前野長康
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前野 長康(まえの ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。但馬出石城主。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 1528年(享禄元年) | |||
死没 | 1595年9月22日(文禄4年8月19日) | |||
別名 | 小太郎(幼名)。将右衛門(通称)。坪内光景(別名) | |||
主君 | 豊臣秀吉→豊臣秀次 | |||
官位 | 従五位下、但馬守 | |||
氏族 | 前野氏→坪内氏 | |||
父母 | 父:前野宗康。義父:坪内勝定 | |||
兄弟 | 兄:小坂雄吉。義兄:蜂須賀正勝 | |||
子 | 前野景定。娘(前野忠康室) |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 秀吉の譜代家臣として
羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である。俗に言う秀吉の墨俣城一夜城築城に協力し、その後も秀吉を支え続けたと言われている。
信長没後、秀吉が天下人の過程に上る天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)の四国征伐に参加して武功を挙げたため、同年閏8月に秀吉から播磨三木から但馬出石に5万3000石で加増移封された。
その後、聚楽第造営の奉行を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇行幸の際には、その饗応役を務めた。天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)の文禄の役にも参加して武功を挙げ、最終的には出石に11万石を与えられた。
[編集] 最期
文禄の役が始まった頃から、秀吉の甥・豊臣秀次付の家老となって秀次を支えた。しかし文禄4年(1595年)、秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、長康も秀次を弁護したことから連座として罪に問われて中村一氏に身柄を預けられ、そこで息子の景定と共に自害を命じられた。享年68。
[編集] 人物
- 蜂須賀正勝(小六)とは義兄弟の契りを交わした仲であり、正勝とは生涯を通じて仲が良かったと言われている。
- 譜代の家臣が少ない豊臣家においては大変貴重な存在であった。そのため、その死は豊臣氏の損失を成したと言える。
[編集] 武功夜話
長康の兄・小坂雄吉の子孫が残した武功夜話は有名である。
昭和34年(1959年)に日本を襲った伊勢湾台風で発見された『武功夜話』のうち、五宗家は長康の日記であり、従来の学説を根本的に覆す歴史的にみても非常に貴重な史料と一時は注目されたが、その後偽書であることがほぼ明らかとなった。