ウラジーミル・プーチン
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ロシア連邦 2代大統領 | |
任期: | 1999年12月31日 – |
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出生日: | 1952年10月7日 |
生地: | サンクトペテルブルク |
配偶者: | リュドミラ・アレクサンドロヴナ |
政党: | 無所属 (統一ロシアが事実上の与党) |
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン(Владимир Владимирович Путин、1952年10月7日 - ) は、ロシアの政治家。第二代ロシア連邦大統領(在任1999年 - )。柔道家でもあり、段位は柔道五段。最終学歴は国立サンクトペテルブルク大学法学部卒業。学位は法学士(国立サンクトペテルブルク大学)。称号はロシア連邦スポーツマスター。
目次 |
[編集] 人物
レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)に生まれ、ソビエト連邦時代はKGBに勤務し、東ドイツなどで諜報活動に従事したとされる。そのためドイツ語に非常に堪能。
ソ連崩壊後、サンクトペテルブルクの市政に携わり、注目を集める。同市市長で急進改革派の政治家、アナトリー・サプチャークにより、1994年6月サンクトペテルブルクの第一副市長に任命された。1996年に中央政界に防いだ後はKGBの後身である連邦保安庁 (FSB) の長官を務めた。エフゲニー・プリマコフのボリス・エリツィン追い落としクーデターを未然に防いだ功績によりエリツィンの信頼を得、1999年に首相に任命されると第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕をふるって国民の支持を集め、同年健康理由で引退を宣言したエリツィン大統領によって大統領代行に指名、2000年の大統領選挙でも圧倒的な人気を集めて過半数の得票を受け当選、正式に大統領となった。
エリツィンは自伝にプーチンを信頼した理由として、彼が自分に擦り寄ろうとしなかったからであると記している。
2005年9月には「左への転回」を表明。立場を左翼に転換し、社会予算の増額を発表した。また、軍旗をソビエト連邦時代の赤地に星の旗に戻し、コムソモールをイメージしたナーシを作り、ソビエト連邦の国歌を新国歌に制定するなど、左派色を強めていっている。
近年は出身母体であるシロヴィキを背景に強権的な姿勢を強めており、プーチン政権に批判的なメディアや対立関係にある財閥などを抑圧し、親プーチン財閥を優遇するなどの腐敗ぶりが指摘されている。また2006年1月にはロシアよりもEUとの関係を重視し始めたウクライナに対して突如、天然ガスの流量を減らし混乱させるなどの行動により欧州から強い批判をあびている。また、反プーチン派の人間を暗殺しているという疑惑も取りざたされ、スターリンの再来との批判も受ける。
[編集] 政権運営
「強いロシア」の再建を標榜するプーチンは、ソビエト連邦時代の遺産と栄光の記憶を積極的に政権運営に活用している点でエリツィンと大きな違いがある。心情に訴えず、自身の事績をもって国民の支持を集める点でもエリツィンとは大きく異なるが、圧倒的な支持を背景に、自身の強いリーダーシップをもって中央集権化を推進するプーチンの姿勢は権威主義的であると言われ、「皇帝」と呼ばれることもある。プーチン自身は「法の独裁」と言う言葉をつかって自らの立場をよく説明する。
二度目となる2004年の大統領選挙は実質上の信任選挙と言われ、70%以上の圧倒的な得票率で再選した。
近年では、地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改めたり、青年組織を結成するなど、その強権的、独裁的な手法に欧米などから批判も寄せられている。
政権当初は強いロシアを実現するため、アメリカ合衆国や欧州連合が中央アジアや東ヨーロッパの諸国と接近することを警戒する動きを強く打ち出したが、アメリカ同時多発テロ事件以来、テロとの戦いにおいては米国との協調姿勢を見せた。
しかし、イラク戦争においては戦争に反対して米国とは距離をおき、同じく戦争慎重派のフランス・ドイツとの連携を強化しつつある。特に、旧東ドイツ出身でロシア語に堪能なアンゲラ・メルケルが首相になって以降、ドイツとの蜜月状態が続いている。また、自衛隊とロシア連邦軍の合同演習も毎年行われるようになった。ところが2005年には上海協力機構に加盟し、中国人民解放軍と合同演習を行うなど、中国との関係強化も図っている。ただし中国との緊密化についてはロシア連邦軍の内部からの強い反発がある。
日本の北方領土返還要求に対しては日ソ共同宣言を根拠に二島返還の立場をとり、日本側の親露派に足並みを揃えていた。ところが、鈴木宗男を筆頭とした親露派の失脚による日本外交の硬直化とロシア国内保守派からの巻き返しにあい、2005年の来日時前のロシア国内向けテレビ番組の中で返還する意思のないことを表明した。しかし来日時には二島返還で日本側を説得しようとした。
就任直後からチェチェン人の武装集団によってロシアの主要都市へテロが頻発するとこれを口実にチェチェンへの武力侵攻を強化した。ロシア軍はチェチェン各地で暴虐を働き、これが更なるテロを誘発する原因となっている。2002年のモスクワ劇場占拠事件では立て籠もるテロリストを鎮圧するためプーチンはガスの使用を許可した。その結果テロは鎮圧されたが人質の市民も巻き添えとなり、多数の市民が死亡する惨事となってしまった。アメリカを始めとする西欧諸国は最初はロシアを非難していたが、同時多発テロ以後は逆に「対テロ戦争」を支持するロシアとの関係を強化している。しかしその後もチェチェンとロシアの果てしない抗争は続きロシアはイラク戦争のアメリカ同様、泥沼の対テロ戦争に足を引き込まれている。ちなみにイラク戦争後にイラクでロシア大使館を設立したが、ロシア大使館員4人が「イラク・イスラム戦士評議会」を名乗るテロリストにより誘拐・射殺され、怒ったプーチンはFSBに暗殺指令を命じた。
チェチェン紛争に対するプーチンの姿勢を国民は「強いロシア」を体現する物として評価しており、プーチン政権の支持率を維持するのに欠かせない要素となっている。そのためチェチェンへの侵攻を強化しなければ政権を維持できないというプーチン政権にとっては一種のジレンマとなっている。
[編集] 反プーチン派暗殺疑惑
2006年10月、反プーチンのロシア人女性ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤが何者かに射殺された。ロシア情報公開擁護財団によるとロシアでは1999年から2006年までに128人のジャーナリストが死亡・もしくは行方不明となっており、プーチン政権がこれらの事件に関わっているのではないかとの疑惑も浮上している。2006年11月にはプーチンを批判してイギリスに亡命し写真が公開されたアレクサンドル・リトビネンコが死亡した。死亡原因として、多量の放射能物質ポロニウムを食事などに混合され摂取した為とイギリス警察が発表し、トニー・ブレア首相がロシア政府に対し協議したいと要望した。ロシア連邦保安庁(FSB)による暗殺だとする説も浮上している。これに対し、プーチンは「私だったら、放射性物質を使うような回りくどいまねはしない。直に殺(や)る。」として否定している。
[編集] 逸話
彼は元情報部員でありその過去についても不明な点が多い。大統領就任時は謎に包まれた経歴から名前の「プーチン」を帝政ロシア末期の怪僧「ラスプーチン」に引っかけられて揶揄された事がある。
その経歴から「冷酷な性格」や「粗野」という批評を受けているが、むしろ国内ではメディアを通じて非常に紳士的な姿勢をアピールしており、国民からの人気もきわめて高い。
また、11歳の頃より柔道とサンボをたしなみ、大学在学中にサンボの全ロシア大学選手権に優勝。1976年には柔道のレニングラード市大会で優勝したこともある実力者である。柔道について、『プーチン、自らを語る』(扶桑社刊)のなかで「柔道はたんなるスポーツではない。柔道は哲学だ」と語っている。また、講道館において、技の型を小泉純一郎首相に演武したこともある。2000年の来日時には講道館より柔道六段の段位を贈られることになったが、「私は柔道家ですから、六段の帯がもつ重みをよく知っています。ロシアに帰って研鑽を積み、一日も早くこの帯が締められるよう励みたいと思います」という言葉とともに、これを丁重に辞退した。2005年12月より欧州柔道連盟の名誉会長。
戦略的には投資誘致や天然資源の輸出先として日本市場を重視しているが、米国への対抗上中国との提携をより重視しており、中露国境問題も中国に譲歩する形で解決した。一方で日本との北方領土問題では一貫して二島返還を主張していたが小泉内閣に袖にされ続け、結局2005年からは返還しない方針に転じた。またシベリアのガスパイプライン建設でも中国ルートと日本ルートの駆け引きが続いており大統領の裁量が注目されていたが、この問題も結局、日本向けのパイプラインの着工の目処が立たないまま、「中国支線」と呼ばれるスコボロジノ・大慶間のパイプラインが先に建設される方向で事は進んでいる。
プーチン大統領には娘が二人おり、ロシア大衆紙モスコフスキー・コムソモーレツ(電子版05年8月4日)にによれば、二人がそろって父の母校、国立サンクトペテルブルク大学(旧レニングラード大)に合格し、姉マリーヤは生物土壌学、妹カテリーナは日本史を専攻することになると報じた。またマリーヤは05年3月ギリシャで結婚式をあげた。結婚相手は明らかにされていない。
カメラの前では無表情を振舞っているが、実は取り留めないほどの冗談好きである。諜報員時代、時の上司から「お前は冷静すぎる」といわれたことがあるのだが、この逸話もプーチン自身にかかると「本当は『お前のようなおしゃべりはスピン(スパイ)には向かない』と言われたんです」になってしまう。
エリツィンに抜擢されたのでエリツィン派だったと思われているが、むしろ政治家としてはゴルバチョフ元ソ連大統領に敬意を表している。しかし、ゴルバチョフに師事したことはなく、サプチャークからの間接的な影響だと思われる。サンクトペテルブルク時代に仕えた市長(当時)のサプチャークは、プーチンが学生時代に指導をうけた恩師でもあり、生涯の尊敬と忠誠を捧げている。
[編集] 年譜
- 1952年、レニングラード(サンクトペテルブルク)に生まれる。
- 1975年よりKGBに勤務。
- 1990年、故郷レニングラードに戻り、アナトリー・サプチャーク市長補佐官となる。
- 1994年、サンクトペテルブルク市副市長。
- 1996年、ロシア連邦大統領府総務局次長に就任し、中央政界に転じる。
- 1998年、連邦保安庁(FSB)長官。
- 1999年8月9日、エリツィン大統領により首相に指名される。
- 同年10月31日、引退を宣言したエリツィンにより大統領代行に指名。
- 2000年3月26日、過半数の得票を受け大統領に当選。
- 2004年2月末-3月初、内閣を総辞職させミハイル・フラトコフを新首相に指名。
- 2004年3月14日、大統領に再選。
- 2005年12月、ヨーロッパ柔道連盟名誉会長に就任。
[編集] 全世界サミット
[編集] 外部リンク
- ロシア連邦首相
- 1999年 - 2000年
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- 先代:
- セルゲイ・ステパーシン
- 次代:
- ミハイル・カシヤノフ
- ロシア連邦保安庁長官
- 1998年 - 1999年
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- 先代:
- ニコライ・コヴァレフ
- 次代:
- ニコライ・パトルシェフ