伏見城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
|
模擬天守 | |
通称 |
指月城、桃山城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
不明 |
築城主 |
豊臣秀吉 |
築城年 |
1592年 |
主な改修者 |
徳川家康 |
主な城主 |
豊臣氏、徳川氏 |
廃城年 |
1623年 |
遺構 |
現存移築門・石垣 |
[編集] 沿革
記録によれば、室町幕府の家臣であった三淵藤英(細川藤孝の実兄)が伏見に居城を持っていたとされるが、詳細は不明である。
1592年に豊臣秀吉が隠居所として宇治川沿いの低地丘陵である指月山に造り始め、後に破却した聚楽第の建物の一部を移築するなどして本格的な城郭を建設した(指月城)。
しかし、指月山の伏見城は1596年大地震で崩壊したため、やや離れた桃山(現在の木幡山)の地に新たに築城し直された(木幡山城)。1598年秀吉はこの城で最期を迎える。
秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は大坂城に移り、五大老筆頭の徳川家康がかわってこの城で政務をとった。関ヶ原の戦いのとき、家康の家臣鳥居元忠らが守っていた伏見城は西軍に攻められ、焼失した(伏見城の戦い)。
1601年より家康の命により再建され、1603年の将軍宣下の儀式に使用。江戸幕府の西国支配の拠点となるが、大坂の役の後、伏見城の役割は大坂城へ移り、幕府にとっての重要性は薄れた。
徳川家康の隠居に伴い伏見城の廃止が決定され、1623年に徳川家光の将軍宣下を最期に、正式に廃城が決定。
天守をはじめ一部の建物は二条城に移され、また京都の社寺などにも移築された。石垣は淀城や大坂城の修築に使用。城門は大手門が移築された御香宮神社(伏見区)表門や、西本願寺(下京区)唐門、二尊院(右京区)総門、観音寺(上京区)山門など数棟が現存。櫓は福山城(広島県福山市)伏見櫓(重文)、江戸城(東京都)伏見櫓などが現存。三渓園(横浜市中区)には諸侯控え室が現存。殿舎の一つは大通寺(滋賀県長浜市)の本堂(重文)として現存。琵琶湖湖上の竹生島にある都久夫須麻神社本殿(国宝)は指月城の日暮御殿を移築したものと伝えられる(地震の際に受けたと思われる被害の痕跡が残る)。また伏見城内に所在したとされる秀吉愛用の移動式能舞台は備後国鞆の浦(現在の広島県福山市)の沼名前神社境内にある(重文)。高台寺(東山区)にある茶室「時雨亭」と「傘亭」(ともに重文)も伏見城内から移されたものと伝えられる。
廃城後、一帯は「掘内村」として開墾され、桃畑となったため、安土桃山時代の由来とされ、伏見城は、これにより桃山城とも呼ばれている。また、開墾にたずさわった一族の末裔は、吉村酒造蔵元・吉村家と伝えられている。
伏見城本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(桃山御陵)とされたため、立ち入りが禁止されているが、1964年、やや離れた伏見城花畑の跡に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、その目玉として鉄筋コンクリートによって模擬天守「伏見桃山城」が建設された。2003年1月にキャッスルランドは経営母体である近鉄のリストラの一環として閉園したが、伏見桃山城は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり、取り壊しを免れた。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 日本の城 | 京都市の歴史 | 京都府の建築物・観光名所