったのは、強制労働(実際にはしばしば銭による代納)である、職役)である。主戸のうち財力に富む一等戸・二等戸は職役を負担したが、この負担はたいへん重いもので、しばしば家計を圧迫・破綻させる要因となった。

[編集] 文化

宋代の初期には、皇帝の詔勅による文化事業として、「四大書」と総称される大部な書物の編纂が、相次いで行われた。978年太平興国3年)の『太平広記』500巻、983年(太平興国8年)頃の『太平御覧』1000巻、986年雍煕3年)の『文苑英華』1000巻、1013年大中祥符6年)の『冊府元亀』1000巻である。

宋代には経済の発達と共に各種の実用技術の発達も見られており、方位磁石の発明がなされている。また火薬印刷の技術も本格的に運用されるようになり、社会の様々な面で利用されるようになった。

市民経済の勃興により、それまで一部の官僚・貴族に独占されていた文学・思想などが市民の間にも行われるようになった。

[編集] 思想

[編集] 儒教

科挙の隆盛により、知識人はほぼ完全に儒教を基礎とする人物となった事で、宋は歴代でも儒学の強い時代である。その儒学の中で周濂溪程伯淳程伊川張子厚によって道学と呼ばれる新しい学問が始まり、後に朱子によって集大成されて朱子学となる。この学問はそれまでの古典の解釈を中心とした物から、自らの考えによる窮理を行う物へと変化させた物である。

[編集] 仏教

宋代の仏教は、太宗真宗の時代に、国家事業として、伝法院という国営の施設で行なわれた、234部489巻という大掛かりな訳経事業に始まる。これは、施護や法賢といった外来僧を中心として行なわれたものである。ただ、この宋代の新訳経典の多くは、当時、最末期であったインドの仏教状況の影響を受け、ほとんどが密教に属する経典であった。唐代までの講学中心の仏教は、宋代ではあまり振るわず、実践的な教義を持っていた禅宗浄土教が盛んとなった。

[編集] 道教

道教は宋代には皇室と結びついて大きく隆盛した。歴代でも珍しい太平興國・大中祥符などの四文字元号は道士たちの示唆によるものである。また民間道教である真大道教、太一教、全真教がこの時期に興っている。

[編集] 文学

宋における文学は唐中期の古文運動を引き継いでいる。古文運動とは六朝時代の四六駢儷体と呼ばれる文の美しさを重視した文体から脱却し、それ以前の内容を重視した文章への復帰を目指す運動である。

この流れは『新唐書』『新五代史』の編者として知られる欧陽脩により宋文学の主流となり、唐宋八大家と呼ばれる名文家が活躍した。八大家以外では黄庭堅・范仲淹・司馬光らの名前が挙がる。

この時期の漢詩の特徴としては唐代までの詩には叙情詩が多いのに対して、宋代には非常に日常的で平易な叙事詩が出てくるようになる。この事には科挙出身者が圧倒的に多くなり、彼らは常に理知的でなければならないと自分に課しており、その気持ちが周囲の事柄に対する理性的な観察眼を生むことになったと考えられる。

また唐末期から徐々に増え始めた詞の分野もこの時期に隆盛を迎える。詞は詩と違って、守らなければならない形式が少ないのが特徴で、主に歌われた事柄は恋愛に関することが多い。有名な詞人として女性詞人・李清照の存在は特筆すべきである。

歴史の分野では前述の『新唐書』『新五代史』があり、そして司馬光による編年体の『資治通鑑』がある。『旧唐書』・『旧五代史』はどちらもずさんな事で有名であり、それに不満を持った欧陽脩が自ら書き直した物である。『資治通鑑』は紀元前403年戦国時代の開始から宋が成立する寸前までを書いており、二十四史には入らないものの名著として称えられる。

[編集] 美術

宋代は水墨画山水画の分野の勃興期であり、多くの名品が描かれている。宋代の画壇には二種類の流れがあり、朝廷に作られた翰林図画院(略して画院)と呼ばれる国立美術アカデミーの中で生まれた院体画と民間の士大夫による文人画の二つである。

院体画は形式を重視し、写実的な描写を尊ぶ。代表としては『桃鳩図』などを残した徽宗が挙げられる。文人画は自由奔放で作者の情緒の表現を尊ぶ。代表としては独自の米法山水と呼ばれる山水画の手法を編み出した米芾(べいふつ、芾は草冠に市)が挙げられる。

またの分野では、宋の四大家と言われる蘇軾米芾黄庭堅蔡襄の四人が挙がり、徽宗とその宰相である祭京も挙げられる。徽宗は痩金体と呼ばれる手法を編み出した・

陶磁器の分野では、現在でも陶磁器の街として有名な景徳鎮青白磁の生産を契機に一大生産地となった時期である。また、北宋の時代は、宮廷御用達の汝窯産の青磁、オリーブ緑色の釉薬で知られる耀州窯産の青磁や白磁最高傑作を生み出した河北省定窯、白地黒掻き落としの技法で知られる磁州窯の製品に優品が多くつくられた。このなかでは、日宋貿易により日本にも持ち込まれたものがあり、大きな影響を与えている。

[編集] 国際関係

宋は国際関係においては基本的に無理を避けて、相手との妥協をする事で平和を目指している。この事から宋は意気の上がらない時代だと考えられがちである。しかし戦争ではともかく、経済・政治・文化のあらゆる面で様々な変革があった時代であることは既に書いた通りで、その点を無視して宋を評価してはならない。

[編集] 北方・西方

遼との間の澶淵の盟により遼に対して毎年銀10万両と絹20万匹(後に増額されて銀20万両、絹30万匹)、西夏に対しても銀5万両、絹13万匹、茶2万斤(後に増額されて銀7.2万両、絹15.3万匹、茶3万斤)を送っている。

神宗期には新法により財政が改善した事で気を良くした神宗は西夏に対して遠征軍を出したが失敗に終わっている。

結局、宋初に定まった情勢が覆るのは金によって遼が滅ぼされる時になる。

[編集] 南方・東方

雲南では五代十国時代に南詔が滅んだ後に大理国が建設された。大理は宋に対して朝貢を行い、恭順の意を示してきたので宋との間で良好な友好関係が築かれ、住民の間での混血が進んだ。

ベトナムでは宋初から複雑な権力闘争が続いていたが、1009年李朝が成立した。神宗は前述の西夏と同じようにベトナムに対しても出兵しているが、これも失敗に終わっている。

日本とは平清盛の主導により日宋貿易が行われ、文化・経済の交流が行われていた。

[編集] 北宋の皇帝と元号

宋帝国系図
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宋帝国系図
廟号 統治年数 元号
太祖 趙匡胤 960年-976年 建隆 960年-963年


乾徳 963年-968年
開宝 968年-976年

太宗 趙匡義または趙光義 976年-997年 太平興国 976年-984年


雍熙 984年-987年
端拱 988年-989年
淳化 990年-994年
至道 995年-997年

真宗 趙恒 997年-1022年

咸平 998年-1003年
景徳 1004年-1007年
大中祥符 1008年-1016年
天禧 1017年-1021年
乾興 1022年

仁宗 趙禎 1022年-1063年

天聖 1023年-1032年
明道 1032年-1033年
景祐 1034年-1038年
宝元 1038年-1040年
康定 1040年-1041年
慶暦 1041年-1048年
皇祐 1049年-1054年
至和 1054年-1056年
嘉祐 1056年-1063年

英宗 趙曙 1063年-1067年 治平 1064年-1067年
神宗 趙頊 1067年-1085年 熙寧 1068年-1077年


元豊 1078年-1085年

哲宗 趙煦 1085年-1100年 元祐 1086年-1094年


紹聖 1094年-1098年
元符 1098年-1100年

徽宗 趙佶 1100年-1125年 建中靖国 1101年


崇寧 1102年-1106年
大観 1107年-1110年
政和 1111年-1118年
重和 1118年-1119年
宣和 1119年-1125年

欽宗 趙桓 1125年-1127年

靖康 1126年-1127年


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[編集] 外部リンク

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