豊臣秀長
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豊臣 秀長(とよとみ ひでなが/とよとみ の ひでなが、天文9年(1540年)-天正19年1月22日(1591年2月15日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 天文9年(1540年) | |||
死没 | 天正19年1月22日(1591年2月15日) | |||
改名 | 小竹(幼名)。小一郎(通称)長秀(別名) | |||
戒名 | 大光院殿前亜相春岳紹栄大居士 | |||
墓所 | 奈良県大和郡山市(大納言塚)。 京都市大徳寺大光院 |
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官位 | 従五位下、美濃守。従二位、大納言 | |||
氏族 | 木下氏→羽柴氏→豊臣氏 | |||
父母 | 父:筑阿弥。母:大政所なか | |||
兄弟 | 姉:日秀。兄:秀吉。妹:朝日姫 | |||
妻 | 智雲院 | |||
子 | おきく(豊臣秀保室)、大善院(毛利秀元室)、 養子:豊臣秀保、藤堂高吉 |
- 羽柴 秀長(はしば ひでなが)とも言われる。
- 豊臣秀吉の異父弟(一説には同父弟)。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 織田信長時代
天文9年(1540年)、竹阿弥の子、秀吉の異父弟として生まれる(一説に同父弟とも)。秀吉が織田信長に仕え始めた頃から、秀長も信長の家臣となり、兄の補佐役を務めた。天正2年(1574年)、秀吉が越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、代理として長島に出陣している。
秀吉が信長の命令で中国方面総司令官となると、播磨・但馬攻略で軍功を挙げた。そのため、天正5年(1577年)には但馬竹田城主に任命される。天正8年(1580年)には、但馬出石城主となった。
[編集] 秀吉時代
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去すると、秀吉の大返しに従って山崎の戦いにも参戦し、武功を挙げたため、従五位下、美濃守に叙任された。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにも参戦して武功を挙げた。天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻めでも武功を挙げたため、兄から紀伊・和泉などに所領を与えられた。その直後の四国征伐では兄の代理として総大将に任じられ、長宗我部元親を降した功績を賞されて、大和を加増されて郡山城に入り、116万石の大大名となった。
天正15年(1587年)の九州征伐では別働隊の総大将として出陣して武功を挙げたため、その功績により8月に従二位・大納言に叙任された。
しかし天正18年(1590年)1月頃から病に倒れ、小田原征伐には参加できなかった。天正19年(1591年)1月22日、大和郡山城で病死した。享年52。男児がいなかったため、家督は甥の豊臣秀保を養子として後を継がせた。
戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」。現在の大和郡山市箕山町に「大納言塚」が伝わる。また大阪市中央区の豐國神社には、兄・秀吉及び甥・秀頼と共に祀られている。
[編集] 人物・逸話
- 兄・秀吉の片腕として辣腕を奮い、文武両面での活躍を見せて天下統一に貢献した。温厚な人柄で、兄を立て、兄を助ける補佐役に徹し、後には各大名からも頼りにされる人格者であったという。大友宗麟は秀長のことを、「内々の儀は宗易(利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と(大友家文書録)述べたと、記述されている。
- その人格と手腕で織田家臣の時代より内政や折衝に特に大きな力を発揮し、不協和音の多い豊臣政権の要石の役割を果たした。秀吉の天下統一後も、支配が難しいとされた神社仏閣が勢力を張る大和、雑賀衆の本拠である紀伊国、さらに和泉までを平和裏のうちに治めたのも、秀長の功績である。
- 秀長は、兄の行なおうとした朝鮮出兵には反対していた。そのため、朝鮮出兵や千利休切腹、豊臣秀次事件などの乱行は秀長の死後に起こっている。また、彼が進めようとした体制整備も不十分に終わり、文治派官僚と武功派武将との対立の温床になってしまった。秀長が秀吉より長命だったなら、秀吉の晩年の愚行は起こらなかったかもしれないし、また徳川家康による簒奪を防ぐことができた可能性もあった。そのうえで、秀長の死は豊臣政権を揺るがす大きな損失であった。
[編集] 官歴
※日付=旧暦
- 天正11年(1583年) 従五位下美濃守 (この時期、木下小一郎から羽柴長秀に改苗字か?)
- 天正12年(1584年)6月、名を長秀から秀長に改める。
- 天正13年(1585年)10月6日、従四位上に昇叙し、参議に補任。右近衛権中将を兼任。
- 天正14年(1586年)10月4日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。 11月5日、正三位に昇叙。権中納言如元。
- 天正15年(1587年)8月8日、従二位に昇叙し、権大納言に転任。
[編集] 姓について
「豊臣秀長」とは本姓による名乗りであり、「羽柴」という名字は豊臣姓下賜後も変わってはいない。