霊元天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は神武天皇から数えて第112代天皇。在位は寛文3年(1663年)1月26日-貞享4年(1687年)3月21日。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。
目次 |
[編集] 系譜
後水尾天皇の第十六皇子。母は内大臣園基音の娘で後水尾典侍の藤原国子(新広義門院)。養母は父帝の中宮徳川和子(東福門院)。左大臣従一位鷹司教平の娘房子を中宮とする。
- 中宮:鷹司房子(新上西門院)
- 第三皇女:栄子内親王(二条綱平に嫁ぐ)
- 典侍:坊城房子
- 第二皇女:憲子内親王(近衛家熙に嫁ぐ)
- 掌侍:愛宕福子
- 第二皇子:寛隆法親王
- 掌侍:五条庸子
- 第五皇子:尭延法親王
[編集] 系図
─(108)後水尾天皇─┬(109)明正天皇 ├(110)後光明天皇 ├(111)後西天皇─(有栖川宮)幸仁親王─正仁親王 └(112)霊元天皇┬(113)東山天皇┬(114)中御門天皇─→ │ └(閑院宮)直仁親王─→ ├(有栖川宮)職仁親王〔有栖川宮へ〕 └吉子内親王
[編集] 略歴
1654年長兄後光明天皇の崩御以前にその養嗣子に入り、儲君となる。当時、後光明天皇が余りにも急な死に方をしたために毒殺と噂され、天皇による高貴宮(後の霊元天皇)の養子縁組の意思表示の有無が疑問とされたが、後光明天皇の側近らは天皇が高貴宮の誕生直後より万一に備えて縁組の意向を表明していたと主張している。また、高貴宮の生母が後光明天皇の母方の従妹であることや当時目ぼしい親王が全て宮家の継承か寺院に入ってしまったために唯一将来が定まっていなかった男子皇族が高貴宮以外にいなかった事から、高貴宮が養嗣子として将来の皇位継承に備えるのが当時としては一番妥当な判断であったと考えられる。1658年に親王宣下をおこなった。1662年12月に元服し、1663年1月、兄の後西天皇から譲位されて踐祚した。
治世の最初は父である後水尾法皇に院政を敷かれていたが、1680年、後水尾法皇崩御後は直接政務を執った。霊元天皇は父の遺した路線を一歩進めて皇室再興と独自の政策展開を目指したために幕府と距離をとることが多く、この時代、「親幕派」と認められた公卿は徹底的に干された。特に1681年法皇の遺命により儲君に内定していた第一皇子の一宮(後の済深法親王)を強引に出家させ、反対する一宮の外祖父小倉実起を佐渡に流刑にする「小倉事件」を引き起こす。次いで1682年、鷹司房輔が関白を辞した際には本来の順序ならば左大臣である近衛基熙を関白に任じるべきところを、霊元天皇は彼が小倉事件ににおける自分の措置に対して批判的であると睨んでいたため、これを無視して右大臣の一条冬経を越任させるという贔屓の人事をおこなって京都所司代稲葉正往を驚愕させた。1783年には意中の皇位継承者であった朝仁親王(後の東山天皇)の立太子礼が行われ長く中断していた皇太子の称号を復活させた。ただしこの時期の将軍であった徳川綱吉は朝廷尊重を掲げていたため、朝幕関係は比較的安定していた。
1687年に朝仁親王(東山天皇)への譲位にこぎつけた後に仙洞御所に入って院政を開始して、その年には同じく長年中断していた新天皇の大嘗祭を行う。これは関白及び禁中並公家諸法度を利用して朝廷の統制を図ろうしていた江戸幕府を強く刺激した。院政は朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、禁中並公家諸法度に基づく幕府の統制の手が届かなかったからである。実は先代の後水尾法皇の院政にも幕府は反対であったが、幼少の天皇が続いた事に加えて2代将軍徳川秀忠の娘である法皇の中宮・東福門院がこれを擁護したために黙認せざるを得なかったのであるが、霊元上皇にも同様な事を許す考えは無かった。直ちに幕府は院政は認められないとする見解を朝廷に通告するものの、上皇はこれを黙殺した。
だが、朝廷内にも強い反対派が存在した。左大臣近衛基熙である。彼は幕府と連携してこの朝廷と幕府の決裂という事態を防ごうとしたが、上皇にはこうした動きをする基熙を「親幕派」とみなして激しく嫌った。だが、1693年一条兼輝が辞任すると、後任関白の候補は近衛基熙しかおらず、やむなく基熙を関白に任じた。だが、将軍徳川綱吉もまた個人的に基熙を嫌っていたために霊元院政に代わる近衛基熙体制も容認しがたく、幕府と関白が連携して院政を抑えるまでには至らなかった。
1694年、東山天皇の成長を理由として政治の実権を天皇に移すことを宣言する。だが、東山天皇は今まで上皇が全てを握って自分が無力であった事に不満を抱いており、近衛基熙の補佐を得て親政を開始して幕府との関係改善をはかった。一方、幕府もこの動きを歓迎して天皇親政の支援に動き出した。それは綱吉が近衛基熙を嫌う一因となっていた徳川家宣(綱吉の甥で基熙の娘婿)と和解して後継者に指名した事で拍車がかかった。一方、霊元上皇も近衛基熙に不満を抱く他の摂家と連携してしばしば東山天皇、またその後の中御門天皇の治世に掣肘をくだした。また、従来の反幕府の態度を一転させて皇女吉子内親王と将軍徳川家継の婚約を実現させて中御門天皇と近衛基熙を出し抜いて幕府との連携に転じるが、こちらは家継死去のために挫折に終わった。後水尾天皇と並んで長期に亘って院政を行い、朝廷政治に重きをなした。1713年に落飾して法皇となる。法名は素浄。1732年に崩御。
桃山から江戸期にかけての歴朝で後陽成天皇と並ぶ能書の帝王である。書道 有栖川流は、この天皇の書風から派生したことで知られる。 また、和歌にも造詣が深く、中院通躬らを上卿として柿本人麻呂に神階を贈った。
[編集] 在位中の元号
[編集] 諡号・追号・異名
遺諡により、孝霊天皇・孝元天皇の諡号を採って「霊元院」と追号される。大正以後は「霊元天皇」と表記される。
[編集] 陵墓・霊廟
京都の泉涌寺内の石塔の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られる。また、全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
[編集] 参考文献
- 宮内省図書寮 編『霊元天皇実録』1~3巻(ゆまに書房、2005年) ISBN 4843320315
- 久保貴子『近世の朝廷運営 朝幕関係の展開』(岩田書院近世史研究叢書、1998年) ISBN 4872941152
- 山口和夫「霊元院政について」
- 今谷明・高埜利彦 編『中近世の宗教と国家』(岩田書院、1998年) ISBN 4872941209 p311~p342
[編集] 関連項目
歴代天皇一覧 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿徳 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 応神 | 16 仁徳 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝徳 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 弘文 | 40 天武 |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 称徳 | 49 光仁 | 50 桓武 |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文徳 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 円融 | 65 花山 | 66 一条 | 67 三条 | 68 後一条 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 |
71 後三条 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇徳 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二条 | 79 六条 | 80 高倉 |
81 安徳 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順徳 | 85 仲恭 | 86 後堀河 | 87 四条 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二条 | 95 花園 | 96 後醍醐 | 97 後村上 | 98 長慶 | 99 後亀山 | 100 後小松 |
北朝 | 1 光厳 | 2 光明 | 3 崇光 | 4 後光厳 | 5 後円融 | 6 後小松 | |||
101 称光 | 102 後花園 | 103 後土御門 | 104 後柏原 | 105 後奈良 | 106 正親町 | 107 後陽成 | 108 後水尾 | 109 明正 | 110 後光明 |
111 後西 | 112 霊元 | 113 東山 | 114 中御門 | 115 桜町 | 116 桃園 | 117 後桜町 | 118 後桃園 | 119 光格 | 120 仁孝 |
121 孝明 | 122 明治 | 123 大正 | 124 昭和 | 125 今上 | ※赤字は女性天皇 |