オレステス・デストラーデ
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オレステス・デストラーデ(Orestes Destrade Cucuas, 1962年5月8日 - )は、プロ野球選手。キューバ出身。ポジションは内野手、外野手である。西武時代は日本シリーズの第1打席で3年連続本塁打を放っている。
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[編集] 来歴・人物
1989年6月、前年からチームの主砲を務めていたタイラー・バン・バークレオの不振のために西武が急遽獲得した。デビュー戦でいきなり本塁打を放つと左右両打席から本塁打を量産、1年目は規定打席不足ながら32本塁打を放ったが、ラルフ・ブライアント擁する近鉄に敗れ、惜しくもリーグ優勝は逃した。翌1990年も序盤から打ちまくり、6月16日のダイエー戦ではチームの9連敗を阻止するサヨナラ本塁打を放つなど、ここぞの場面での1発が光った。1990年の日本シリーズでは巨人の槙原寛己投手から特大の3ラン本塁打を放ってチームを波に乗せ、その後も猛打を発揮して巨人相手に4連勝する原動力となり、シリーズMVPに輝いた。日本シリーズでは1990年から1992年まで3年連続して第1戦の第1打席に本塁打を放つ記録を持っている。
秋山幸二・清原和博と「AKD砲」を結成し、1991年まで2年連続打点王、1992年まで3年連続本塁打王とチームになくてはならぬ存在となっていたが、1992年オフ、メジャーリーグ新球団のフロリダ・マーリンズからの参加要請を受けて西武を退団、1993年は20本塁打を放ったが1994年途中解雇された。翌1995年には西武に復帰するが、前年からのブランクや家庭問題で精彩を欠き、6月途中で退団した。現在はフロリダで実業家をしており、プロ野球マスターズリーグの東京ドリームスでもプレーする。また、現在米国スポーツ番組ESPNにて野球解説を務めている。
笑顔を見せることは少なかったが、激しい闘志を内に秘めるタイプであり本塁打を放った後のガッツポーズは非常に有名である。またシーズン2桁盗塁の経験が3度あるなど、足も速かった。
引退後、某テレビ番組の野球の企画に出演し、あわやホームランかというあたり(ライトフェンス直撃)を放ち、健在振りをアピールした。
[編集] エピソード
- 西武が獲得する前年に阪神が獲得しようと動いたこともあったが、契約段階で「(外国人枠の関係から)2軍中心になる」点がネックとなって破談となった。
- 獲得時にもう一人の候補者として名が挙がったのが、後にオリックスに入団するタイ・ゲイニーである。森監督はスイッチヒッターと言う理由でデストラーデを獲得した。
- 当時西武の選手には関西出身選手が多く(清原、大塚光二ら)在籍晩年には関西弁をうまくしゃべるようになっていた。
- 1995年5月9日、富山市民球場アルペンスタジアムで行われたオリックス戦で、0-9とリードされた8回裏2死からピッチャーとして登板したものの、高田誠に三塁打を打たれた後トロイ・ニールと藤井康雄に四球を与え、結局1死も奪えずに降板した。東尾修監督は試合後に「点差も離れていたのでファンサービスのつもりで登板させた」と話していた。
- 深夜番組のTVショッピングにも出演。バッティング練習用の商品を紹介している。
- サインを書くときは名前の下に西武時代に着けていた背番号の「39」と「Lions」を当時の名残で書いている。
[編集] 略歴
- 身長・体重 1m92cm、99kg
- 投打 右/両
- 出身地 キューバ共和国・サンティエゴ
- 球歴・入団経緯 フロリダ大 - ニューヨーク・ヤンキース(1981年) - ピッツバーグ・パイレーツ(1988年) - 西武ライオンズ(1989年途中) - フロリダ・マーリンズ(1993年) - 西武ライオンズ(1995年)
[編集] 日本球界での実績
[編集] 通算成績
- 打撃成績 517試合 打率.262(1816打数497安打)160本塁打 389打点 42盗塁
- 投手成績 1試合 0勝 0敗 0セーブ 0奪三振 防御率-
[編集] タイトル・表彰
- 本塁打王 1990年、1991年、1992年
- 打点王 1990年、1991年
- ベストナイン 1990年、1991年、1992年(指名打者部門)
- 日本シリーズ最高殊勲選手 1990年
- オールスター出場 1992年
[編集] メジャーでの通算成績
- 打撃成績 237試合 打率.241(765打数184安打)26本塁打 106打点 1盗塁