尾崎行雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尾崎 行雄(おざき ゆきお、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月20日)11月20日(1858年12月24日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、政治家。号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市津久井町又野)生まれ。クリスチャン(キリスト教徒)。学位は工学士(東京大学)。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。
11歳まで又野村で過ごした後、三重県の役人となった父・行正に従い、一家も三重の宇治山田に居を移す。共立学校(現在の開成高校)を経て慶応義塾に入学するが、塾長の福沢諭吉に反抗して退学、東京大学工学部に再入学する。1882年立憲改進党の創立に参加、1890年第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる。1898年大隈重信内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、ついで大隈内閣も総辞職した。
1903年から1912年まで東京市長、1914年の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、桂太郎首相を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党し、以後中正会・憲政会と移る。第2次大隈内閣では司法大臣となる。
当初はポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった。
1943年、翼賛選挙批判を行った演説中に引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬罪で起訴される(一審で有罪、1944年大審院で無罪確定)。公判通知を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)。
戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力するが、1953年のバカヤロー解散による総選挙で落選して、政界を引退した。名誉議員の称号を贈られる。
永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。
東京市長のときアメリカに三千本の桜を送る。
難民を助ける会創立者の相馬雪香は、妻テオドラとの間に生まれた三女。
[編集] 外部リンク
- 東京市長
- 第2-3代: 1903年-1908年
-
- 先代:
- 松田秀雄
- 次代:
- 阪谷芳郎
カテゴリ: 日本の閣僚経験者 | 日本の国会議員 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 都道府県知事・市町村長 | 三重県の政治家 | 神奈川県出身の人物 | 三重県出身の人物 | 1858年生 | 1954年没