山崎の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10(1582)年6月に本能寺の変で織田信長を討った明智光秀に対して、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉が、6月13日(西暦7月2日)京都へ向かう途中の摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)で、明智軍と衝突した戦闘である。山崎合戦、天王山の戦いとも呼ばれている。
目次 |
[編集] 経緯
[編集] 合戦まで
本能寺の変勃発時、織田家中の軍団長レベルの武将ならびに同盟者・徳川家康の動静は次のとおりであった。
- 柴田勝家:越中魚津城で上杉勢と対戦中
- 滝川一益:上野厩橋城で関東管領として北条勢と対峙中
- 丹羽長秀:大坂・堺で四国遠征待機中
- 羽柴秀吉:備中高松城近辺で毛利勢と対戦中
- 徳川家康:堺で近習数名と見物中(帰国途路の飯盛山(四条畷市)付近で凶報に接する)
秀吉は備中高松城で対峙していたが、清水宗治の申し出を受諾し、6月4日には備中高松城は宗治の自刃によって開城されるはずであった。しかし、その前日に本能寺の変の情報を入手。ただちに毛利軍と素早く和議。4日に堀尾吉晴・蜂須賀正勝を立会人にして宗治の自刃を検分。後始末の後に5日から6日にかけて撤兵。6日に沼(岡山城東方)、7日に姫路城、11日に尼崎と所謂「中国大返し」といわれる機敏さで畿内へ急行した。秀吉の懸念材料は、地理的には光秀に近い「摂津衆」の動向であった。たまたま、変を嗅ぎつけたらしい摂津衆の一人・中川清秀から書状が舞い込み、秀吉は「上様・殿様は危難を切り抜けられ膳所に下がっている。これに従う福富平左衛門は比類なき功績を打ち立てた」という返事を清秀に出した(6月5日付)。もちろんデマだったわけであるが、結果的に摂津衆は清秀・高山右近を初めとしてほとんどの諸将が秀吉に味方をすることになり、さらに四国征伐のために大坂に集結していた織田信孝・丹羽長秀らも味方になった。12日に富田で軍議を開き、秀吉は長秀、次いで信孝を総大将に推したが、逆に両者から望まれて自身が事実上の盟主となった(名目上、信孝が総大将となった)。秀吉は山崎あたりを合戦場と想定した作戦部署を決めた。なお、長秀と信孝は軍議に先立ち、光秀に内通の噂があった光秀の女婿・織田信澄を自刃に追い込んでいる。
一方、光秀は変後は京の治安維持に当たった後、武田元明・京極高次らを近江に派兵して、数日内に近江は瀬田城(山岡景隆・景佐兄弟在城。山岡兄弟は光秀の誘いを拒絶し、瀬田橋を焼くなど抵抗の構えを見せた末、一時甲賀方面に避難)、日野城(蒲生定秀・賦秀父子在城)などを残し平定された。その傍ら、組下大名に参戦を呼びかけたが、縁戚であった細川藤孝・忠興父子は3日に「喪に服す」と称して剃髪、中立の構えを見せた。また、筒井順慶は参戦に応じ配下を山城に派兵していたが、極秘裏に秀吉側に寝返り、9日に郡山城で籠城支度を始めてしまった。光秀は次男を連れて洞ヶ峠まで来たが、順慶が来るはずもなかった(この話が拡大して「筒井順慶が洞ヶ峠で日和見を行った」なり、それにちなんで日和見を「洞ヶ峠(を決め込む)」と言うが、記したとおり順慶は洞ヶ峠には来ていない)。そうこうしている内に10日に秀吉接近の報を受け、急いで淀城・勝竜寺城の修築に取り掛かり、また男山に布陣していた兵力を撤収させた。こうして、予想を越える秀吉軍の進攻に体制を十分確立できぬまま光秀は決戦に望む羽目となる。
[編集] 合戦経過
両軍は12日頃から円明寺川を挟んで対峙。その前夜に高山隊が山崎の集落を占拠。また、黒田官兵衛、羽柴秀長、神子田正治らが天王山(標高270m)に布陣した。秀吉の本陣は山裾後方の宝積寺に置かれた。13日(雨だったと言われる)も対峙は続いていたが、天王山の山裾を横切った中川隊が高山隊の横に陣取ろうと移動してきた(この話が拡大して「清秀が天王山を占拠して明智軍を牽制したことが戦いの帰趨を分けた」といわれ、山崎合戦をのちに「天王山の戦い」とも言うようになり、物事の正念場を「天王山(の戦い)」と呼ぶようになったが、天王山の争奪は戦局に大きく影響はしなかったとも、天王山の争奪戦そのものが中川家記や太閤記などの創作で実際はなかったとも言われる)。移動中の中川隊に斎藤利三隊の右側に陣取っていた伊勢貞興隊が襲い掛かり、それに呼応して斎藤隊も高山隊を猛襲した。中川・高山両隊は早くも崩れかけ、秀吉は自隊から堀秀政隊を中川・高山両隊の後詰に向かわせ崩壊を防いだ。天王山にいた黒田・秀長・神子田の隊は、中川・高山両隊を側面から襲うべく接近してきた松田政近・並河掃部両隊と交戦し、一進一退の攻防が続いた。
戦局が大きく動いたのは一刻後、淀川沿いに布陣していた池田恒興・池田元助・加藤光泰率いる手勢が、密かに円明寺川を渡河して津田信春を奇襲。津田隊は三方から攻め立てられ、雑兵が逃げ出したこともあり崩壊した。また、池田隊に続くように丹羽隊・信孝隊も一斉に押し寄せ光秀本隊の側面を突くような形となった。これに呼応して苦戦していた中川・高山両隊も明智軍を押し返し、こうして明智軍は総崩れとなった。御牧兼顕は「我討死の間に引き給え」と光秀に使者を送った後羽柴軍の大群に呑まれていった。光秀は戦線後方の勝竜寺城に退却を余儀なくされる。しかし、兵の脱走が相次ぎ、光秀は勝竜寺城を密かに脱出して居城坂本城(大津市)をさして落ち延びる途中、小栗栖(京都市伏見区)の藪(いま「明智藪」と呼ばれる)で土民の落ち武者狩りに遭い、からくも逃れたものの力尽き家臣の介錯により自刃したと言われる。いわゆる三日天下である(実際には十一日)。その後、羽柴軍は秀政を近江への交通路遮断と光秀捜索に派遣。14日には光秀の後詰のために急遽出兵した明智秀満隊を撃破。敗走した秀満は坂本城で光秀の一族とともに自刃。中川・高山両隊は丹波亀山城に向かい、明智光慶を自刃させ城を占拠。こうして明智氏は僧籍にいた者などを除いて滅んだ。秀吉は、この信長の弔い合戦に勝利した結果、清洲会議などを経て信長の後継者筆頭としての名乗りを挙げ、天下人への道を歩み始める。
光秀の敗因は思った兵力が整わなかったため十分な迎撃体制をとることができなかったことや、山崎が京から西国へと出るために要所であり、明智軍はこの要所を防衛する形で戦わざるを得なかったからだとも言われている。それでも明智軍側の指揮系統能力の高さが発揮され、戦死者数では勝利した羽柴軍の犠牲の方が多かったとされている(羽柴軍の戦死者・3300余、明智軍の戦死者・3000余と言われている)。
天王山山中には「秀吉旗立ての松」が残っている。
[編集] 羽柴軍と明智軍のデータ
- 羽柴軍(約36500)
秀吉本隊中には他に直番衆として加藤清正、福島正則、大谷吉継、山内一豊、増田長盛、仙石秀久、田中吉政といった顔ぶれもいた。
- 明智軍(約16000)
- 斎藤利三・柴田勝定:2000
- 阿閇貞征・明智茂朝:3000
- 松田政近・並河掃部:2000
- 伊勢貞興・溝尾勝兵衛・諏訪盛直・御牧兼顕:2000
- 津田信春:2000
- 光秀本隊:5000
その他、小川祐忠なども参加していた。
[編集] 他の諸将の動き
- 柴田勝家:上杉対策を前田利家、佐々成政らに託し京に向かったが、越前・近江国境の柳ヶ瀬峠に到達したところで合戦の情報が入り、そのまま清洲城に向かった。
- 滝川一益:北条氏政から変についての情報がもたらされ、「北条は手出ししない」という声明もあったが一益がこれを偽計と見てとり、結果的に北条勢と一戦見えることとなった(神流川の戦い)。第二合戦で敗北の後、碓氷峠から本拠地・伊勢に7月に帰還。清洲会議にも参加できず、以後零落の一途をたどる。
- 徳川家康:所謂神君伊賀越えを経て岡崎城から光秀討伐に向かったが、鳴海(一説に熱田。酒井忠次は北伊勢まで進出していた)に到達したところで合戦の情報が入り反転。以後、甲斐・信濃の領土化を目指し、同じく甲斐・信濃の領土化を目指した北条と天正壬午の乱で戦う。
[編集] 関連項目
昭和初期、鉄道省(国鉄)が東海道本線で運行していた特急「つばめ」号を、阪急京都本線の前身である新京阪鉄道の列車が山崎辺りの両線併走区間で追い抜いたという逸話があり、一部の鉄道ファンはこのことを、秀吉と光秀の争いに因んで「山崎の合戦」と呼んでいる。
[編集] 参考文献
- 帝国陸軍参謀本部編『日本戦史 山崎役』村田書店、1920年/1979年
- 河野豊「疾風怒濤の大返し―山崎の合戦」『歴史群像シリーズ③羽柴秀吉【怒濤の天下取り】』学習研究社、1987年
- 桐野作人「大軍で制した天下取りの起点―山崎の戦い」『歴史群像シリーズ30豪壮秀吉軍団』学習研究社、1992年
- 谷口克広「中川清秀 野心家、最後に秀吉の囮とさる」『歴史群像シリーズ30豪壮秀吉軍団』学習研究社、1992年
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | 安土桃山時代の戦い | 日本の戦国時代の戦い | 京都府の歴史 | 大阪府の歴史 | 大山崎町