タイロン・ウッズ
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タイロン・ウッズ(Tyrone Woods, 1969年8月19日 - )は中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手。ポジションは内野手。右投げ右打ち。背番号は44。
正式氏名は「ウィリアム・タイロン・ウッズ」(William Tyrone Woods)といい、スコアボードの選手名ボードでは「T・ウッズ」と表記される。アメリカ合衆国フロリダ州出身。
セ・リーグが誇る右の長距離砲で、2006年では37歳という高齢ではありながら47本の本塁打を打ち、全く衰えを見せていない。
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[編集] 略歴
- モントリオール・エクスポズ
- ボルティモア・オリオールズ
- ボストン・レッドソックス
- 1998年 韓国・OBベアーズ(1999年より斗山ベアーズ)に入団。同年本塁打王獲得。その時のシーズン42本は韓国記録だった(翌年李承燁が54本で更新、今の韓国記録はアジア記録でもある李承燁の56本)。
- 2003年 横浜ベイスターズに入団、来日初年度で40本塁打を放ち本塁打王を獲得する(ヤクルトのラミレスと分け合う)。
- 2004年 45本塁打で2年連続の本塁打王を獲得する(巨人のローズと分け合う)。しかし、チャンスに弱いなど今ひとつ評価を得られず、契約更改で交渉決裂して退団。2年契約で中日へ移籍した。
- 2005年 中日の不動の4番として働き、チーム1位の本塁打をはなち、初の3割もマークした。
- 5月5日(ヤクルト6回戦/ナゴヤドーム)、5回裏の打席で顔付近への投球に怒り、藤井秀悟投手(ヤクルト)の右頬を殴って退場処分になり、10試合の出場停止と50万円の罰金処分を受けた。これに関しては、この年の4月のヤクルト戦で死球によって小指が骨折しており、それもあるかと思われる(更には同月1日の横浜戦でもほぼ同じコースで死球を受け、投手に詰め寄るという騒ぎを起こしていた。この時は2塁ベース上の立浪らグランドに居た選手が止めたので事なきを得た)。出場停止の影響で、その時点で首位を走っていた中日が直後に始まった交流戦で大きく負け越し、この年の優勝を逃す結果となった。交流戦で連敗している間、スポーツ紙には「ウッズ・ショック」の見出しが躍った。
- 8月6日の対横浜戦(横浜スタジアム)で観客席から「Money Kaese!(金返せ)」のプラカードを出された事に奮起して来日初の1試合3ホーマーを打つ。
- 2006年 「俺って黒いだろ?」を自身のスローガンとしてタイトル奪回を目指す。来日当初から指摘され続けていた勝負弱さをついに克服。2年振りのホームラン王と初の打点王のタイトルを獲得し、リーグ優勝に大きく貢献した。特に、古巣の横浜相手には打率.372、本塁打12本と、これでもかとばかりに打ちまくった(このため、横浜ファンの中にはウッズのことを良く思わない者も多い)。しかし、日本シリーズでは本塁打、打点ともに0と振るわず、チームも敗れた。
- 6月4日の楽天戦でフルキャストスタジアム宮城初のエンタイトルツーベースを放つ。
- 10月10日、足を痛めながらも(前日のヤクルト戦における自打球の足への直撃)、マジック1で臨んだ対巨人戦で3ランホームランと満塁ホームランを打ち7打点を挙げ、優勝を決定づける。また、これが47本目の本塁打となり、球団記録を更新した(それまでの本塁打の球団歴代1位は西沢道夫の46本塁打)。打点も144と球団記録を塗り替えプロ野球史上歴代6位となった。
[編集] 成績(2006年シーズン終了時)
[編集] 通算成績
- 545試合 .297(1984打数590安打) 170HR 437打点 8盗塁
[編集] タイトル
[編集] エピソード
- 韓国時代にも1度中日と入団交渉を行っている。
- 高校時代はアメフトをやっていた。
- 一時期は野球選手版タイガー・ウッズと呼ばれていた。球場のアナウンス、テレビでの呼称ともに単に「ウッズ」ではなく「タイロン・ウッズ」とフルネームで呼ぶのもそれを意識してのものである。
- 中日入団決定時に中日スポーツ紙で『タイガー・ウッズ選手が中日入団決定』と、名前を間違えて報じられた。
- 名古屋市内の日焼けサロンに通っている所を目撃された事がある。
また、韓国時代はファンから『黒熊』というニックネームで親しまれていた。 - ドレッドヘアーが特徴。ファッションセンスにも自信があるようだ。
- 涙もろい。
- 2006年は数字よりチャンスに強くという目標を立てており、その甲斐あってか得点圏打率は向上、打点王を獲得した。
- 好物はキムチである。
- チームメイトの立浪和義と生年月日が同一。また、千葉ロッテマリーンズのマット・フランコとも生年月日が同一である。
- 2006年のオールスターゲーム中にナゴヤ球場での練習中にスキンヘッドを披露した。これは残って一緒に練習していたチームメイトから驚かれた。
- 2006年、10月10日の巨人戦(東京ドーム)でライトの看板に直撃する本塁打(先制3ラン)を放ったが、右打者でライトの看板に直撃する本塁打を打ったのはウッズのほかに清原和博だけである。また、その日はレフトスタンドにもとどめと成る47号満塁弾を放っている。
[編集] その他
- 背番号の44は、1944年に締結されたブレトン・ウッズ協定にちなんでの事という一説があるが、詳細は不明。
- スコアボードの「T.ウッズ」という表記は、中日移籍後も(何故か)そのまま引き継がれた。応援時のコールも「タイロン」が引き継がれた形だが、これは「ウッズ」がコールしづらいことにも因る。
- 身長は公称185㎝だが、実際はそれよりも低いとされる。
- 2003年発売の週刊ベースボールの選手名鑑号によると、初めて覚えた日本語は「ミズ、クダサイ」
- 打撃練習での打球の飛距離は驚異的で、広い甲子園球場でも中段に当たり前のように飛ばす。
- 守備に着く際にスタンドにボールを投げ入れるが一度に複数投げる場合がある。
- 守備に関してはあまりいい成績が残っていない。守りの堅い中日のなかで唯一の「穴」といわれ、試合の後半になると渡邉博幸と交代することが多い。(つまり、チームがリードした状態で試合に最後まで出場した事は殆ど無いだろう)井端弘和の失策もウッズが取り損なってると指摘されている。そのためか中日はウッズが移籍してきてから、内野手の送球エラーが倍増したといわれる(前年の一塁手は渡邉)。また失策が多く、平凡なバウンド送球の処理ができないなど目に見えないミスが多い。
- 米球界・韓国時代や横浜在籍時は外野の守備につくことも多かった(横浜では2003年のみ)が、一塁守備と同じく、守備には難がある。ただし、落合博満監督に春季キャンプ中にノックを受けており、横浜時代よりは若干進歩している面も見せる。2006年の日本シリーズでは打撃こそは振るわなかったものの、普段のシーズンでは見られない様な中々の好守備を見せた。
- 交流戦が苦手で、「移動中が疲れる」と報じられた。しかし楽天戦後の新幹線移動での仙台駅ではファンに愛想よく応える姿も見られた。特に交流戦に限らず飛行機移動の場合、幅の狭い飛行機の座席にウッズの大きな体を無理矢理押し込めなければならず、そのせいでシーズンを通して慢性的に腰痛と付き合うことを余儀なくされた。(時に守備や走塁で怠慢に見えるプレーには、このことが原因している部分もあるので、エラーやミスがあったと言っても若干は仕方ないともいえる。)
- なお、西武ライオンズのアレックス・カブレラ選手とはメキシカン・リーグ時代からの旧知の仲である。
中日ドラゴンズ - 2007 |
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