清水宗治
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清水 宗治(しみず むねはる、1537年(天文6年) - 1582年6月23日(天正10年6月4日))は、日本の戦国時代の武将である。備中国高松城主。毛利氏の家臣。通称長左衛門。清水宗則の子。三村氏の有力配下石川久智の娘婿。子供に景治、兄に宗知(月清入道)。
備中の一豪族の家臣の身分で、備中の清水城の城主を務めた。1565年(永禄8年)に三村氏を裏切り、高松城を奪取して城主となる。秋山氏・石川氏など、三村氏に寄る高梁川流域の諸豪族を血縁があるにも関わらず、だまし討ちにしたといわれる。この結果、毛利氏の家臣となり、小早川隆景の配下として毛利氏の中国地方の平定に従軍する。宗治は名将で、毛利氏に対する忠誠心も厚かったと言われ、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から厚く信頼された。
1582年、統一政策を進める織田信長の家臣羽柴秀吉が中国攻めを行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦する。秀吉は降伏すれば備中国を与えるという条件を出したが、宗治は応じなかったと言われている。そのため、黒田孝高(官兵衛)が策した水攻めにあって城は落城寸前に追い込まれる。この水攻めの最中の6月に京都で本能寺の変が起こって織田信長が死去し、その報を知った秀吉は宗治の切腹を条件に城兵を助命する講和を呼びかけ、宗治は信長の死を知らぬまま、その数日後に水上で切腹した。享年45。
秀吉は信長の敵討ちのために一刻も早く京へと戻りたいところであったが、「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」と陣から一歩も動かなかったといわれている。また、後に小早川隆景に会った秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したという。
[編集] 辞世の句
浮世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の 苔に残して