明仁
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明仁(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日 - )とは、日本の今上天皇(第125代の天皇)。大勲位。昭和天皇(裕仁)と香淳皇后(良子)の第一皇子で、称号は継宮(つぐのみや)。印は榮(えい、桐の別名)。皇室典範に定める敬称は陛下。
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[編集] 人物
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高齢にも関らず、公務、宮中祭祀ともに極めて旺盛に活動しており、天皇としての活動について非常に意欲的かつ勤勉であると伝えられることが多い。
歴代の天皇のなかでは明治天皇および特に昭和天皇に寄せる気持ちが強いようであるが、皇太子時代には後水尾天皇に言及したこともある。また即位十周年の会見で述べているように、戦中育ちとして先の大戦に寄せる気持には強いものがあり、過去に「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦記念日)の四つは忘れる事の出来ない日付である」旨の発言もある。
ハゼの分類学的研究者であり、日本魚類学会に属して28編の論文を同学会誌に発表している。平成12年(2000年)には海外誌Geneに第一著者として論文が掲載されている。また平成4年(1992年)にはScience誌に"Early cultivators of science in Japan"という題の寄稿を寄せている。
魚類学における業績は各国で評価されている。
- 昭和55年(1980年)、ロンドン・リンネ協会外国会員。昭和61年(1986年)、同協会名誉会員。
- オーストラリア博物館リサーチ・アソシエート。
- ロンドン動物学会名誉会員。
- アルゼンチン自然科学研究所永久名誉会員。
この他にも平成10年(1998年)にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞している。
清水勝雄に師事してチェロをたしなむほか、テニスをよくする(これは皇后と知り合うきっかけにもなった。いわゆる「テニスコートの恋」である)。1992年にジョージ・ブッシュ大統領が来日した際には、皇太子徳仁親王とペアを組んで、ブッシュ大統領とマイケル・アマコスト駐日大使と対戦し、2ゲームに全勝したという。
[編集] 誕生
宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。当時の皇室慣例により、満3歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。
昭和19年(1944年)、戦火の拡大により、はじめは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で敗戦を迎えた。終戦後帰京。
昭和21年(1946年)10月から昭和25年(1950年)12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、アメリカの著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・グレイ・ヴァイニング(ヴァイニング夫人)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。
昭和27年(1952年)11月10日、京都御所で立太子礼が行われた。
昭和28年(1953年)、イギリスのエリザベス2世の戴冠式に昭和天皇の名代として参列するために初の外遊。ヨーロッパおよび米国を歴訪。
昭和33年(1958年)11月、正田美智子との結婚を皇室会議で内定。昭和34年(1959年)4月10日結婚。明治以降では初の皇族以外での皇太子妃であった為に、国民的な「ミッチー・ブーム」がおこる。
昭和35年(1960年)、第一皇子浩宮徳仁親王(現皇太子)が誕生。
昭和40年(1965年)には礼宮文仁親王(現:秋篠宮)が、昭和44年(1969年)には紀宮清子内親王(現:黒田清子)が誕生、三児の父となる。
昭和50年(1975年)、沖縄国際海洋博覧会に際し皇太子としてはじめて沖縄を訪問。7月17日、皇太子妃美智子を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、過激派から火炎瓶を投げつけられる(ひめゆりの塔事件)。
[編集] 即位
昭和天皇の崩御により、昭和64年(1989年)1月7日に皇位を継承。翌日、元号が平成に改められる。はじめて関東の地で即位した天皇である。朝見の儀での「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」という発言が話題となる。
即位後も旺盛に国内外の訪問を行っている。平成15年(2003年)までに47都道府県のすべてを訪問している。
- 平成3年(1991年)
- 平成4年(1992年)
- 中国。
- 平成5年(1993年)
- 平成6年(1994年)
- 平成9年(1997年)
- 平成10年(1998年)
- 平成12年(2000年)
- 平成14年(2002年)
- 平成17年(2005年)
- 平成18年(2006年)
- シンガポール、マレーシア、タイ
サイパン島訪問時、韓国人戦没者の慰霊碑にも参拝した。
平成11年(1999年)に即位10周年を迎え、政府主催で11月20日に在位10年記念式典が開催、同日夜には二重橋で祝賀の声に応える一齣もあった。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。
平成7年(1995年)、大腸のポリープを摘出。後に前立腺癌であることが公表され、平成15年(2003年)1月18日に、前立腺の全摘出手術をおこなった。
[編集] エピソード
- 学習院初等科入学に際し、おかっぱに伸ばしていた髪を無断で刈られ数日間ふさぎこんでしまった。その後「これからは、だまってこんなことはしないでね」と精一杯の抗議をした。
- エリザベス女王戴冠式のために外遊した結果、単位不足で進級できず学習院大学政経学部を中退。この為、最終学歴は「学習院大学教育ご修了」となっている。もっともその後も聴講生として大学には残った。
- 上記のエリザベス女王載冠式に伴うヨーロッパ外遊の際にはドイツでF1GPを観戦。主催者の提案により、表彰式のプレゼンターも務めた。日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物である。
- プリンス自動車(現:日産自動車)の車を愛用し、独身時代には愛車グロリアでドライブを楽しんでいた。嘗ての御料車がプリンス製の日産・プリンスロイヤルだったのはその縁である。
- 学生時代、(学習院高等科3年の試験が終わった日)学友である橋本明(橋本龍太郎の従兄弟)に「銀座にいきたい」と相談し、学友が「いつがいいか?」と尋ねると「今日がいい」と答えた。「一人ではなくもう一人つれていこう」と提案し、承諾(もう一人は千家祟彦)。新任だった東宮侍従浜尾実など仕えている周りの人間を「今宵、殿下を目白の方にご案内したい。」など騙して抜け出すことに成功し、3人で銀座をぶらついた。このとき銀座4丁目あたりで慶応ボーイ4人と出会い、慶応ボーイは「殿下こんばんは」と挨拶したという。高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し皆で、お金を出し合い一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンパン」でアップルパイと紅茶を楽しんだり、満喫したようだが、当然ながらすぐに事件は発覚。大騒ぎになり、目的地を知り居場所を突き止められると、銀座にいた彼の周りに警官が20~30メートルおきに配置されてしまい、これ以上散策が出来なくなり終了した。もちろん、連れ出した学友2名が警察と皇室関係者に烈火のごとく叱られたのは言うまでも無い。これが有名な『銀ブラ事件』である。
- ジョージ・H・W・ブッシュアメリカ大統領と過去に2回テニスで対戦しているが、2回とも勝利している。特に、2回目の敗北はブッシュにとってはショックだったらしく、バーバラ・ブッシュ夫人が、首相官邸で行われた晩餐会でのスピーチでジョークにするなどして話題を呼んだ。
- 皇太子時代、タイ王室からタイ国民のタンパク質不足について相談を受け、養殖の容易なティラピアを50匹寄贈した。タイではこのティラピアを大いに繁殖させて、バングラデシュの食糧危機に際して50万匹を寄贈した。
- 靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は参拝していない。
[編集] 発言
- 『ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられる方』(昭和33年(1958年)11月27日)
- 婚約記者会見でどういう所に魅力を感じたかを訊かれて、美智子妃の皇太子評。流行語にもなった。
- 『国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません』(平成元年(1989年)1月9日)
- 『皆様が雨に濡れて寒いのではと案じています』(平成11年(1999年)11月20日、在位十年記念式典で)
- 「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」(2001年12月)
- 「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」(2003年12月23日)(注:香淳皇后の母が島津家の出身である)
- 「やはり、強制になるということではないことが望ましい」(2004年10月28日 園遊会で)
- 「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います。戦後60年に当たって過去の様々な事実が取り上げられ、人々に知られるようになりました。今後とも多くの人々の努力により過去の事実についての知識が正しく継承され、将来にいかされることを願っています」(2005年12月19日)
- 「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、皇室典範との関係で皇室の伝統とその将来についてという質問に関しては、回答を控えようと思います。私の皇室に対する考え方は、天皇及び皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです」(同上)
- 「戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)戦前は議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています」(2006年6月6日)
[編集] 系譜
[編集] 系図
─(122)明治天皇─(123)大正天皇┬(124)昭和天皇┬(125)今上天皇┬徳仁親王(皇太子) │ │ └(秋篠宮)文仁親王─悠仁親王 │ └(常陸宮)正仁親王 ├(秩父宮)雍仁親王 ├(高松宮)宣仁親王 └(三笠宮)崇仁親王┬寛仁親王 ├(桂宮)宜仁親王 └(高円宮)憲仁親王
- 高祖父:統仁(孝明天皇)
- 高祖母:夙子(英照皇太后)
- 高祖母:慶子(中山慶子、明治天皇生母)
- 曾祖父:睦仁(明治天皇)
- 曾祖母:美子(昭憲皇太后)
- 曾祖母:愛子(柳原愛子、大正天皇生母)
- 祖父:嘉仁(大正天皇)
- 祖母:節子(貞明皇后)
- 父:裕仁(昭和天皇)
- 母:良子(香淳皇后)
- 妻:美智子(皇后)
- 側室:加茂さくら(文仁親王生母)
- 長男:徳仁(皇太子、称号:浩宮)
- 次男:文仁(称号:礼宮、現:秋篠宮)
- 孫:悠仁
- 長女:清子(称号:紀宮、現:黒田清子)
- 弟:正仁(称号:義宮、現:常陸宮)
[編集] 著書
- 『日本産魚類大図鑑 = The fishes of the Japanese archipelago』益田一ほか編、東海大学出版会、1984年12月、ISBN 4486050533(図版)、ISBN 4486050533(解説)、ISBN 4486050541(Text)
- 論文『ハゼ科魚類の進化』を所収するほか、ハゼ亜目魚類の項目を第2版で共同執筆)
- 『日本の淡水魚』川那部浩哉、水野信彦編・監修、山と溪谷社、1989年11月、ISBN 4635090213(チチブ類の項目を執筆)
- 『ともしび : 皇太子同妃両殿下御歌集』宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年12月
- 『道 : 天皇陛下御即位十年記念記録集』宮内庁編、日本放送出版協会、1999年10月、ISBN 414080467X
- 『日本産魚類検索 : 全種の同定』中坊徹次編、東海大学出版会、2000年12月、ISBN 4486015053(ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿徳 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 応神 | 16 仁徳 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝徳 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 弘文 | 40 天武 |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 称徳 | 49 光仁 | 50 桓武 |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文徳 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 円融 | 65 花山 | 66 一条 | 67 三条 | 68 後一条 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 |
71 後三条 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇徳 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二条 | 79 六条 | 80 高倉 |
81 安徳 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順徳 | 85 仲恭 | 86 後堀河 | 87 四条 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二条 | 95 花園 | 96 後醍醐 | 97 後村上 | 98 長慶 | 99 後亀山 | 100 後小松 |
北朝 | 1 光厳 | 2 光明 | 3 崇光 | 4 後光厳 | 5 後円融 | 6 後小松 | |||
101 称光 | 102 後花園 | 103 後土御門 | 104 後柏原 | 105 後奈良 | 106 正親町 | 107 後陽成 | 108 後水尾 | 109 明正 | 110 後光明 |
111 後西 | 112 霊元 | 113 東山 | 114 中御門 | 115 桜町 | 116 桃園 | 117 後桜町 | 118 後桃園 | 119 光格 | 120 仁孝 |
121 孝明 | 122 明治 | 123 大正 | 124 昭和 | 125 今上 | ※赤字は女性天皇 |
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