小寺政職
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小寺政職(こでら まさもと、永正14年(1517年) - 天正10年(1582年))は戦国時代の武将で、播磨国御着城主。小寺則職の子。通称は藤兵衛。
半独立勢力として西播磨に勢力を振るったが、天正初年の播磨をめぐる織田氏と毛利氏の戦いで毛利方についたために没落した。黒田孝高(官兵衛、如水)が初めに仕えていた人物としても知られる。
赤松氏の重臣で、1521年に赤松義村が浦上村宗に殺害されると、義村の遺児・赤松晴政とともに細川晴元を頼って落ち延びた。1531年にはついに村宗を討って赤松氏の再興に尽力した。その後はいくたびかの小競り合いを制し、播州平野を中心として半独立勢力として割拠した。この間政職は多くの家臣を登用し、その中には浪人であった黒田重隆・職隆親子も含まれていた。彼らの能力を認めた政職は彼らを家老職に引き上げ、姫路城代を任せ、さらに小寺の苗字を与えている。この職隆の子が有名な黒田孝高であるが、その孝高にも政職は自らの姪(櫛橋氏娘)を妻とさせるなど厚遇している。
天正4年(1576年)、播磨にも東から織田信長、西から毛利氏と大勢力が迫ってきた。政職はかねてから織田氏と誼を通じていた孝高の進言に従って織田信長に従ったが、1578年に荒木村重が摂津国有岡城で信長に謀反するとそれに呼応して信長に背き、毛利氏と通じた。しかし1580年、信長の嫡男・織田信忠によって討伐されて御着城は落城、政職は毛利氏のもとへ落ち延びたという。これに先立つ1579年、孝高は信長の命により、信長から反乱した小寺の苗字を改めさせられ、元の黒田を名乗ることとなっている。