池田恒興
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池田 恒興(いけだ つねおき、 天文5年(1536年) - 天正12年4月9日(1584年5月18日))は、戦国時代・安土桃山時代の武将。尾張国、織田氏の家臣で、織田信長・豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕える。犬山城主。清洲会議における四宿老の一人。通称は勝三郎。紀伊守を自称、晩年に入道となって勝入と号した。諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。信長の乳兄弟であり輝政の父であることからついた名ではないかと思われる。
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[編集] 経歴
出身地は尾張国、美濃国、摂津国、近江国など諸説。
母は信長の乳母であり、乳兄弟。幼少の頃から小姓として織田家に仕えた。
桶狭間の戦い、美濃攻略などで戦い、元亀元年(1570年)、浅井・朝倉との姉川の戦いで活躍し、犬山城主となる。甲斐の武田氏との長篠の戦いなど、信長の主だった戦に参陣した。
天正8年(1580年)、信長に抵抗し、花隈城に籠もる荒木村重を破り、その旧領を領する。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉とともに山崎の戦いで光秀を破り、織田家の宿老に列する。
同年、織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉とともに信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立、翌年には勝家との賤ヶ岳の戦いで戦い、天正11年(1583年)、美濃国にて13万石を拝領し大垣城主となる。
天正12年(1584年)、三河の徳川家康、織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦。緒戦で犬山城を攻略したのち、三好秀次(豊臣秀次)・森長可(恒興の娘婿)・堀秀政とともに家康の本拠三河を攻めようとしたが、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬したことが災いとなり(逆上してしまったことと負傷し身動きの自由を失ったことと二重に災いをなした)長久手にて長可とともに戦死。享年49(数え年)。時勢を見る目もあり勇猛ではあったが短慮な性格であったことが災いしたともいう。
この時、嫡男の元助も討ち死にしたため、池田家の家督は次男の輝政が相続した。
[編集] 一族縁者
[編集] 系譜
滝川三郎━━一益 滝川三四郎━恒興━輝政