ミュンヘン一揆
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ミュンヘン一揆(ミュンヘンいっき)は、1923年11月8日 - 9日にヒトラーがワイマール共和国打倒をめざして南ドイツのミュンヘンを舞台に起こした一揆(クーデター)であり、エーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorff)を最高指導者とするクーデター(Buerger-braeu-putsch)の試み。またワイマール共和国史の一局面を象徴する事件であり、またナチズム運動に一つの転機をもたらした事件としても重要である。ヒトラー一揆(Hitler Putsch)・ビヤホール一揆(Munchen Beer-hall Putsch)とも言う。
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[編集] 背景
ドイツの栄光は第一次世界大戦の敗戦の余波と中央政府による弱腰の「裏切り」によって失われていた。そして1923年1月、賠償金の滞納を理由にフランス・ベルギー軍がルール地方を占拠した(ルール問題)。ドイツ国民はこれに激怒。政府はルール炭田に対し、サボタージュを呼びかけた。これによりハイパーインフレーションが起こり、11月には通貨価値は一兆分の一にまで落ち込んだ。9月に政府はサボタージュの指導を中止したが、バイエルン州政府首相カールらがこれに反対。右翼団体も闘争同盟を組み、これに突撃隊も参加。ヒトラーは15,000名の突撃隊員に、1923年9月27日から14の大衆集会を開催するだろうと発表した。
[編集] 一揆の発生
一揆はミュンヘンのビアホール、ビュルガーブロイケラー(Buerger-braeu-keller)で発生した。当時南ドイツに於いてビアホールはほとんどの町に存在し、何百あるいは何千もの人々が集い、酒を飲み歌を歌い、さらに政治集会が開催された。ビュルガーブロイケラーはミュンヘンにおける最大のビアホールであった。
[編集] 鎮圧
ヒトラーはバイエルン州政府が自分と同じ立場にあると判断した。そして大戦中の英雄ルーデンドルフを立てることで、国防軍の支持を取り付けようとした。ヒトラーはカールを脅迫し、ベルリン進撃の同意を取り付けた。バイエルン国防司令官ロッソウもこれに同調した。
ところが国防軍は動かなかった。首相であるカールや,ロッソウらには支持されたプランは,彼らの部下たちには承認されなかった。軍幹部たちは中央政府と妥協的な道を模索していた。
この形勢不利な状態でヒトラーはデモ行進を11月9日に敢行する。このときデモ隊はほとんど丸腰であった。武装しているものに対しても,実弾を抜き取っておけ,という命令が出ていたくらいである。ルーデンドルフを前面にたてれば相手も手出しができまいと高をくくっていたヒトラーであったが、オデオン公園にて警察隊との銃撃戦がおきて鎮圧された。しかし、後ろに控えていた国防軍はなぜか発砲しなかった。
[編集] 犠牲者
死者19名、うち警官3名。ヒトラーと肩を組んでいた党員リヒターは即死。そのため、ヒトラーは前にのめり、左肩を脱臼した。
[編集] 影響
2日後、シュタッフェル湖のほとりの別荘でヒトラーは逮捕された。そしてランズベルク要塞に投獄される。ヒトラーは裁判では持ち前の演説力を生かしてバイエルン州政府や中央政府を批判して正義はわれにありと主張したが,裁判そのものに対する大衆や新聞の興味は薄かった。この裁判でのヒトラーの名誉回復の原因はむしろ,カールらの不人気さによるところが大きい。カールらはいったんはヒトラーと協力する事を発表したものの,一揆が失敗に終わると見えるや否やすぐさま態度を豹変させ,裁判にも自らに不利な発言が出ないように圧力を加えた。これらの首尾一貫しない態度などによって,カールらはとにかく一揆の中心からは遠ざかったが,大衆に対する人気は急降下し,代わりにヒトラーの人気が急上昇した。
かの悪名高い「我が闘争」はこの獄中生活のなかで執筆された。アウトバーンの発想もこのとき生まれたアイディアといわれる。今回国防軍を味方にできなかったこと、国防軍が発砲しなかったことを教訓にしたヒトラーは、レームを粛清してでも権力闘争の際には国防軍を取り込むことを忘れなかった。軍事クーデターの失敗から、ヒトラーは政権獲得の手段を政治活動を通した合法路線に切り替えた。
[編集] 関連項目
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