開発独裁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
開発独裁(かいはつどくさい、developmental dictatorship、developmental autocrat)とは、経済発展のためには政治的安定が必要であるとして、国民の政治参加を著しく制限する独裁を正当化することである。また、そのような政治運営を通して達成した経済発展の成果を国民に分配することによって、支配の正当性を担保している政治体制を「開発独裁体制」という。
ただし、この「開発独裁」という用語が普及しているのはほぼ日本国内だけであり、欧米諸国ではもちろん、「開発独裁」国家であると名指しされている当該の国家においてさえ、定着している用語であるとは言いがたい。今日、国内で一般に流通している用語であるとはいえ、国内の研究者や専門家らのあいだでは、より明確な定義を与えた「開発主義」という用語が用いられている。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 由来
政治研究者として初めて「開発独裁」という用語を用いたのは、イタリアのグレゴールによる1979年の著作(James Gregor, Italian Fascism and Developmental Dictatorship, Princeton University Press, 1979)であったとされるが(末廣、1994年、211頁)、その後、彼による開発独裁概念が引き継がれることはなかった。
むしろ、欧米諸国でアジア・ラテンアメリカの政治体制を分析するために用いられたのは、「官僚的権威主義 bureaucratic authoritarianism」、「官僚政体 bureaucratic polity」、「抑圧的開発政治体制 repressive developmentalist regime」といった諸概念であった。
日本国内で「開発独裁」という用語がはじめて用いられたのは1980年代前半であるが、比較政治研究者・地域研究者などをはじめとして、日本人政治研究者のあいだでは「開発独裁」という語を用いることにはきわめて慎重であった。
日本で1980年代半ば頃から「開発独裁」という用語がマスコミ上で頻繁に現れるようになったのは、韓国や台湾での民主化運動が高揚し、またアジア各地で開発による負の側面が大きくクローズアップされ、それらの地域の各政権に対する批判が生じてからであった。当時「開発独裁政権」と名指しされたのは、フェルディナンド・マルコスのフィリピン、スハルトのインドネシアなど、東南アジアの反共諸政権であった。
それらの政権はファシズムとは違うため、開発独裁という語が用いられはじめた形跡があるが、その際かならずしも、類似する用語と並べての理論的整理や、概念の精緻化が図られたとは言いがたい。
当初、開発独裁政権と目された諸政権には、1980年代初頭に消滅したものもあれば、冷戦終了後からアジア経済危機後に消滅したものもある。しかし、今日においても「開発独裁」という用語自体は、1980年代後半にアジア諸国に対して批判的に用いられた頃の「語感」のまま、その対象地域を地理的・歴史的に拡散させつつ(ときに不用意に)使用されている。今日でもなお、慎重な検討を要する用語であることに変わりない。
[編集] 権力独占と抑圧された民主主義
フィリピンのマルコス政権やインドネシアのスハルト政権、タイのサリット政権といった「開発独裁」国家では、開発政策を推進する上で、軍部出身者や国家官僚などの少数のエリートが権力を独占して国家運営を行なった。
これらの開発途上国が経済発展・工業化をめざして開発政策を推し進めていくためには、国家の諸資源を一元的に管理して、計画的かつ優先的に経済開発に投入する必要があった。しかし、こうした開発途上国の政治過程に、地域的・党派的・イデオロギー的・宗教的に多様な集団と、それらを代表する政党などが、選挙や議会制民主主義を通じて参入してくれば、各派の利害が錯綜して、それら調整することは難しくなる。実際、限られた国家資源を各派の政治家が争って食い物にしあうような汚職や腐敗も目立った。タイやインドネシアで開発独裁政権が生まれたのは、それに先立つ時期に、そうした「議会政治の失敗」や「政党政治の腐敗」を経験してからのことであった。
開発独裁政権下では、結社の自由や言論の自由が抑圧され、秘密警察・治安警察による社会の監視体制が作られた。共産党の活動はもちろん、政府に批判的な運動は厳しく弾圧され、労働運動も政府の御用組合のみが存続を許されていたにすぎない。
開発独裁の「独裁」とは、他ならぬこうした権力の独占状況と、国内における政治的自由の抑圧状況を指し示しているが、開発独裁政権においても「民主主義」的諸制度が全面的に否定されていたわけではない(この点が複数政党制や普通選挙を否定する共産党指導下の一党独裁制と異なるところである)。
開発独裁政権下では、さまざまな制約下で政党・議会・選挙などの民主的諸制度は存続した。しかし、それらは制度的外観を備えているにすぎないもので、開発独裁政権にとって、それらは政権の「民主的」な正当性を内外にアピールするために必要とされていたにすぎない。実際には、選挙は政府の厳重な監視下に置かれて実施され、政権与党の圧勝劇を演出し、議会には先鋭的な対立は持ち込まれなかったのである。
[編集] 開発独裁と共産主義
当初の開発独裁論で「開発独裁政権」とされた諸国家に共通してみられるスローガンの一つに、反共があった。
しかし、開発独裁と共産主義は親和性がないとは限らない。共産党による一党独裁制のもとで経済発展の道が模索されるようになれば、それがそのまま開発独裁の外観を具備することにもなるからである。 鄧小平以来、共産党の一党独裁下で市場経済を導入し、著しい経済成長を達成した中国や、同様にドイモイ政策を導入したベトナムを一種の開発独裁とする見解がある。米国でもこの親和性を指摘する論調もあり、何よりも当の中国とベトナムでは共産主義と開発独裁を史的唯物論で理論的に結合させる本格的な取り組みがなされている。タイ・ブラジル・シンガポールなどの開発独裁政権では共産主義勢力と関係を結んだ例もあり、本来の目的は解消されたといえる。
また、ソ連崩壊後の中央アジア諸国では、トルクメニスタンのサパルムラト・ニヤゾフ政権のように、旧共産党指導者が「開発独裁」的な政権運営を行っているような例もある。
[編集] 開発独裁の終焉
開発独裁政権が経済運営に成功し(その指標として「年何%の経済成長率」がさかんに喧伝された)、その成果を国民に分配すると、国民の支持を調達して政治的正当性を高めることができる。開発独裁はそのようにして政権の維持を図ってきた。
しかし、台湾や韓国では、経済成長の結果、民主化運動が高揚し、開発独裁政権が打倒されるという帰結がもたらされた。また、政権に関わる人物やその一族による不正な蓄財、ファミリー・ビジネス、また、取り巻きや財界人・政商(クローニー)との癒着、収賄、レントシーキングが多発し、開発の恩恵が一部の人々によって独占されていることが明らかになると、開発独裁政権は急速にその正当性を失い、国内の民主化運動から重大な挑戦を受けるようになった。1986年のフィリピンにおけるマルコス政権の崩壊はその一例である。
国際的な要因としても、東西冷戦が終結したことによって、西側諸国(とくにアメリカ)はアジア地域における反共政権の擁護に関心を失い、むしろその人権状況に厳しい認識を示すようになった。開発独裁政権にとって重要な後ろ盾だったはずの西側諸国の立場は変化したのである。
また、アジア通貨危機後の経済危機によって大衆の生活が危機的状況にさらされたインドネシアでも、スハルト政権下での汚職・癒着・縁故主義を糾弾する大衆の街頭行動が引き金となって、1998年、30年以上にわたって長期政権を維持してきたスハルトは辞職した。
[編集] 開発独裁が行われた主な国
以下に、過去、開発独裁がみられた国家・地域を挙げているが、慎重な検討を要するものもあるので注意。なお()内はその当時の政権名である。
- フィリピン - (マルコス政権)
- インドネシア - (スハルト政権)
- ブラジル - (ヴァルガス政権、1964~85年の軍事政権)
- チリ - (ピノチェト政権)
- 大韓民国 - (朴正煕・全斗煥政権)
- シンガポール - (リー・クアンユー政権)
- 中華民国(台湾) - (蒋経国政権)
- タイ - (サリット政権、タクシン政権)
- 改革開放以後の中華人民共和国 - (中国共産党政権)
- ドイモイ以後のベトナム - (ベトナム共産党政権)
[編集] 備考
- 本文でも述べたとおり、開発独裁という用語は、ほぼ日本国内のみで流通しているものなので、developmental dectatorship、developmental autocrat、dectatorship for development という訳語が英語圏で通用するものなのかは疑問である。ちなみにWikipedia Englishでは、この3語で執筆された記事はない。
[編集] 関連文献
- 末廣昭 「アジア開発独裁論」、中兼和津次編『講座現代アジア2 近代化と構造変動』、東京大学出版会、1994年
- 世界銀行 『東アジアの奇跡 経済成長と政府の役割』、東洋経済新報社、1994年(A World Bank Policy Research Report, The East Asian Miracle : Economic Groth and Public Policy, 1993)
- 東京大学社会科学研究所編 『20世紀システム4 開発主義』、東京大学出版会、1998年