織田信雄
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 永禄元年(1558年) | |||
死没 | 寛永7年4月30日(1630年6月10日) | |||
別名 | 茶筅丸(幼名)、北畠具豊、信意、信勝(別名) | |||
諡号 | 常真 | |||
戒名 | 実岩貞公徳源院殿 | |||
墓所 | 群馬県甘楽町小幡の崇福寺 京都市北区紫野の大徳寺 |
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官位 | 従五位下、侍従、左中将、正五位下、 従四位下、中納言、正三位、従二位、 正二位、内大臣 |
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藩 | 大和宇陀松山藩主 | |||
氏族 | 織田氏→北畠氏→織田氏 | |||
父母 | 父:織田信長、母:生駒家宗の娘 養父:北畠具房 |
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妻 | 正室:北畠具教の娘・千代御前 継室:木造具政の娘 側室:津田氏など |
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兄弟 | 同母兄:織田信忠、同母姉:徳姫 異母弟:織田信孝、羽柴秀勝、織田勝長ほか |
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子 | 織田秀雄、織田高雄、織田信良、織田高長、 織田信為、織田良雄、織田長雄、 娘(佐々一義室)、娘(土方雄氏室)、 娘(生駒直勝室)、娘(佐々木政勝室) |
織田 信雄(おだ のぶかつ/のぶお、永禄元年(1558年) – 寛永7年4月30日(1630年6月10日)) は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。
織田信長の次男。幼名は茶筅丸。出家した後は常真と名乗る。北畠家の名跡を継承していた時期は御本所と敬称された。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 出生
永禄元年(1558年)、織田信長の息子として生まれる。織田信孝の方が数日先に生まれたが、侍女が信長に出生を伝えるのが信雄の方が早かったために信雄は次男、信孝は三男になった(母の身分が信孝の母よりも高かったためともいわれる)。生母は生駒家宗の娘(偽書武功夜話によると、名は吉乃)。
[編集] 信長存命中
元亀元年(1570年)、父・信長の北畠攻めの際に和睦の条件として、北畠具房の養嗣子となり、北畠具教の娘を娶る。そして天正3年(1575年)に家督を相続した。翌天正4年(1576年)には、義父である北畠具教や北畠一門を抹殺し、完全に北畠勢力の乗っ取りを果たしている。
天正7年(1579年)、信長に無断で伊賀に攻め込み大敗する。このため、信長から激しく叱責された。しかし天正9年(1581年)、父から大和・伊勢の諸大名の軍勢を預けられて再び伊賀に攻め入り、伊賀の国人を討ち果たしている。
[編集] 本能寺の変
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去すると、信雄は近江土山まで進軍するものの、明智軍と戦うことを恐れたのか、すぐさま伊勢に撤退している。そして明智光秀の死後、清洲会議が開かれると、信長の後継者になろうと画策したが失敗し、尾張・伊賀・南伊勢におよそ100万石の所領を与えられ、清洲城を居城とした。このとき、織田に復姓した。
[編集] 小牧・長久手の戦い
天正11年(1583年)の柴田勝家と羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いである賤ヶ岳の戦いでは秀吉に味方した。そして後継者争いで日頃から不仲であった柴田方の異母弟・織田信孝を岐阜城に攻め、その降伏後に自害させた。
しかし、柴田勝家の死後、急速に力を持った羽柴秀吉と織田氏の後継者としての立場から対立する。そして秀吉と袂を分かち、徳川家康と同盟を結んだ。そして天正12年(1584年)3月、秀吉に通じたという理由で重臣の津川義冬・岡田重孝・浅井長時ら3人を殺害して、徳川家康に助けを求めたことから小牧・長久手の戦いが起きる。
織田・徳川連合軍は長久手の戦いで局地的に羽柴軍を破り、羽柴方の池田恒興や森長可らを討ち取った。しかし圧倒的な戦力を持つ秀吉相手に戦いは長引いた。そしてその間に秀吉の調略を受けた信雄は、11月11日に家康に無断で秀吉と単独講和してしまう。このため、信雄を擁して秀吉と対立していた家康には、秀吉と戦うだけの名分を失うこととなり、この戦いは終結した。
以後は秀吉に従い、佐々成政の越中征伐や九州征伐などに参加した。天正15年(1587年)の九州征伐の後、内大臣に叙任される。天正18年(1590年)1月、豊臣秀吉の養女になっていた長女小姫と徳川秀忠が結婚する。なお、当初は伊勢長島城を居城にしていたものの、天正13年(1585年)11月の地震で大破したため、尾張清洲城に移った。
[編集] 改易
天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦し、伊豆韮山城攻めで武功を挙げた。ところが戦後、家康は東海5カ国から関東8カ国に移封され、代わって信雄も尾張から家康旧領への移封を命じられる。しかし信雄はこれを拒否したため、秀吉の怒りにふれて改易されて、下野烏山(一説に那須とも)に流罪に処された。このとき、出家して常真と号した。
その後、出羽秋田、さらに伊予に流されたが、間もなく家康の斡旋により、文禄元年(1592年)の文禄の役に際し、豊臣秀吉によって赦免されて再出仕し、相伴衆に加えられた。このとき、大和国内に1万8000石を与えられた。同時に長男・織田秀雄も召し出されて、越前亀山に5万石を与えられた。
[編集] 江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際の動向は、はっきりしない。石田三成を支持したとも、畿内情報を徳川家康に送っていたともいう。おそらく、大坂にあって動かず、西軍と見なされたと思われる。そのため、戦後に家康から改易されてしまった。このとき、長男の秀雄も改易されている。
その後は大坂で暮らしながら豊臣家に出仕した。しかし、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の直前に豊臣秀頼のもとを去った。当時、世間で信雄が豊臣方の総大将になるという噂も流れていたようである。
大坂夏の陣後の元和元年(1615年)7月23日、家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えられて、大名に復帰した。しかし、ほどなく4男信良に上野小幡2万石を分け与え、自らは京都に住んで茶や鷹狩りなど、悠々自適の人生を送った。事実上の隠居であったと考えられる。なお、寛永5年(1628年)10月には徳川家光の招きにより、江戸城での茶会に参加している。
寛永7年(1630年)4月30日に京都北野邸で死去。享年73。実質的な隠居料であった大和国宇陀郡の領地は、5男の高長が継いだ。なお、この相続をめぐり、上野小幡藩織田家側から異論が出された。
[編集] 子孫
- 6男の織田信為の系統は、津田姓を称して、大和宇陀藩織田家や上野小幡藩織田家の家臣となった。信為の長男・津田外記や次男・津田八郎兵衛(谷山真弥)は宇陀藩織田家、3男津田頼母は小幡藩織田家に仕えた。
[編集] 人物
- 信雄は、父・信長や兄・信忠とは較べようがないとしても、暗愚だったことは間違いない。信長存命中に無断で行なった伊賀攻めで大敗したとき、信長は譴責状を信雄に送って激しく叱責したばかりではなく、親子の縁を一時は断ち切ろうとまでしたと言われている。
- 本能寺の変後、近江土山まで軍勢を進めておきながら、明智軍と戦うこともできず、さらに父親が築城した安土城を焼尽させたとまで言われている(近年の詳細な研究により、安土城の焼失は略奪目的で乱入した土民が原因と、ほぼ断定されている)。
- 小牧長久手の戦いにおいても、後援者の徳川家康に無断で豊臣秀吉と単独講和し、さらに後年は秀吉の移封命令に逆らって改易されるなど、時流を見る目の無さに基づく失敗が多い。