糟屋武則
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糟屋 武則(かすや たけのり、1562年(永禄5年) - 1607年(慶長12年))は安土桃山時代・江戸時代の大名。播磨国にて別所氏の家臣であった糟屋忠安の次男。兄に糟屋朝正。姓は糟谷や加須屋とも記され、有名な名乗りとしては「加須屋真雄(かすやさねかつ)」とも。名乗りは他にもあり、数正、宗重、真安、宗孝など、いずれも武則の別名として伝わっており年代によって違うことから、本人の名なのか、子なのか混乱もある。助右衛門、正之助。内膳正。
甥に弓の名手として名高い糟屋武成がいる。
黒田孝高の推挙により羽柴秀吉の小姓となり、賤ヶ岳の七本槍となる活躍により三千石余を拝領する。朝鮮出兵などで活躍し、播磨加古川城主(12000石)になる。
のち関ケ原にて七本槍の中で唯一西軍に加わり、伏見城攻防戦に参加した。戦後改易されるが、後に許され500石という小禄ながら徳川家臣となる。だがその死後、糟屋家は再び断絶となった。