ブータン
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- ブータン王国
- འབྲུགཡུལ་་
-
(国旗) (国章) - 国の標語 : なし
- 国歌 : 雷龍の国
-
公用語 ゾンカ語、英語、ネパール語 首都 ティンプー 最大の都市 ティンプー 国王 ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク 閣僚評議会議長 イェシェ・ジンバ 面積
- 総計
- 水面積率世界第128位
47,000km²
極僅か人口
- 総計(2004年)
- 人口密度世界第140位
2,185,569人
47人/km²GDP(自国通貨表示)
- 合計(2005年)
403億ヌルタムGDP(MER)
- 合計(2005年)世界第161位
7億ドルGDP(PPP)
- 合計(2002年)
- 1人当り世界第159位
27億ドル
1,300ドル独立 1907年12月17日 通貨 ヌルタム (BTN) 時間帯 UTC +6(DST: なし) ccTLD .BT 国際電話番号 975
ブータンは、正式名称ブータン王国で、南アジアにある国。インドと中国にはさまれている世界唯一のチベット仏教を国教とする王国。首都はティンプー。17世紀に移住したチベットの高僧ガワン・ナムゲルが、現在の国土をまとめた。
19世紀末内戦状態にあったブータンの中で、東部トンサ郡の豪族ウゲン・ワンチュクが支配的郡長として抬頭し、1907年、初代の国王となった。1972年に第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクの急死後、第4代国王として16歳で即位したジグミ・シンゲ・ワンチュクが永らく国王の座にあったが、2006年12月にジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが第5代国王に即位した。第4代国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクは総選挙が実施される2008年に退位する事を2005年に発表していたが、時期が早まったもよう。理由については現在発表が無い。
1964年、ブータンに西岡京治(けいじ)という日本人が渡った。当時のブータンの農業の収穫はとても少ないものだったが、翌年の65年にはたくさんの収穫を得た。 彼は1992年に没するまで、ブータンで仕事を続け、1980年にはブータン国王から"ダジョー(最高の人)"の称号を授与され、今でもブータン人の生活を大いに救っている。
急速な近代化(欧米化)の中で、近代化の速度をコントロールしつつ、独自の立場や伝統を守ろうとする政治に世界的な注目が集まっている。現国王が提唱する国民総生産にかわる国民総幸福量(GNH)という概念、様々な環境政策、伝統文化保持のための国民に民族衣装着用の強制などが、近年のスローライフなどのキーワードと組み合わされて語られる場合も多い。
なお、ブータンは英領インドとの条約に「内政は不干渉、外交には助言を与える」という文言が存在し、1949年のインド=ブータン条約にその文言が継承され、多額の補助金がブータンに付与されていたため、インドの保護国的な印象を受けるが、公的には1907年をもって国家成立としている。
国花はメコノプシス=ホリドゥラ、国樹はイトスギ、国獣はターキン、国鳥はワタリガラス。
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[編集] 国名
正式名称のラテン文字表記は、Druk Yul。
チベット語の表記は、チベット文字ではའབྲུག་ཡུལ་、ワイリー拡張方式では 'brug yul、「ドゥク・ユル」と読む。
公式の英語表記は、Kingdom of Bhutan。通称、Bhutan。
日本語の表記は、ブータン王国。通称、ブータン。 中国語では不丹と表記し、不と略す。
[編集] 歴史
- 627年: パロのキチュ・ラカンとブムタンのジャンパ・ラカンがソンツェン・ガンポによって建設される。
- 747年: パドマサンババがチベット仏教ニンマ派を伝える。
- 1616年: チベット仏教カギュ派ドゥク支派に内紛があり、チベットを逃れた同派の管長シャブドゥン・ガワン・ナムゲルがこの地の支持者に迎えられて建国。
- 1626年: イエズス会のポルトガル人神父、エステヴァン・カセラ、ヨハン・カプラルがヨーロッパ人として初めてブータン入国。
- 1864年: イギリス=ブータン戦争(ドゥアール戦争)勃発。
- 1865年: ドゥアール戦争に敗北し、イギリスとの間にシンチュラ条約を締結。イギリスからブータンに年5万ルピーが補助金として支払われることになる。
- 1907年: ワンチュク家(現王朝)が支配権を確立する。ウゲン・ワンチュクが初代国王となる(12月17日)。
- 1910年: プナカ条約締結。イギリスの保護下に入る。(1949年まで)
- 1926年: ジグミ・ワンチュクが第2代国王になる。
- 1949年: インド・ブータン条約調印。
- 1952年: ジグミ・ドルジ・ワンチュクが第3代国王になる。
- 1964年: ジグミ・パルデン・ドルジ首相が暗殺される。
- 1972年: 国際連合に加盟する。ジグミ・シンゲ・ワンチュクが第4代国王になる。
- 1974年: 第4代国王戴冠式。
- 1990年: 反政府運動激化。南部居住のネパール系住民が国外に脱出し難民化する。
- 1999年: 国内テレビ放送開始。
- 2002年:6月30日、モントセラトとサッカーFIFAランキング最下位決定戦アザー・ファイナルを行い快勝。
- 2005年: ワンチュク国王、08年の譲位と総選挙後の立憲君主制移行を表明。
- 2006年: 当初の予定をくり上げて、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが第5代国王に即位。
[編集] 政治
詳細はブータンの政治を参照
1907年のワンチュク朝成立以降、ブータンは国王を中心とする君主制であったが、近年の政治改革により立憲君主制へと移行しつつある。国会は国王不信任決議の権限を持ち、国王定年制も議論された。2005年現在、成文憲法制定準備が進められている。
[編集] 立法
- 議席数約150の一院制の国会(英語: National Assembly、ゾンカ語: Tshogdu)がある。議員は一般選挙を経た国民代表105名・仏教界代表10名・政府代表35名で構成されている。任期は3年で、再選、再任が認められている。
- 以前ブータンの民主化を実現したが内戦や治安悪化のため国王がまた政権を取り戻し、現在民主化がまた実現しようとしている
[編集] 行政
- 1968年から採用された省制度により、2005年現在、農務省、保健省、教育省、通信情報省、建設省、財務省、内務省、貿易産業省、エネルギー水資源省、外務省の10省がある。1964年の首相暗殺以来未だ首相職は再設置されていないが、1998年に大臣が輪番制で内閣の議長を務める形式の閣僚評議会議長職が設置された。国王の主導により立憲君主制に移行しつつあり2008年に完遂予定である。
- それ以外に、王立諮問委員会(英語: Royal Advisory Coulcil、ゾンカ語: Lodroe Tshogde)が独立機関として存在し、国家の重要事項について、国王と閣僚会議に必要な助言を行い、法律や議決が、政府と国民によって忠実に実行されているかを確認する役割を担っている。会議は9名の諮問委員から構成され、内訳は国民代表6名、仏教界代表2名、国王指名1名となっており、任期は5年である。
- 地方自治組織として、ゾンカク発展委員会(英語: Dzongkhag Development Committee、ゾンカ語: DYT)、ゲオク発展委員会(英語: Gewog Development Committee、ゾンカ語: GYT)などを通じて国民の意見を国政に吸収するシステムが採用されている。ゾンカク発展委員会は、県知事、国会議員、郡長、村長で構成され、ゲオク発展委員会は国会議員、村長、集落責任者、地域住民で構成される。
[編集] 地方行政区分
20の県(ゾンカク)に分かれている。各県の県庁には基本的にゾン(城砦)があり、聖俗両方の中心地(行政機構、司法機関及び僧院)として機能している。ゾンカクはドゥンカク(郡、Dungkhag)とゲオク(村、Gewog)という行政単位によって構成されている。全国に16のドゥンカク、201のゲオクがある(2002年)。
- ブムタン: Bumthang
- チュカ: Chhukha
- ダガナ: Dagana
- ガサ: Gasa
- ハ: Ha
- ルンツェ: Lhuentse
- モンガル: Mongar
- パロ: Paro
- ペマガツェル: Pemagatshel
- プナカ: Punakha
- サムドゥプ・ジョンカル: Samdrup Jongkhar
- サムツェ: Samtse(Samchi)
- サルパン: Sarpang(Sarbhang)
- ティンプー: Thimphu
- タシガン: Trashigang
- タシ・ヤンツェ: Trashi Yangtse
- トンサ: Trongsa
- チラン: Tsirang(Chirang)
- ワンデュ・ポダン: Wangdue Phodrang
- シェムガン: Zhemgang
[編集] 治安
[http://www.anzen.mofa.go.jp/attached2//2006T010_1.gif ]ブータンは南部でネパール系住民が多く反政府活動をしている為治安が悪化していたが、現在は治安回復している
[編集] 地理
詳細はブータンの地理を参照
インドとは東をアルナーチャル・プラデーシュ州と、西をシッキム州と、南を西ベンガル州とアッサム州で接しており、その国境線は605kmに達する。また北の国境線470kmは中華人民共和国のチベット自治区と接している。中華人民共和国との国境の大部分はヒマラヤ山脈の上を走っており、国境線が確定していない部分が多く、国境画定交渉が現在も進められている。
ヒマラヤ山脈南麓に位置するブータンは、国土の標高差が南部の100mから北部の7,561mに亘っている。標高3,000m以上の北部ヒマラヤ山脈の高山・ツンドラ気候、標高1,200mから3,000mの中部のモンスーン気候、標高1,200m未満の南部タライ平原の亜熱帯性気候が並存する。
国内最高峰はガンカー・プンスム (7,561m)。
[編集] 経済
詳細はブータンの経済を参照
主要産業はGDPの約35%をしめる農業だが、最大の輸出商品は電力である。 国土がヒマラヤの斜面にあることを生かし、豊富な水力による発電を行い、インドに電力を売却することにより外貨を得ている。
観光業は有望だが、文化・自然保護の観点からハイエンドに特化した観光政策を進めており、フォーシーズンズなどの高級ホテルの誘致に成功した。但し、外国人観光客の入国は制限されており、バックパッカーとしての入国は原則として不可能。必ず旅行会社を通し、ガイドが同行する必要があるが、治安の悪い南部地域への渡航制限を除き、自由旅行が禁止されているわけではない。
2004年12月より、環境保護及び仏教教義的な背景から世界初の禁煙国家となり、煙草の販売が禁止された。国外から持ちこむことは出来るが、100%の関税が課せられる。
[編集] 国民
詳細はブータンの国民を参照
3つの民族集団に大別される。チベット仏教(ドゥク派)を信仰しゾンカ語を主要言語とし、西部に居住するチベット系のドゥクパと呼ばれる人々、同じくチベット仏教(主にニンマ派)を信仰しツァンラ語(シャチョップカ語)を母語とし、東部に居住するアッサム地方を出自とするツァンラ(自称。以前はシャチョップと呼ばれた)と呼ばれる人々、そして、ヒンドゥー教徒でネパール語を話し、南部に居住するローツァンパと呼ばれるネパール系住民がいる。北部や南部には独自の文化を持つ少数民族の存在が確認されている。
[編集] 言語
英語が事実上の第一公用語であり、全ての法令、公文書は英語で書かれている。ほぼすべての教育機関が英語を教授言語としている。唯一の活字メディアであるクエンセル紙は、英語、ゾンカ語、ネパール語で発行されているが、購読者が最も多いのは英語版である。英語の公用語化は最近始まったため、中年以上の世代にはあまり通じない。英語教育を受けた若い世代には英語をもっぱら第一言語とし国語であるゾンカ語を話せても読み書きができない者もいる。また、地方の少数民族を中心にゾンカ語を話せない人も多く、ブータンで最も通用性が高いのはヒンディー語やそれに類するネパール語であるとされる。これは、近代教育初期の教授言語がヒンディー語であったこと、インド製娯楽映画やテレビ番組が浸透しているためである。国内の言語分布は、西部はゾンカ語、東部はツァンラカ語(シャチョップカ語)、南部はネパール語(ブータンではローツァムカ語と呼ばれる事もある)が主要言語となっている。
[編集] 南部問題
1958年の国籍法を下敷きにして、1985年に公民権法(国籍法)が制定されたが、その際、定住歴の浅い住民に対する国籍付与条件が厳しくなり、国籍を実質的に剥奪された住民が特に南部在住のネパール系住民の間に発生した。そもそも、ブータン政府は彼らを不法滞在者と認識しており、これはシッキムのような事態を避けたいと考えていたための措置であったと言われる。
その一方で、ブータンの国家的アイデンティティを模索していた政府は、1989年、「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などが実施された。1988年以降、ネパール系ブータン人の多いブータン南部に於いて上記「国家統合政策」に反対する大規模なデモが繰り広げられた。この件を政府に報告し、ネパール系住民への対応を進言した王立諮問委員会のテクナト・リザル(ネパール系)は、反政府活動に関与していると看做され追放される。
この際に、デモを弾圧するためネパール系ブータン人への取り締まりが強化され、取り締まりに際し拷問など人権侵害行為があったと主張される一方、チベット系住民への暴力も報告されている。混乱から逃れるため、ネパール系ブータン人の国外脱出(難民の発生)が始まった。後に、拷問などの人権侵害は減ったとされる。国王は国外への脱出を行わないように呼びかけ現地を訪問したが、難民の数は一向に減らなかった。この一連の事件を「南部問題」と呼ぶ。後に、ネパール政府等の要請によりブータンからの難民問題を国連で取り扱うに至り、ブータンとネパールを含む難民の流出先国、国連(UNHCR)により話し合いが続けられている。
[編集] 文化
詳細はブータンの文化を参照
ブータンは、気候・植生が日本とよく似ている上に、仏教文化の背景も持ち合わせており、日本人の郷愁を誘う場合も多い。これは、モンスーン気候に代表される照葉樹林地帯(ヒマラヤ山麓~雲南~江南~台湾~日本)に属しているためで、一帯では類似の文化的特徴を見出す事ができる。
食文化においては、ブータンはトウガラシの常食と乳製品の多用という独自の面を有しつつ、赤米、蕎麦の栽培、納豆、酒文化(どぶろくに似た醸造酒「シンチャン」や焼酎に似た蒸留酒「アラ」)などの日本人の琴線に触れる習慣も多い。また、伝統工芸においては、漆器や織物などの類似点もある。
習俗の面では、ブータン東部では最近まで残っていた「夜這い・妻訪い婚」や「歌垣」などが比較的注目される点であろう。ブータンの男性の民族衣装「ゴ」は日本の丹前やどてらに形状が類似していることから、呉服との関連を指摘する俗説もあるが、「ゴ」の起源は中央アジアとされており、日本の呉服とは起源が異なる。男性の民族衣装がチベット系統であるのに対して、女性の民族衣装「キラ」は巻き衣の形式を取り、インド・アッサム色が濃い。北から流入したチベット系文化と元来存在した照葉樹林文化が混在しているといえる。
伝統的な競技としては、国技の弓術が代表的だろう。子供はダーツのような「クル」、石投げなどで遊ぶ。武器の扱えない僧侶は石投げに興じる事が多いが、近年では聖俗問わずサッカー人気も高い。特にサッカーや格闘技はケーブルテレビの普及以降、爆発的に人気を獲得した。
近代化の進む中、チベット仏教は現在でも深くブータンの生活に根ざしている。ブータン暦の10日に各地で行われるツェチュという祭は今でも交際の場として機能している。その他、宗教的意匠が身近なところに溢れ、男根信仰も一般的である。宗教観や古い身分制度に基づく伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)は厳格で、国家公務員の研修や学校教育に取り入れられている。公的な場所に出るときは、正装が義務付けられる。
[編集] 外交
昭和天皇崩御の際には一ヶ月間喪に服した。
[編集] 祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
5月2日 | 第3代国王誕生日 | 太陽暦 | |
6月2日 | 現国王戴冠記念日 | 太陽暦 | |
7月30日 | 第3代国王逝去日 | 太陽暦 | |
9月22日 | 安雨居 | Blessed Rainy Day | 太陽暦 |
11月11日-13日 | 現国王誕生日 | 太陽暦 | |
12月17日 | 建国記念日 | 太陽暦 | |
1月1日-2日 | 新年 | Losar | ブータン暦 |
4月15日 | Lord Buddha’s Parinirvana | ブータン暦 | |
5月10日 | パドマサンババ生誕記念日 | ブータン歴 | |
6月4日 | The First Sermon of Lord Buddha | ブータン歴 | |
ダサイン | Dashain | ネパール暦 | |
9月22日 | Decending Day of Lord Buddha | ブータン歴 | |
11月5日 | Meeting of Nine Evils | ブータン歴 | |
12月1日 | Traditional Day of Offering | ブータン歴 |
この他、ツェチュなど各ゾンカク独自の祝祭日がある。また、ティンプーでは初雪の日は休日になるという慣例がある。
[編集] 関連項目
- ブータンの政党
- ブータン関係記事の一覧
- 西岡京治 「ブータン農業の父」と呼ばれる日本人農業指導者
[編集] 外部リンク
[編集] 公式
- ブータン王国政府公式サイト (英語)
- ブータン友好協会公式サイト(日本語)
[編集] その他
- 世界の国々 > アジア
-
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