淡海三船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
淡海三船(おうみのみふね、養老6年(722年) - 延暦4年7月17日(785年8月30日))は、奈良時代後期の文人。天智天皇の皇子大友皇子の曽孫。父は葛野王の子池辺王。名は御船とも書く。
751年(天平勝宝3年)淡海真人の姓を賜る。卒伝に「性識聡敏にして群書を渉覧しもっとも筆札を好む」と見え、大学頭・文章博士(もんじょはかせ)として石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)と並ぶ文人の首と称された。しかし、765年(天平勝宝8歳)朝廷を誹謗したとして大伴古慈斐(おおとものこしび)とともに禁固された。恵美押勝の乱の功によって東山道巡察使に任じられたが、苛政のため767年(神護景雲元年)に解任された。
若いときに「元開」という僧名を名乗っていたこともあり、外典・漢詩にも優れていた。現存最古の漢詩集「懐風藻」の撰者とする説がある。また、『続日本紀』には、三船が神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進したことが記されている。
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | 人名関連のスタブ項目 | 奈良時代の人物 | 722年生 | 785年没