オノ・ヨーコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オノ・ヨーコ(小野 洋子, Yoko Ono Lennon, 1933年2月18日 - )は音楽家、芸術家。ビートルズのジョン・レノンの妻として有名。
目次 |
[編集] 経歴
銀行家の小野英輔、磯子夫妻の長女として東京都で生まれた。伯父は、医学者の小野康平、伯母(血はつながっていない)はヴァイオリン教師の小野アンナである。安田善次郎は母方の曽祖父。
学習院幼稚園と自由学園を経て、1952年に学習院大学哲学科に入学(後に中退。今上天皇と同学年)。1953年に家族と共にニューヨークのスカースデールに移り住み、サラ・ローレンス大学に入学した(後に中退)。彼女は1956年に作曲家の一柳慧と結婚するが、1962年に離婚。同年の11月28日に映画製作者トニー・コックスと結婚、2人は1963年3月1日に離婚し、6月6日に再婚するが、結局、1969年2月2日に離婚した。2人の間の娘キョーコ・チャン・コックスは1963年8月8日に誕生している。
1960年代初めに、前衛芸術集団フルクサスの活動に参加し、観客が彼女の衣装をはさみで切り取るパフォーマンス「カット・ピース」や、言葉による作品「グレープフルーツ」などを発表した。1966年には、ロンドンに活動の場を移した。
ジョン・レノンとの出会いは、1966年11月9日のことであった。ロンドンのインディカ・ギャラリーでの彼女の個展の開催前日に訪れたレノンは、梯子を昇った上に下げられた虫眼鏡で、天井に書かれた「YES」の文字を読むという作品に惹かれた。2人はともに前衛的な音楽活動を行うようになり、1968年に「トゥー・ヴァージンズ」Two Virgins を発表、1969年3月20日にジブラルタルで結婚、2人の間の息子ショーン・タロー・オノ・レノンは、ジョンの35歳の誕生日、1975年10月9日に生まれた。妊娠した当初、洋子は堕ろすつもりだったが、ジョンが大反対した結果、ジョンが子育てをする条件で、出産をしぶしぶ承諾したと言われるが、疑う声もある。
ジョンが主夫になった数年間で、彼女は不動産取引その他の投資活動を積極的に行い、実にジョン復帰後までの間に夫婦の資産を倍にした(ジョンの伝記に記載)。
彼女はビートルズの解散の原因「ビートルズを解散させた女」としてしばしば非難された。しかしながら、ジェイ・レノによる2003年のインタビューで、彼女はビートルズの解散に失望を感じ、彼女の生活にどれほどの衝撃を与えたかを明らかにした。また、ビートルズの解散後、ジョンがすぐに奇妙で不人気な前衛作品を発表したこと、彼女自身の奇妙な立ち振る舞い、ジョンの死後、彼を「平和の使者」であるかのように奉り上げ、生前の彼が嫌っていたはずの企業CMに進んで肖像を提供したことなどは、批判の対象となっている。
しかしその一方で、多くのファンは、彼女がジョンの作品に深遠で有益な影響を与えたとも考えている。
ジョンの死の翌年、1981年に骨董品商人のサム・ハヴァトイ(Sam Havadtoy)と再婚し、2002年に離別したという説がある。ハヴァトイは、ジョンが生きていた頃から一家と親しかった人物である。
1987年に芸術家アンディ・ウォーホルが死去したとき、彼女は葬式で弔辞を述べた一人だった。
[編集] ポール・マッカートニーとの関係
オノとポール・マッカートニーは不和の関係にあった。どちらかというと、マッカートニーの方がオノを毛嫌いしており、オノは亡き夫レノンの立場を尊重しつつ、何かと理解を求めようと努めてきた。
争点の一つとなっていたのは、ビートルズの楽曲クレジットに関する問題である。ビートルズの活動中、ジョン・レノンかマッカートニーの書いた曲は、どちらが書いても、また共同で書いても、すべて「レノン=マッカートニー」名義とされた。レノンの死後、マッカートニーは、彼単独で、または彼主導で書いた「イエスタデイ」などの曲について、クレジットの順序を「マッカートニー=レノン」と変えようとした。オノはこれを認めず、レノンの生前に二人が取り交わした協約に違反すると非難した。マッカートニー側はこれに反論、そのような協約は存在しなかったとする。他のビートルズメンバー二人が、クレジットは従来どおりにとどめるべきだと意見すると、マッカートニーは要求を撤回した。しかし2002年、この論争が再燃する。マッカートニーはアルバム『Back In The US Live 2002』で、ビートルズ時代の19曲について「作詞作曲ポール・マッカートニー、ジョン・レノン」と記したのである。なお、同作の元となったツアーにて、オノは招待券を申請したが、マッカートニーは「仲の良い友人というわけではないから」という理由で断っている。
1995年、二人は意見の相違にもかかわらず共同制作を行った。マッカートニーとその家族、オノとショーン・レノンとで「ヒロシマ・スカイ・イズ・オールウェイズ・ブルー」を作ったのである。これは広島原爆投下五十周年を記念する曲であった。オノについて、マッカートニーはこう述べている。「彼女は冷たい女だと思っていたけど、間違っていたよ。(中略)その正反対だった。(中略)彼女はただ、断固として自分自身であろうとしているだけなんだ。たいていの人よりもね」
1998年に妻リンダが死去したとき、マッカートニーは葬儀にオノを招待しなかった。[1]
2005年にQアウォードを受賞したとき、オノはマッカートニーの作曲を侮辱しているともとられるコメントを述べ、メディアで物議をかもした。彼女はこう述べたのである。レノンはあるとき自らの作曲に不安を抱き、「なぜ他のミュージシャンはいつもポールの曲をカバーして、僕のはしないんだろう」と訊いた。オノはこう答えたという。「あなたは優れたソングライターよ。あなたが書くのは『スプーンを手に六月』(June with spoon)みたいなのじゃないわ。あなたは優れたシンガーだから、多分ほとんどのミュージシャンは怖くてあなたの歌をカバーできないのよ」[2] ("June with spoon"は、適当に韻を踏んだだけの内容のない歌詞という意)オノの発言に明白な侮辱の意図があったたかどうかには、議論の余地が残る。ヘザー・ミルズ・マッカートニーは、夫がこの件をどう受け止めているか聞かれ、こう語った。「そんなこと、彼は知りもしないわ。ヨーコの音楽がポールの音楽に比べてどれだけ成功しているか、考えてみなさいよ。おのずから明らかでしょう」
オノは後に声明を出した。彼女の言葉はジョンを慰めようとしたもので、ポールを攻撃するものではなく、他意はなかったとしている。また、自分はマッカートニーを尊敬しており、マスコミが自分の言葉を文脈から切り離して報道したのだと付け加えた。
さらにオノはこう述べている。「私とポールが喧嘩しているとか、そんなのんきな話題が人々には必要なのね。この世の恐怖を逃れるために。でも、それはもはや真実じゃない。(中略)私たちは過去、何度も衝突してきたわ。でも今はジョンのパートナーだったポールを尊敬しているし、ポールはジョンの妻だった私を尊敬しているわ」
また、2001年のMojo誌インタビューでビートルズの曲で何が一番好きかと問われた際には、「ビートルズ時代の作品に関しては、私は実はジョンの曲よりもポールの曲のほうが好きなのです。」と打ち明けている。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] ソロ・アルバム
- ヨーコの心/プラスティック・オノ・バンド - Yoko Ono Plastic Ono Band — (1970年)
- フライ - Fly — (1971年)
- 無限の大宇宙 - Approximately Infinite Universe — (1972年)
- 空間の感触 - Feeling the Space — (1973年)
- シーズン・オブ・グラス - Season Of Glass — (1981年)
- イッツ・オーライト - It's Alright (I See Rainbows) — (1982年)
- スターピース - Starpeace — (1985年)
- ライジング - Rising — (1995年)
- ストーリー - A Story — (1997年、1974年録音)
- ブループリント・フォー・ア・サンライズ - Blueprint For A Sunrise — (2001年)
[編集] ジョン・レノンとの共作
- 未完成作品第1番 トゥー・ヴァージンズ - Unfinished Music No. 1: Two Virgins — (1968年)
- 未完成作品第2番 ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ - Unfinished Music No. 2: Life With The Lions — (1969年)
- ウェディング・アルバム - Wedding Album — (1969年)
- 平和の祈りをこめて~ライブ・ピース・イン・トロント - Live Peace In Toronto — (1969年)
- ダブル・ファンタジー - Double Fantasy — (1980年)
- ミルク・アンド・ハニー - Milk and Honey — (1984年)
[編集] ベストアルバム
[編集] その他のアルバム
- エヴリ・マン・ハズ・ア・ウーマン~ジョンとヨーコの仲間たち - Walking On Thin Ice — (トリビュート・アルバム、1984年)
- New York Rock (original cast recording) — (同名ミュージカルのサントラ盤、1994年)
- Rising Mixes — (リミックス・アルバム、1996年)
[編集] その他
夫ジョン・レノンの生誕・没後何年というメモリアル・イヤーになると、日本の企業CMに出演している。
- 1985年(没後5年):KDDI(当時は国際電信電話株式会社(KDD))のCMに当時10歳の息子ショーン・タロー・オノ・レノンと共に出演。
- 1990年(生誕50年・没後10年目):三菱電機のCMに出演。
- 2000年(生誕60年・没後20年目):ダイドードリンコの缶コーヒーダイドーブレンドコーヒーのCMに自身とジョン・レノンが登場するフィルムを提供。
- 2000年:ジョン・レノン・ミュージアムをオープン。自身の作品も含めた数多くの展示品を提供する。10月9日のオープンのために来日し同館にて挨拶を行う(同館内のシアターにて初回入場者のファン50人の前でも挨拶を行った)。
- 2004年ジョン・レノン射殺犯のマーク・チャップマンの保釈に反対した、これによりオノ・ヨーコの建前的発言とは異なり共存することの出来ない敵が存在する事が証明された。
- 2005年(生誕65年・没後25年):富士フイルムのCMに出演。内容は、まず自身が出演する映像が登場し、「PHOTO IS(写真は)」と英語で語りその後ジョンと自身が登場する写真が登場。「写真は愛」「―あなた」「―メッセージ」「―思い出」「―家族」「―笑顔」「―平和」と日本語・英語双方の自身のナレーションが入りそして前の映像が再び登場というもの。もちろん大半が平和のメッセージというべきものである。(※ 2006年もリニューアルされて放送された。(内容は写真が生前のジョンとヨーコのものから子供を写したものとナレーションが冒頭とエンド以外が変更されているというもの。))
- 2006年 トリノオリンピック開会式に出演し、平和についてを語った。直後、ジョン・レノンの「イマジン」が流れた。4月11日、小泉純一郎首相に対し、作者の死後50年に限っている日本の著作権の期限を死後70年まで延長するよう要求する手紙を(渡辺美佐を通じて)提出するというロビー活動を行なった。
また、ジブラルタ生命の企業CMに結婚したときの写真を提供している。(※ 結婚した時の写真の背景に、英領ジブラルタルの象徴であり、ジブラルタ生命のコーポレート・マークの由来である「ジブラルタ・ロック」があるため。)
ニュースキャスターで、ジャーナリストの木村太郎とは幼馴染。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- その他