足軽
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足軽(あしがる)は日本の雑兵。農民などから徴集された。
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[編集] 平安・鎌倉・室町時代
発生は平安時代とされ、検非違使の雑用役・戦闘予備員として従軍した「下部」が足軽の原型とされる。鎌倉時代中期頃まで、騎馬武者による個人戦を原則としたことから、足軽は運搬などの兵站や工兵的任務に従事させられることが多かった。
南北朝時代に悪党の活動が活発化し下克上の風潮が流行すると、伝統的な戦闘形態は個人戦から集団戦へと変化し始め、足軽の活躍の場は土一揆・国一揆にも広まった。応仁の乱では足軽集団が奇襲戦力として利用されたが、足軽は忠誠心に乏しく無秩序でしばしば暴徒化し、商店が軒を連ねる京都に跋扈し暴行・略奪をほしいままにすることもあった。
[編集] 戦国時代
これまで足軽は戦闘の主役ではなかったが、戦国時代を迎え集団戦が本格化・大規模化していくと、訓練された長槍・弓・鉄砲の足軽隊が組織され備の主要な部隊として活躍するようになる。戦国時代後期には地位も向上して足軽大将の家禄は、200石から500石程度で中級の武士として認められる存在になった。兵卒の身分は依然として武士と農民の間に位置して低かったが、功を認められれば豊臣秀吉のように足軽から大名に出世する者もあった。 戦国期には歩兵の大集団による集団戦が確立されており、足軽の兵装もそれに沿ったものになっていた。 一般的には皮革、あるいは和紙を漆でかためた陣傘、鉄の胴鎧、篭手、陣羽織を装着し、そのほか水筒、鼻紙、布にくるんだ米などを携帯していた。胴鎧に関しては、稀に和紙や皮革でできたものも見ることができるが、現存しているのはほとんどが重量4kg前後の鉄製のものである。
足軽部隊は、槍組足軽、弓足軽、鉄砲足軽などに分類され、多くは集団で隊を編制して小頭の指揮に従った。 雑兵物語で詳しく当時の生活や操典、心得などを知ることができる。戦国期の足軽は非常に重装備であり、大型の手盾をもたないことを除けば重装歩兵とも比較できる装備を整えていた(ただし、後期になると一部足軽は足軽胴を着用せず、代わりに羽織を用いるようになる)。
[編集] 江戸時代
豊臣政権による兵農分離により、臨時雇いの足軽の大部分は帰農し、残った足軽は武家社会の末端を担うことになった。
江戸幕府は、直属の足軽を幕府の末端行政・警備警察要員等として「徒士(かち)」や「同心」に採用した。 諸藩においては、大名家直属の足軽は足軽組に編入され、平時は各所の番人や各種の雑用それに「物書き足軽」と呼ばれる下級事務員に用いられた。そのほか、大身の武士の家来にも足軽はいた。
一代限りの身分ではあるが、実際には世襲は可能であり、また薄給ながら生活を維持できるため、後にその権利が「株」として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなった。 加えて、有能な人材を民間から登用する際、一時的に足軽として藩に在籍させ、その後昇進させる等の、ステップとしての一面もあり、中世の無頼の輩は、近世では下級公務員的性格へと変化していった。
また、足軽を帰農させ軽格の「郷士」として苗字帯刀を許し、国境・辺境警備に当たらせることもあった。こうした例に肥後藩の「地筒・郡筒(じづつ・こうりづつ)」の鉄砲隊があり、これは無給に等しい「名誉職」であった。実際、鉄砲隊とは名ばかりで、地役人や臨時の江戸詰め藩卒として動員されたりした。逆に、好奇心旺盛な郷士の子弟は、それらの制度を利用して、見聞を広めるために江戸詰め足軽に志願することもあった。
[編集] 幕末・明治時代
幕末になって江戸幕府及び諸藩は、火縄銃装備の鉄砲組を廃止し、洋式銃装備の歩兵隊や銃隊を作る必要に迫られたが、従来の足軽隊は既に整理され事実上消滅し、残りも最低定員で末端役人や治安警備担当に振り分けられていたため、新たに人員を募集し戦国時代の足軽隊に似た歩兵部隊を創設した。しかしこれらの身分は足軽より下の中間(ちゅうげん)小者待遇とされた。
明治に至り廃藩置県等の体制の変革により、同心・足軽等一部は羅卒・兵卒・下士官・末端役人として引き続き出仕した。その後、旧武士は「士族」「卒族」に分類され、同心や足軽は卒族とされたが、卒族が廃止されたのち上格の者は「士族」その他の者は農工商と同じく「平民」と戸籍に記載されその表記制度は1948年(昭和23年)まで残された。