準急列車
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準急列車(じゅんきゅうれっしゃ)あるいは準急は、停車駅が急行列車より多く普通列車より少ない列車のこと。原義は「準急行」の略。このため、正式には「準急行列車」と称する。
通常英訳には"Semi Express"が当てられる。
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[編集] 国鉄
国鉄においてもかつて準急列車が設定されていた。
[編集] 概要
1926年(大正15年)8月に東海道本線の東京駅~名古屋駅、名古屋駅~神戸駅間に設定された列車が「準急」を名乗ったのが始まりである。この当時は比較的長距離を料金不要で急行列車よりやや劣る速度で走る、現在の快速列車に相当するサービス的列車であった(快速列車の当時の呼称ともいえ、一部の地域では「快速列車」・「快速度列車」とも呼んでいたとされる)。この列車は好評であったようで、その後は長~短距離で同種の列車が設定され、その中にはいろいろと特徴ある列車も多かった。戦前の黄金期といえる1934年(昭和9年)12月の改正当時の特徴的な列車としては、次のようなものがあげられる。
- 221・224列車 (東海道本線)東京駅~沼津駅間運転。
- 箱根・伊豆方面の観光客向けの列車で、小田急線などと競合するためか同区間においては急行列車よりも速く、特急列車並みの速度で走った(特急「踊り子」の歴史も参照)。
- 442・447列車 (山陽本線、東海道本線、草津線、関西本線、参宮線経由)姫路駅~鳥羽駅間運転。
- 801・802列車 (東北本線、日光線・冬季運休)上野駅~日光駅間運転。
- 国際観光地日光への列車。東武鉄道日光線と競合するため高速運転を行い、上野駅~日光駅間を2時間半で結んだ。食堂車も連結した(国鉄・JR日光線の優等列車も参照)。
- 101・102列車 (東北本線)上野駅~青森駅間運転。
- 北海道連絡の一翼を担う列車で、二等寝台車・食堂車を連結。
また翌1935年(昭和10年)12月には、関西本線の湊町駅(現、JR難波)~名古屋駅間を3時間1分で結ぶ列車も設定されている。距離が15キロほど短かったとはいえ、当時名古屋駅~大阪駅間は急行列車が3時間半から4時間、特急「富士」が2時間50分、「燕」でも2時間38分を要していたから、複線の東海道本線に対し単線の関西本線でこのような列車を運転していたとは驚異といえるだろう(近鉄と競合する国鉄・JR線の優等列車も参照)。
さらに鉄道省では関東大震災や金融恐慌・世界恐慌などの影響を受けて日本が深刻な不況に陥り、それを受けて利用客の減少に悩まされていたことから、イメージアップと呼び込みを兼ねてシーズンになると観光地へ向けて臨時の準急列車をいくつも走らせた。その中には、当時正式には特急列車にしか付けられていなかった列車愛称を地方局独自でつけていたものもあった。代表的なものに下記がある。
- 漣(さざなみ)・潮(うしお) (前者は房総西線(後の内房線)、後者は房総東線(後の外房線)・夏季運行)両国駅~安房鴨川駅間等で運転。
- 高嶺(たかね) (中央本線、富士山麓電鉄大月線・夏季運行)新宿駅~富士吉田駅間運転。
- 黒潮号(くろしおごう) (南海本線、阪和電鉄線(後の阪和線)、紀勢西線(後の紀勢本線)・下り土曜、上り日曜運行)難波駅・阪和天王寺駅(現、天王寺駅)~白浜口駅(現、白浜駅)間運転。
しかしまもなく日本は戦争に突入し、これらの列車は戦時体制が強まるにつれて消滅した(戦前の準急の消滅した時期ははっきりしていない)。
戦後1946年(昭和21年)11月、上野駅~金沢駅間と上野駅~秋田駅間に再び「準急」と名乗る列車が登場した。「急行」として運転するには設備・車両が不十分であるという理由から設定され、この時から「準急料金」というものが定められて「優等列車」となった。しかし当時は運転事情が安定せず、翌1947年(昭和22年)の1月から6月にかけて石炭・車両事情の悪化から一時消滅し、6月から再び中央本線、日豊本線、山陰本線、予讃本線、土讃本線などに設定されている。
その後は急行列車の補助としての役割を果たしていくが、昭和30年代には次のような急行を凌ぐ列車も設定されている。
- かすが (関西本線)名古屋駅~湊町駅間運転。
- 日光 (東北本線、日光線)上野駅~日光駅間運転。
- 1956年(昭和31年)10月に、戦前同様競争状態にあった東武鉄道との対抗馬として、客車列車と同水準の設備を持ったキハ55系気動車を使用し運転を開始する。当初、上野駅~日光駅間を2時間で結んだ。東武鉄道の優等列車の始発が浅草駅であるのに対し、国鉄は上野駅でアクセスのよさでは格段の差があり、運賃も安かったこともあって東武鉄道に大きな痛手を負わせる事に成功する。翌1957年(昭和32年)10月には東京駅始発となり、利便が図られた。1963年(昭和38年)4月に日光線が電化されたため、「日光」は特急列車並の設備を持った157系電車に置き換えられ、好評を博した。1966年(昭和41年)3月、急行列車に格上げとなる(国鉄・JR日光線の優等列車も参照)。
- ひかり (鹿児島本線、日豊本線、豊肥本線)博多駅・門司港駅~小倉駅~大分駅~熊本駅間運転。
しかし、国鉄の経営が1964年(昭和39年)度から赤字に転落したので、増収のため急行列車に統合される事になる。まず1966年(昭和41年)3月に、準急行券の販売を100キロまでに制限し、その額をその距離の急行料金と同額にした。これにより100キロを超えて走行する準急はすべて急行列車となり、準急列車は「走行距離が100キロを下回る急行列車」の意味しか持たなくなった。そして1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正(通称「ヨン・サン・トオ改正」)で、残った準急列車もすべて急行列車に統合され、これをもって国鉄の準急列車は消滅した。
[編集] 私鉄
一部の私鉄では準急という種別の列車が運行されている。また通勤種別として通勤準急(Commuter Semi Express)を走らせているところもある。また都心部付近では準急列車と同じ停車駅になり、郊外では各駅に停車する区間準急(Section Semi Express・Suburban Semi Express)という列車も走っているところもある。なお、準急料金が必要な会社・路線は現在はない。多くの会社に共通することは、準急は旧国鉄・JRの格付けから見ると急行と快速の中間であるはずだが、快速より格下に扱われていることである。
- 2006年現在「快速」と「準急」が併存する路線は以下の通りだが、いずれも「快速」の方が停車駅が少ない(ただし、西武池袋線以外は「急行」よりも「快速」のほうが停車駅が少ない。括弧書きの路線内ではどちらも各駅停車となり差はなくなる)。
例えば、東武東上線・東武伊勢崎線・西武新宿線・西武池袋線・京阪本線・小田急小田原線等では、都市部付近では急行(西武池袋線は快速)と同じ停車駅で運行し、郊外では各駅停車になる、区間急行的な意味合いがある。
因みに東武伊勢崎線には、2003年まで準急(現・区間急行)の内A・Bと称される列車も運行された。但し、Aは日中の伊勢崎発着のみが設定されていたが、Bは東武日光線直通列車を含め全時間に設定され、複々線を擁する北千住駅~北越谷駅間では急行線の基礎列車の役割も果たしていた。
なお、区間準急という種別は小田急小田原線・東武伊勢崎線で運行されているが、前者は新宿駅~世田谷代田駅間で、後者は登場時は曳舟駅~新越谷駅間、2006年より北千住駅~新越谷駅間で通過駅を有する列車という意味合いで用いられている。また2006年3月21日には近鉄奈良線にも登場した。近鉄での英語表記は、Sub. Semi-Express (正式: Suburban Semi-Express)。
また、小田急小田原線では、快速準急と称する列車種別も存在した。これは、同線の準急を昼間時に速達化する目的で運行されていたものであるが、1971年に運行終了した。
南海電鉄では、準急列車をアナウンスする際、種別表示上では準急であるが、「準急行」と案内しているほか、乗り入れ先の泉北高速鉄道でも、同様に案内されている。
京阪電気鉄道では他の私鉄の一般的な種別立てと異なり、急行より下位、区間急行より上位という位置づけとなっている。そのためか、本来の準急の英語名(Semi Express)は区間急行に割り当てられ、準急には本来区間急行で使われる"Sub Express"の英語名が割り当てられている(似たような事例として、京成電鉄と東武鉄道の「快速」が本来とは逆に「急行」より上位種別である)。
[編集] 準急列車を運行する鉄道会社および路線
この書体でかかれた路線は線内に通過駅のあるもの
[編集] 準急に類する列車を運行する鉄道会社および路線
この書体でかかれた路線は線内に通過駅のあるもの
過去には東武鉄道(本線系統のみ)が2003年3月19日から2006年3月17日の間、設定していた。(停車駅は現在の急行と同じ)
過去には西武鉄道にもあったが、廃止されている。
[編集] 準急が乗り入れる鉄道会社および路線
線内の通過駅はなし
[編集] 特別準急
かつて存在した列車種別として、「特別準急」と言うものがある。これは、国鉄乗り入れの際に準急として運行されるが、自社線内は特急並みとして運行された列車のことで、以下の会社・路線・列車で使用されていた。
また、国鉄準急の内、157系電車を使用したものがこう称されたこともあった。これについての詳細は国鉄157系電車の項を参照のこと。