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ビートルズ - Wikipedia

ビートルズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ザ・ビートルズ

ビートルズ (1964) - 左からジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター
出身地 イギリスリヴァプール
活動期間 19601970
ジャンル ロック
ポップス
レーベル パーロフォン
キャピトル
アップル
メンバー リンゴ・スター
ジョージ・ハリスン
ポール・マッカートニー
ジョン・レノン

ザ・ビートルズ(The Beatles) は、イギリスロックバンド。世界中で最も広く知られ、成功したロックバンドのひとつ。イギリスのリヴァプールで結成され、1962年レコードデビュー1970年解散。

世界的アイドルとして成功を収める一方、1960年代以降のロック・ポップスシーンに与えた影響も含め、その楽曲の普遍性、革新性もまた高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。1960年代日本のグループサウンズもまた、ビートルズから影響を受けたジャンルのひとつである。ギネスワールドレコーズには最も成功を収めたロック・グループと認定されている。

その解散後、イギリスで大人気アイドルが出て来る度に「第二のビートルズ」という呼び名で表現された。1970年代前半のT.レックスや1970年代後半のベイ・シティ・ローラーズ1980年代後半のブロス1990年代オアシス等がそれに当たる。

(注;個々のアルバムやビデオ作品については別項ビートルズの作品を、個々の楽曲に関してはビートルズの曲名一覧を参照のこと。)

目次

[編集] メンバーと基本パート

[編集] 担当楽器

上記のように「ギター2本、ベースギター、ドラム」が初期においての基本的な楽器編成であるが、中期~後期にかけては、リンゴ以外のメンバーの担当楽器は曲によって実に流動的であり、担当を記す意味もあまりなくなっている。

リードギタリストはジョージだが、曲によってはジョンまたはポールもリードギターを担当している。

ジョンのリード・ギターはポール作『ゲット・バック』や、自作『アイ・ウォント・ユー』などで聴くことができる。ポールは、ジョン作『涙の乗車券』、自作『バック・イン・ザ・USSR』、ジョージ作『タックスマン』などのリードギターを弾いており、共に自作の『ブラックバード』などのアコースティック・ギターのナンバーと併せ優れた演奏が多い。ジョージのリードギターについては過小評価される向きもあるが、解散後のソロ時代に確立したスライドギターの名手としての評価は高いし、彼のワン・アンド・オンリーといわれるギターの音色はビートルズ・サウンドのひとつの特色となっている。 ちなみに『ジ・エンド』の間奏部分では、ジョン、ジョージ、ポールの3人によるギターバトルを聞くことができる(ポール、ジョージ、ジョンの順番に2小節回しの演奏)。

また、ジョンとポールはピアノなどの鍵盤楽器をしばしば演奏している。ジョン作の『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』でのイントロのメロトロンはポールの演奏である。主にピアノはポール(自作『マーサ・マイ・ディア』、ジョン作『セクシー・セディー』等)、オルガンやローズ・ピアノなど電子鍵盤楽器はジョン(自作の『アイ・アム・ザ・ウォルラス』、ジョージ作の『ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』等)というパターンが多くみられる。

ロング・アンド・ワインディング・ロード』などの中期から後期の作品で、ポールが主に自作でピアノを担当する時は、ジョンがベースを担当する曲も存在する。例えば『レット・イット・ビー』では、ジョンが6弦ベースを演奏している。

ジョージが『ノルウェーの森』でインド楽器シタールを導入し、それがビートルズがインド音楽の影響を受ける端緒となったことは良く知られている。またジョージが演奏した他のインド楽器には、『ゲッティング・ベター』や、『アクロス・ザ・ユニバース』でのタブラ、『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』でのソードマンデルなどがある。

モーグ・シンセサイザーは、アルバム『アビー・ロード』において、ジョージにより導入された。単音しか出せないが、現在の(アナログ)シンセサイザーの元祖でもある、当時の最新楽器である。ジョージ自作の『ヒア・カムズ・ザ・サン』や、ジョンの曲『ビコーズ』で演奏され、ポールが自作『マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー 』で、ジョンが『アイ・ウォント・ユー』で、それぞれ演奏している。

他、1968年のリンゴの脱退騒動(一時的なもので、当時公にはされなかった)に絡んで『バック・イン・ザ・USSR』と『ディア・プルーデンス』、それとは別に『ジョンとヨーコのバラード』のドラムはポールが演奏している。その他、曲によってはメンバー各人がパーカッションを演奏している。ジョンのサックス(『ヘルター・スケルター』で使用)など、珍しいパターンもある。

メンバー以外のミュージシャンによる演奏としては、エリック・クラプトンが『ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』のリードギターを弾いているのが特に有名である。その他、プロデューサーのジョージ・マーティンが『イン・マイ・ライフ』のクラシカルなピアノの間奏などで、ローリング・ストーンズブライアン・ジョーンズが『ユー・ノウ・マイ・ネーム』においてサックスで演奏に参加している。また他に、ビリー・プレストンによる『ゲット・バック』のエレクトリックピアノなどがある。

[編集] 作詞作曲とリードボーカル

メンバー全員が作詞作曲をし、ボーカルコーラスも担当する。リードボーカルはジョンまたはポール、あるいは2人一緒にとることが多いが、自作曲を中心にジョージも、またリンゴもリードボーカルをとる。

多くのヒット曲をはじめ、オリジナル曲の8割以上の作詞作曲はジョンとポールの共作としてクレジットされている。これはビートルズ結成当初から、2人の友情の証として、どちらか一方が作った曲でも(たとえ単独で作ったとしても)「レノン=マッカートニー」と連名にする約束が2人の間で取り交わされていたからである。このことは後のいくつかの法的争いの元凶ともなる。この約束をジョンは比較的律儀に守っており、1969年にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した『GIVE PEACE A CHANCE(平和を我等に)』の作詞作曲も「レノン=マッカートニー」とクレジットされている。

レノン=マッカートニー作品以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、ジョージの作品が20数曲、リンゴの作品が2曲、レノン=マッカートニーとリンゴとの共作が1曲、全員の共作1曲が含まれている。『ビートルズ・アンソロジー』のシリーズには、ジョンとジョージとの共作のパターンも、例外的に存在する。

※ただし本編では、担当楽器やボーカルパートなど必要性の認められる場合に限り、公的や法的に「レノン=マッカートニー」名義であっても、「ジョン作」「ポール作」等の表記をする。しかし歌詞や一部メロディーなど、どちらかが作曲段階や録音段階でサポートしている場合もあり、バンドに特有な、単なるアドバイスや共作やアレンジの境目が曖昧な曲も多いため、あくまで「原作」や「主な作曲者」程度の意味合いの曲もある。

[編集] その他の関係者

ほとんどの曲をジョージ・マーティンプロデュースしている(但しアルバム『レット・イット・ビー』のみフィル・スペクターがプロデュース)。

レコーディングおよびミックスエンジニアでは、ノーマン・スミス (デビューから1965年『ラバー・ソウル』までのほとんどを担当)、ジェフ・エメリック(1966年『リボルバー』以降の多くを担当)が有名である。

レコードデビュー以前のビートルズのメンバーとして、スチュアート・サトクリフ(ベース)、ピート・ベスト(ドラム)の2人がよく知られている。スチュアートがバンドを脱退した後にポールがベーシストとなり、ピートはレコードデビュー直前に、リンゴをロリー・ストーム & ザ・ハリケーンズから引き抜く形で入れ替えられた。 ジョージ・マーティンは当初リンゴの加入を知らず、アンディ・ホワイトというドラマーを手配していた為、『ラブ・ミー・ドゥ』では2人のドラマーのテイクが存在し、シングルではリンゴの、アルバムではアンディのバージョンを聴くことができる。

ビートルズが音楽ビジネスのプロモーションを確立した立役者として、マネージャーブライアン・エプスタインがいる。彼が1967年に32歳という若さで急逝したことは、ビートルズ解散の遠因になったと言われることもある。ちなみに彼は同性愛者で、「ジョン・レノンに恋愛感情を持っていた」という説もある。 (ブライアンの個人秘書であったアリステア・テイラーはこの説を否定している。)

その他、後にセックス・ピストルズらをプロデュースするクリス・トーマスが『ホワイト・アルバム』にアシスタント・プロデューサーとして携わっている。

[編集] 来歴

[編集] デビュー当初から初期

ビートルズのデビューが決まり、曲を録音する段階で、ジョージ・マーティンは誰をメインボーカリストにするか悩んだという。当時は特にリズム・アンド・ブルース系やドゥーワップ系のグループなどでは、「リードボーカリスト&バックコーラス、又は、リードボーカル・ウィズ・バックバンド」という形式が多かったためである。その他、スターを1名プッシュして売り出すという目的もあった。マーティンは当初は声質やハーモニーパートから、ジョンをリードボーカルとして押し出すつもりであったが、ポールの声質も捨てがたく、結局ジョンとポールの2人を押し出すことに決定した。

それが、デビュー後の『シー・ラヴズ・ユー』『抱きしめたい』などの、ジョンとポール二人で歌っているうちの、「どちらがリードボーカルのメロディーなのかわからない曲」や、『ア・ハード・デイズ・ナイト』などのように「1曲の中でソロパートとして、2人が歌い分ける曲のパターン」、『エイト・デイズ・ア・ウィーク』『デイ・トリッパー』などのように「最初はジョンやポールがリードボーカルだが、いつの間にかリードパートを歌っている者がハーモニーやバックコーラスに回り、リードボーカルが交代してしまうパターン」などの形態が出来上がる結果につながったと言える。

[編集] 日本公演

日本公演は、読売新聞社中部日本放送の主催によって1966年6月30日から7月2日にかけて5公演、東京・日本武道館において行われた。初日は夜のみ、2・3日目は昼および夜の各2回公演であった。

当初、初日のステージの様子が録画されテレビ放送されることになっていたが、ビートルズ側の言い分(マイク・スタンドの不備等)によりその映像は放送されず、急遽、翌7月1日昼の部のステージが収録されて、その日の夜9時から日本テレビ系列にて放送された本放送に使われた (番組の詳細はザ・ビートルズ日本公演を参照)。7月1日公演分の録画(白っぽい衣装)は、放送終了後エプスタインが持ち帰ってしまったため、近年何度かされた再放送や、1986年に日本国内のみで正式発売されたビデオなど(今は廃盤)は、6月30日公演分の録画(ダークな衣装)である。当時開発されたばかりの2インチ高画質カラービデオテープで収録されたこの公演はとても鮮明な画像で残されており、数少ないカラーのビートルズのコンサート映像の中でも世界的に類を見ないものであるため、日本国内のみで正式発売されたビデオは海外のファンの間ではかなりの高額で取引されている。しかし、現在では版権等の問題があるため、2006年現在このビデオの再リリースは不可能といわれている。

ちなみに7月1日の映像はDVDアンソロジー・エピソード5』で2曲のみ見ることができる。全曲は非公式ビデオ・DVDでしか見ることができないが、見どころとして『アイ・フィール・ファイン』の冒頭でジョンがギターフィードバック音を出している部分が挙げられる。また、このDVD『アンソロジー・エピソード5』には、ほんの数秒ではあるものの、当時ビートルズの広報を担当していたトニー・バーロウによって撮影された、7月2日昼の部のカラー8ミリ映像も収録されている。一部のコレクターなどにS氏が撮影した6月30日と7月1日(昼の部)のカラーの8ミリも存在し今のところ、存在が確認されている日本公演の映像はこの3ステージ分のみであるが、実はこの時、東京オリンピック開催時とほぼ同じ規模だったと言われるビートルズ日本公演の警備の模様を記録した『ビートルズのすべて』と題された記録映画が、警視庁によって製作されている。内部資料の一部であり、当然のように非公開映画であるため、どのような構成なのか、モノクロなのかカラーなのか、上映時間は何分なのか、またビートルズの姿やビートルズのステージの模様も収録されているのか、などといった具体的な内容は一切不明であるが、この映画の中に、上記3ステージ以外のステージの模様や、楽屋やホテルでのビートルズの姿が記録されている可能性はある(そもそもこの記録映画『ビートルズのすべて』のフィルム自体、残されているのかどうかは大いに疑問であるが)。

タレント志村けんは、7月2日昼の部の公演を2階前列で見た際に、テープレコーダーで録音(※歓声やベースの反響音が録音されているだけだった)。また同日夜の部では、ジョンがサングラス(※リヴォルバーの裏ジャケットで掛けているタイプ)をして公演をした珍しい日でもあった(※直前の公演地、西ドイツでも使用例あり)。当時はPAシステムが整備されておらず、あまりの大歓声に演奏者であるビートルズ及び観客には良く演奏が聴こえなかったという。これは日本公演に限らずビートルズのどの公演にも当てはまるのだが、そのため、勘で演奏をしていた部分もあり、ワンパターンの決まり切った演奏(特にドラム)しかできなかったらしい。

この日本公演に関して言えば、武道館のアナウンス用スピーカーからも演奏を流していたのと、欧米諸国に比べファンが騒ぐことなく比較的おとなしく演奏を聴いていた(実際には、「席を立ち上がったら即退場」という規制が敷かれていたことと、1階のアリーナには警察官および関係者以外立ち入り禁止だったため2階のスタンドより上にしか観客はいなかった)ため、演奏自体はおおかた聴こえていたようである。しかしながら、「まったく聴こえなかった」という人と「いや、ちゃんと聴こえた」という人とどちらの証言も多数あるため、客席の位置によって聴こえた場所と聴こえなかった場所があった可能性は非常に大きい。

今でこそ東京ドーム同様、武道館でのロックコンサートは頻繁に行われているが、当時は佐藤栄作首相をはじめとして、「神聖なる日本武道館でロックバンドが演奏することなどけしからん」という意見が多数を占めていた。これに対しポールは「僕らは演奏をしに来ただけだよ。例え日本の舞踊団がイギリス王立の会場でパフォーマンスを行ってもイギリス人は伝統を汚されたとは思わない。」と反論。ジョンも「戦うよりも音楽を演奏する方が平和でいいよ。」「僕らはここでやってくれと言われたからやるだけで、別にボクシング場でもどこでも僕らは構わない。」とコメントしている。

司会を勤めたのはE・H・エリック。前座として尾藤イサオ内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川ブルーコメッツ、ブルージーンズ(寺内タケシは所属事務所渡辺プロダクションを退社する条件としてグループから脱退した直後のため出演していない)、ザ・ドリフターズ(6月30日・7月1日のみ)が舞台に上がった。前座の模様は版権の関係でビデオ化されたことはないが、映像自体は残されており、時折テレビでも一部が放送されることがある。6月30日・7月1日昼の部両日共に記録されているが7月1日は当時放送分に公開されたきり、一度も放映されていない。7月1日のVTR全てをビートルズサイドが持ち帰ったためとされている。7月2日の演奏は、写真が残されているのみで公式な映像・音声は2006年現在一つも発見されていない。

しかしこの日本公演は、アメリカでの1964年1965年の公演に比べると、ライブとしては決して良い出来とは言えなかった。音程は外れていたし、マイク等の機材も品質の良い物ではなかった。ライブ前の記者会見でジョンが「ビートルズを聞きたい人はレコードを聞いてください。ビートルズを見たい人はコンサートへ来てください。」と言っていたことを考えると、始めからまともに演奏する気がなかったことが伺える。そして、ライヴでの再現が不可能・困難な曲を多く含んだアルバム『リヴォルヴァー』のレコーディングを来日前に終えているという事も考慮すると、ビートルズは最早ライブ活動に対する執着心を感じていなかったのではないかという事が考えられる。

初日公演翌日の7月1日の朝刊では、全国各紙一斉にこの日本公演の模様を大々的に報じた。どの新聞社も一通り公演の様子を伝えてはいるものの、ビートルズの演奏よりも熱狂する少女や厳重な警備体制に焦点を定めた社会記事的な扱いをしており、また数ある新聞社の中でも朝日新聞は、「1曲目の『ツイスト・アンド・シャウト』から始まり、『ヘルプ』『プリーズ・プリーズ・ミー』とヒット曲が続くと少女たちの熱狂は頂点に達した…」などと、実際の演奏曲とはまったく違う明らかな予定稿を載せていた。このことからも、当時の日本のマスコミは「ビートルズそのもの」よりも「ビートルズが巻き起こす社会現象」に関心が強かったことが伺える。

メンバーの投宿に際しては、警備上の理由から、なかなか決まらず、唯一名乗りを挙げた東京ヒルトン(キャピトル東急)に落ち着いた。

ザ・ビートルズ日本公演を見た主な著名人(前座出演者は除く)

[編集] ライブツアーの停止とレコーディングアーティストへの脱皮

日本公演が終わった直後の1966年のアメリカツアー、8月29日サンフランシスコキャンドルスティック・パークのステージを最後に、ビートルズはライブ活動を停止する。

当時の彼等は、ライブにおいて満足な演奏ができない環境にあった。ポールによる「スタジオ盤では問題ないのに、ステージの録音を聞くと、ハーモニーが上ずってしまい、音感の悪さに気落ちしてしまう」という主旨の発言もあった。彼等に限らず、当時のステージにはモニター(ステージ上のミュージシャンが、自分達の出している演奏や歌声を聞いてチェックするためのスピーカー)などは設置されていなかったので、止むを得ないところもあると言える。

しかも観客の増加とともに会場は野球場(特に1965年8月15日シェイ・スタジアム公演は象徴的なものとなった)やサッカースタジアム、室内でも地区有数の大会場で行うようになり、ヘビーなサウンドを大音量で出しても観客の少女達の大歓声で演奏がかき消されてしまったという。この様な状況の中、メンバーがライブに対する関心をなくしていったのは自然な流れであったともいえる。

また、翌1967年8月、マネージャーのブライアン・エプスタインが睡眠薬の多用により死亡する。エプスタインの死自体と直接の関係があるのかどうかは定かではないが、彼のいなくなった後バンドとしての求心力やメンバー間の結束は弱まり、解散の遠因となったとも言われる。

ライブ活動の停止以降、彼らはレコーディング活動に集中し、次々と革新的な作品を発表する。初めて本格的なスタジオワークを駆使した66年のアルバム『リボルバー』は、ライブでの再現性を全く無視した実験的な試みを行ったが、こうした取り組みがポップス音楽の金字塔と称される67年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に結実して行く。同作品は同時代のアーティストに非常に多大な影響をもたらし、彼等の音楽的評価を決定づけた。その後もテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』を自作自演、68年には個々の個性が際立つ二枚組オリジナル・アルバム『ザ・ビートルズ(俗称:ホワイトアルバム)』など傑作を発表。同年に発表した『ヘイ・ジュード』はビートルズ最大のヒット作となった。ビートルズがライブツアーを続けていたとしたらこのような音楽的進化を遂げることはできなかったとさえ囁かれる。ドラッグ、サイケデリックに突入する時代と、その時代のミュージックシーンの先頭を駆け抜けて行くことになる。

[編集] ジョンのキリスト発言

ビートルズがまだ世界ツアーをしていた1966年、ジョンが「ビートルズはキリストよりも知名度が高い」と発言したことにより、キリスト教国でビートルズ排斥運動を巻き起こした事件。この発言は1966年3月にジョンが英国『ロンドン・イブニング・スタンダード』誌に答えたインタビューの一部だったが、同年8月に米国誌に転載されると大問題となり、アメリカ各地や世界中のキリスト教国でデモが行われたり、レコードやポスターが焼かれたり、彼等の楽曲のオンエアを控えなければならなくなったラジオ局が増えたりと、大変な騒ぎとなった。その後ジョンが発言を撤回したが事態は直ぐには収拾しなかった。

なお、この一件は単なる舌禍事件に留まらず、ビートルズの活動内容に転換をもたらすと共に、特にジョンが自分とビートルズとの関わり方を見直して行くことになるターニング・ポイントとなった。あまりのファンの熱狂ぶりにコンサートでの演奏がまともにできなくなっていたことと、過酷なスケジュールとホテルでの缶詰生活からツアー自体に嫌気がさしていた各メンバーは、ジョンのキリスト発言を機に各地で起こったビートルズ排斥運動を見てツアーへの興味を失ってしまった。またジョンとしては、現状の聖職者に対する不満をジョークとともに皮肉ったつもりであったが、周囲にあまりに過剰に反応されたことに対して、自分の意志や信条に忠実な発言ができないアイドルとしての立場に強いフラストレーションを感じるようになった。さらには、自己の等身大以上に巨大化し、もはや自らもコントロールできなくなってしまった「ビートルズ」という存在自体に嫌気がさし、次第に距離をおいて行くようになる。そして、このことが逆に、自分に忠実な自由な活動をするという信念をジョンに持たせることになり、過激な政治運動、ヨーコとの活動、ビートルズの否定という、その後のジョンの生き方に反映されて行くことになる。

[編集] アルバム『レット・イット・ビー』と同名の映画

映画『レット・イット・ビー』はDVDでの再リリースが決定(2006年3月現在では正式なリリース日は未定)しているが、この映像を見ると解散間近のビートルズのぎこちない雰囲気が一目瞭然である。

これは、ビートルズがスタジオで新アルバムを制作している様子をドキュメンタリータッチで記録したものである。ビートルズとして最後のライブ演奏となった「ルーフトップ・コンサート」(彼らのレーベル「アップル」のビル屋上でのゲリラライブ)の演奏は秀逸だが、メンバー各自のストレスが、演奏の気だるさやバンドのやる気のなさとなって随所に現れている。

ジョンとポールはジョージ・マーティンの録音立ち会いを断ったりもしており、それまでメンバー間の緩衝材としての役目を果たしていたリンゴの手にも余る状態だった。そんな中、ジョージがビリー・プレストンをエレクトリックピアノ(一部ハモンドオルガン)担当のバックアップメンバーに連れて来る(ジョージ・ハリスン個人の項目参照)ことによって、外部のミュージシャンが側にいると良い子になるジョンやポールの性格を利用した。その結果、さらに演奏の出来もよくなり、バンドの雰囲気を変えるのには思いの外役に立った。

途中で撮影(+演奏、録音)場所をトゥイッケナム・スタジオから、当時未完成だったアップル社の地下スタジオに移し、EMIスタジオから機材(前年の通称『ホワイト・アルバム』の途中から使用し出した8トラックレコーダーがメイン)を借り受けて再開。演奏のボルテージは上がってはいったが、「ゴールが解散」と、メンバーたち自身が意識的にか無意識的にか悟っている状態であり、坂を転げ落ちていくバンドの動きを止めるのは不可能だった。

その後、テスト盤『ゲット・バック』は作られたが、満足のいく出来ではないために音源は日の目を見ず、ジョンたちの依頼によりフィル・スペクターが手をかけて『レット・イット・ビー』として完成(商品化)させるまでに丸1年以上発売が遅れることとなる。

リハーサルからルーフトップ(屋上)コンサートの終わった約半年後、ポールがジョージ・マーティンに「ビートルズの新しいアルバムを作る」と協力を依頼してきた。マーティンは自分の耳を疑ったが「昔のように全員が協力して本気で作る気ならば(プロデューサーとして)立ち合う」ということで合意し、制作、完成されたのが『アビイ・ロード』である。

「最後に発売された彼らのオリジナル・アルバムが『レット・イット・ビー』、ビートルズとして最後に制作(録音)されたのが『アビイ・ロード』といわれている」所以がそこにある。尚、『アビイ・ロード』の「B面(CDは後半部)のほとんどをメドレー形式にする」というアイディアはポールのものであり、彼が中心になって作業が進められた。逆にレコードでいうA面(CDであれば前半)は、主にジョンが仕切ったと言われている。

[編集] 解散とその後のメンバーの関係

1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表。続いて1970年12月30日、ポールがアップル問題も絡めての脱退訴訟を他の3人に提訴する形で起こし、ビートルズは公的に解散状態となる。さかのぼって前年の1969年9月(20日といわれる)には、メンバー間でのミーティングの席上、ジョンが脱退意思を非公式に表明していた。しかし、この事実はキャピトルレコードとの契約更新が間近であったことから、当時のマネージャーのアラン・クレインの画策によりひた隠しにされていた。

ポールの脱退表明が自身のファーストアルバム『マッカートニー』のプロモーションとして表明され、しかも同アルバムをビートルズの『レット・イット・ビー』にぶつける形でリリースしたため、ポールは他メンバーから激しい非難を浴びることとなった。(ポール・マッカートニー個人の項目参照)。

ビートルズの解散について、オノ・ヨーコの存在をその主な要因とする意見が特に1970年代には多く主張されたが、現在ではメンバーそれぞれの自立指向やマネージメントの問題、ビートルズ自身が設立したアップル社の経営問題など、より複合的な要素にその要因を求める論調が多くみられる。(詳しくはビートルズの解散問題の項参照)

ジョンは、ポップスターという自分自身の立場に嫌気が差していて、前衛芸術家であるヨーコにインスパイアされるかのように、ファンには理解しがたい前衛的なパフォーマンスを繰り広げており、またポールはビートルズのライヴ活動再開を他メンバーに進言して受け入れなかった経緯がある。ジョージもまた自分の才能を発揮できない環境に不満を持ち、早くからソロ活動を指向していた。また、エプスタインの死によってマネージメントに恵まれず、メンバー個人個人が自分の思う道を進んだ結果、バンドとしての方向性が定まらなかったことも要因の一つに挙げられる。ちなみに、ブライアン・エプスタインの片腕として裏側からビートルズを支えてきたピーター・ブラウンは、その著書"The Love You Make"(邦題『ビートルズ・ラブ・ユー・メイク』、早川書房刊)でビートルズが解散に至った最大の原因はジョン・レノンのヘロイン中毒であると断言している。

また、ソロ活動への布石として、ジョンは1968年ローリング・ストーンズがホスト役を務めた『ロックンロール・サーカス』や、1969年ロンドンでのユニセフチャリティーコンサートにおいて、エリック・クラプトンなどとライブ演奏をしている。(解散後も含めた以降のソロ活動については、ジョン・レノンの個人の項目参照)ジョージもまた『電子音楽の世界』などソロ作品を発表している。

解散後から『ビートルズ・アンソロジー』リリースまでの動きや作品については、各メンバーの項目の記事やヒストリー(年表)、ビートルズの作品を参照。

解散直後の1971年頃には、ジョン・ジョージとポールの不仲も頂点に達したといわれ、二人はお互いのソロアルバムの中で痛烈な非難をやりあった。その中でも一番辛辣なものとして名高いのが、1971年のジョンのアルバム『イマジン』収録の『ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?』であろう。ここでジョンは、同じく当時ポールと不仲であったジョージをもレコーディングに誘い、『サージェント・ペパーズ』や『イエスタデイ』、『アナザー・デイ』までをも持ち出して、ポールの事を辛辣に皮肉っている(具体的な内容については『ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?』の項を参照のこと)。もっとも、この後リンゴの忠告によって反省したジョンは、この曲をリリースしたことを後悔しているといった発言もしている。その後ジョンとポールの仲は少しずつ修復されていった。

リンゴは、解散してからも他の3人のメンバーとの親交を温め続け、ジョン、ポール、ジョージともにリンゴのソロアルバムのレコーディングに関わっている。1973年リリースのアルバム『リンゴ』では3人全員がセッションに参加し、特にその中の収録曲『アイム・ザ・グレーテスト』(作者はジョン)ではジョン、ジョージ、リンゴが一緒に演奏、テープの上だけではあったが久しぶりに4人が一緒になった。ベースを弾いたクラウス・フォアマン西ドイツハンブルグでの下積み時代からのビートルズの親友で1966年のアルバム『リボルバー』のジャケットを手がけており、一時はジョージがポール脱退後、クラウスを加えて新生ザ・ビートルズとして活動したがっていると伝えられていた。

1970年代に入り、ジョンがヨーコと別居生活を送っていた1974年に、スティービー・ワンダーらとともに、ジョンとポールが『ルシール』や『スタンド・バイ・ミー』などの曲をジャム・セッションしているテープがブートレッグ(海賊盤)として発売された。これは、訴訟中ではあったが解散の数年後にジョンとポールが顔を会わせて共演したことの証明として重要な位置を占めているものであり、また2000年には英音楽誌『MOJO』に、この時のジョン、ポール、キース・ムーン、ポールの妻リンダ・マッカートニーが一緒に写っている写真が『ジョンとポールが一緒に写った最後の写真』として公開された。このセッションではジョンがギターボーカル、ポールはドラムスハーモニーを担当。ちなみにこの時ポールが叩いているドラムセットはリンゴのものである(リンゴはこの当時ジョンやハリー・二ルソンらとともに共同生活を送っていたが、ポールが訪ねてきた際にたまたま外出中だったため、惜しくもこのセッションに参加することはなかった)。『ルシール』『スタンド・バイ・ミー』では久々のジョンとポールによるデュエットが聴ける。

公式に4人全員が揃って姿を見せることは遂に一度もなかったが、メンバー同士はそれぞれ交友を保ち続け、またビートルズ解散の原因ともなったアップル社の問題を話し合うために、非公式に4人全員で数回会っている事などは知られている。

解散以降、新たな音源のリリースはないと思われていたが、1995年に始まった『アンソロジー企画』の中で、ジョンが1977年頃製作していた『フリー・アズ・ア・バード』のデモテープを基に、ELOジェフ・リンを共同プロデューサーに迎え、ビートルズの新曲としてリリース(製作作業は1994年)している。これがビートルズ唯一の正式な「再結成」とされている。1996年には、やはりジョンのソロ曲『リアル・ラヴ』もビートルズ版としてシングル化(製作作業は1995年)されるが、以後はジョージの死などもあり、『再結成的』な動きは見られていない。 アンソロジーシリーズの他にも2006年にリミックスされたアルバム「ラヴ」、も発売され若い、新しいファンが増えた傾向にもある。

[編集] その影響

[編集] 音楽的貢献

ファッション面での貢献として、初期にだけ限定しても、服装は「襟なしルック(スーツ)」、髪型は「マッシュルームカット」(マッシュルームカットはスチュアート・サトクリフの彼女アストリート・キルヒヘアがマッシュルームにしていたからスチュアートが始めに真似て皆したとの声もある)などといった、数々の点が挙げられる。またそれ以上に、ロック・ポピュラー音楽史の面で重要な役割を果たしたと思われることは数え切れないが、音楽面で絞り込むと以下のようなことが挙げられる。

当時ポップス音楽では作詞作曲、演奏、歌がほぼ完全に分業化されており、そのルックスと音楽的センスから音楽界に衝撃を与えたエルヴィス・プレスリーでも持ち歌は別の人の作詞作曲であった。これに対しビートルズは、当初はR&Bのコピー曲があったものの、中期以降はすべて自分たちのオリジナル曲であり、デビュー曲の『ラブ・ミー・ドゥー』以降シングルはすべてオリジナルであったが、当時としてはこれは非常に珍しいことであった。ビートルズが自らオリジナル曲を作っていたことに触発され、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーキース・リチャーズが自作の曲を作り始めたことは有名である。

次に、高いポップ性の下に信じられない数のヒット曲をリリースし、その勢いはイギリスだけにとどまらず(音楽面では米国からもやや低く見られていた当時のイギリス音楽界から)米国本土に本格的に進出し、定期的にヒット曲を送り込むほどのバンドであったこと(米国での正式レコードデビューの年でもある1964年には、4月4日付の『ビルボード』誌のシングルチャートの1~5位を独占)が挙げられる。

一方、中期に差し掛かる辺りから『イエスタデイ』『エリナー・リグビー』でのストリングス、『フォー・ノー・ワン』でのフレンチホルンなどといったクラシック音楽で用いられてきた楽器を演奏する曲がリリースされた。また、ジョン作の『ノルウェーの森』で初めてジョージがシタールを導入したことにはじまり、『ラヴ・ユー・トゥー』、『ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー』、『ジ・イナー・ライト』などの主としてジョージ作の曲で際立っていたインド音楽に使われる楽器の演奏を、サウンドに融合する形で組み込んだ。(ジョージについては直接インド音楽を導入した作品が目立ったが、それらは、後にサイケ色が強まる形で、『ベイビー・ユアー・ア・リッチマン』などといった、ラーガロックへと、レノン&マッカートニーの手で昇華されていくこととなる。また、『ゴット・トゥー・ゲット・ユー・イントゥー・マイ・ライフ』では、ブラスセクションを導入するが、これは彼らが最初というわけではなかった。)

このような幅広い楽曲を作ったビートルズは、デビュー当時は単なるロックンロールバンドと見られていたが、その音楽的な領域は単なるR&Bにとどまらず、バラードからハードロック、バンド音楽からピアノ曲まで、ありとあらゆるジャンルに広がっており、以降、世界のロック・ポップス音楽はあらゆる領域で、多かれ少なかれビートルズの影響を受けていると言える。このようなある種「音楽のデパート」の様な傾向は、二枚組アルバム『ザ・ビートルズ』(通称ホワイト・アルバム)に顕著に見受けられる。 同時に後述のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のように高い音楽性を示す作品も作り出しており、バンド音楽、ボップス音楽をある種の芸術にまで高めた功績も非常に大きい。

ライブ活動をやめてからの彼等は、新曲のプロモーション用にイメージビデオ撮影を行ってそれをテレビで放送するという方法を取り始めた。これが現在のプロモーションビデオの原型であると見る向きもある。『ビートルズ・アンソロジー』においても、ジョージが冗談交じりに「MTVは僕らの発明さ」と語っている通り、当時は非常に画期的なことであった。

ビートルズがなぜ、このような大きな成功を上げたのかについては、様々な要因を挙げることができるが、その重要な要因の一つは、ヒーロー不在の時代であったことであろう。ビートルズがデビューした当時、ケネディーは暗殺され、マリリン・モンローが不可解な死を遂げた時代であった。つまり、ビートルズを受け入れるためのスペースが音楽シーンに残っていたのである。また、ビートルズの行動が当時の世界的なレベルで起こっていた各種の大衆運動とマッチしたことも成功の大きな要因である。ビートルズの発言は、社会的に大きな影響力を持っていた。たとえば、ジョン・レノンの[[反戦運動]は、ベトナム戦争に突入していったアメリカの若者たちの心を捉え、彼らの行動に大きな影響を与えている。

[編集] 『サージェント・ペパーズ』の衝撃

ライブ活動停止後間もなくレコーディングが始められ、今までにない長い作業の末リリースされたアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のリリースは、世界のポップス・シーンに大きな衝撃を与えた。

2台の4トラックテープレコーダー(最終的には2台によるピンポン録音から、1台目の1トラックに信号音を入れて、それを電気的に増幅し、シンクロさせた2台目のモーターを起動して使用)を利用したオーバーダビングだけで作り上げたそのサウンドには、様々な楽器や効果音が使われている。当時の技術でこれだけのサウンドを作り上げることは非常に衝撃的な出来事だった。当時はまだアメリカでさえ実現していない「8トラックを超えるテープレコーダーが完成した」などという噂も飛び交っていた。

このアルバムはそれまでの彼等の音楽とは異なり、各収録曲がそれぞれ全然違うタイプの曲であり、非常に広範なジャンルの楽曲の集まりだった。これを「架空のバンドによる擬似ライブショー仕立てにする」との設定で、1枚のアルバムとして統一感を持たせるというアイディアはポールのものであった。この「擬似ライブ仕立て」というのは、ビートルズとしてのライブ活動を再開したかったポールのフラストレーションの現れや、他のメンバーへのメッセージだったとも言われている。

実際に最初の2曲(多少最後の2(3)曲もつながっている)はメドレー形式になっていて、最後に再度バンドのテーマ曲に相当する短い曲(リプライズ)を演奏し、アンコールに相当する曲もその後に配置されている。ジョンはほとんど曲を提供しなかったため、何度もポールに急かされていた。解散後のインタビューでジョンは「このアルバムはポールのソロアルバム」といったニュアンスに近い発言をしている。確かにポールの曲が半分以上を占めているが、それと逆に初期の名作アルバム『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』では、大半の曲をジョンがメインとなって作った曲で占められていたので、バンドにおいては対等なリーダー格が複数いる場合は特に、特定のメンバーが優位に立つことは珍しいことではない。

「ジャケットに歌詞を印刷する」、「ドラムのチューニングを極端に落とした上、布などでミュートする」(これは『リボルバー』レコーディング時に、テープスピードを可変させながら録音していくテクニックを駆使する中で発見されたサウンドのテクスチャーを『サージェント~』では意図的に作り上げたとされる)、「ベースラインが和音(コード)のルート音に限定せずに、時にはフレーズメロディーをプレイする時もある」など、全て彼らが最初に行ったとは言えないとしても、画期的な手法を分かりやすい方法で押し出して完成させたものである。それまでビートルズを聴かなかった多くのロック嫌いの人たちの心を掴んだ。

当時では、ロックバンドとオーケストラが共演するなどということは考えられなかった。この成功は、プロデューサーのジョージ・マーティンに因るところが大きい。1965年の『イエスタデイ』で弦楽四重奏を使用したのがその始まりだが、フルオーケストラとロックバンドの競演となると事情が違ってくる。特に当時のクラシックの演奏家はプライドが高く、「ロックなど成立して10年ほどしか経っていない騒々しい音楽以下の雑音」、「ロックバンドなどのレベルの低いミュージシャンと一緒に演奏したくな」などと思っていたとしてもおかしくない。そういった風潮の中で『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』などでの競演が実現した。こういった点を鑑みると、クラシックにも精通していてスコアも書けたマーティンの仲介がなければ実現不可能だったことは十分考えられる。さらにクラシックの演奏家の中にも、アコースティックやバラードを多く手掛けるようになったビートルズに好感を持つ人が増えていたことも一因だろう。

[編集] その他関連事項

  • 1985年マイケル・ジャクソンがビートルズの音楽版権251曲を購入(ノーザン・ソングス名義。レノン=マッカートニー作、レノン=マッカートニー&リチャード・スターキー作、ジョージ・ハリスン作の一部、共同クレジットの一部)2005年現在では約半数を所有していた(残りの半分はソニーが所有)。
  • 1987年3月9日、「レノン=マッカートニー」が「アメリカ・ソングライターの殿堂」に選ばれる。タイトルの通り、本来はアメリカ国内のソングライターに対するものであるが、初のアメリカ以外の作曲家の「殿堂入り」となる。
  • 現在、ポールとジョージ・マーティンはナイトの称号を授与されている。また、ジョージ・ハリスンは故人であるが、この称号が授与されるかが現在話し合われているとのこと。
  • かつて幼児番組『ひらけ!ポンキッキ』の一部コーナーで『プリーズ・プリーズ・ミー』『プリーズ・ミスター・ポストマン』『ベイビー・イッツ・ユー』『ホエン・アイム・シックスティ・フォー』『オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ(愛こそはすべて)』、それにウイングスの『Silly Love Songs』『Hi, Hi, Hi』などがアレンジされてBGMとして用いられていたため、1980年代前後に幼年時代を送った世代には、同番組でビートルズの洗礼を受け、長じて熱烈なファンになった人が少なからず存在する。
  • ソビエト連邦ではロック音楽を資本主義による精神汚染とみなし、ビートルズの流行は西側からソ連国内の自由化を図るプロパガンダ工作の一種ととらえたため、そのレコード発売には政府からの許可が下りなかった。しかし、西側諸国からの輸入盤や、地下で翻訳されたロシア語版のカセットテープなどが販売され、当時の多くの若者に親しまれた。2003年にポールが行ったロシアの首都モスクワ赤の広場でのコンサートでは、その編集映像にセルゲイ・イワノフ国防相(1953年生まれ)のインタビューが収録された。イワノフは10代の頃からのビートルズファンと自己紹介し、『バック・イン・ザ・USSR』も演奏されたコンサートにもプーチン大統領と伴に来場した。
  • 音楽雑誌[『THE ROLLING STONE』1969年9月号に、ビートルズが同年2月~5月に『ホット・アズ・サン(HOT AS SUN)』というタイトルのアルバムセッションを行ったという記事が掲載された(アルバム『アビイロード』セッションが始まる直前)。曲名まで詳細に記述された記事だったが、後に誤報と判明している。だが、このアルバムの存在を信じて疑わないファンは多く、2005年には無理矢理再現したブートレグ(海賊版)CDまで登場して、今や一種の伝説と化している。


[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


ビートルズ
メンバー: ジョン・レノン - ポール・マッカートニー - ジョージ・ハリスン - リンゴ・スター
前メンバー: ピート・ベスト - スチュアート・サトクリフ
プロデューサー: ジョージ・マーティン - フィル・スペクター - ジェフ・リン
関連人物: ブライアン・エプスタイン - クラウス・フォアマン - ビリー・プレストン - オノ・ヨーコ - リンダ・マッカートニー
スタジオ & レーベル: アビー・ロード・スタジオ - EMI - キャピトル・レコード - アップル・レコード
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