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庭園 - Wikipedia

庭園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

庭園(ていえん)とは、見て、歩いて楽しむために、樹木を植えたり、噴水花壇を作ったりなど、人工的に整備された施設。日本では、自然を模して川・池・築山などが作られ、木や草が植えられているものもある。

目次

[編集] 中国の庭園

中国の庭園には大きく分けて、苑囿と呼ばれる皇帝所有の大規模自然庭園と、貴族、官僚、豪商などの私邸庭園の別があり、両者の性格と規模は異なるが、造園の手法には共通点も少なくない。苑囿の出現は代にさかのぼると伝えられるが、造園の事跡が確認される古代の実例としては、始皇帝の上林苑のほか、咸陽の離宮で渭水の水を引いて池を作り楕族山を築いているのは人工的な築山の先駆である。前漢武帝は上林苑を拡張し、建章宮では太液池中に東海神山をかたどった築山を作った。茂陵の袁広漢の造園は石の築山、砂の洲浜を備え、珍奇な禽獣や樹木を集め、多くの建築を配したもので、すでに山水、花木と建築を組み合わせる中国庭園の原型がうかがえる。

下って後漢の梁冀の広大な苑囿、南北朝時代では北魏の張倫、劉宋の戴媛らの造園もまた山水を主たる園景としたものであった。また、煬帝東都の西苑、長安の曲江、大明宮后苑、北宋東京の艮岳、金明池、大都の太液池などに代表される歴代王朝の苑囿は、豪壮な規模と華麗な園景によって知られる。貴族官僚の庭園では、白居易の廬山草堂、王維の土川別業は歴史に名高く、また北宋西京南宋臨安、呉興などの地にあった数多くの名園については文献の記述からその自然園景の画趣が伺える。しかし、これらの史上に名高い苑囿・庭園はいずれも失われ、古い時代の実例は伝わらない。現存する庭園遺構は、蘇州の芸圃や無錫の寄暢園などが代の風格を留めているのを除くと、いずれも代、大半は末期以降の再建を経ている。代表的遺構として、江南地方の私邸庭園に芸圃、寄暢園のほか、蘇州の留園、拙政園、滄浪亭、獅子林、網師園、環秀山荘、旋園、鶴園、揚州の个園、何園、片石山房、上海豫園南京の瞻園などがあり、また皇帝の離宮・苑囿には北京の紫禁城西苑、頤和園円明園承徳避暑山荘などがある。

一方、遺構とは別に、往時の庭園の情況を録した『洛陽名園記』『呉興園林記』『游金陵諸園記』などの文献や、造園理論書を代表するの計成の『園冶』をはじめ、張南垣、周秉忠、の張佐、張然、葉降、李漁、仇好石、戈裕良らの造園論が伝わる。文献から伺い知る中国の造園は、人工的に築いた山水を造景の主題とする点では、ほとんど一貫している。園景としては自然を模倣して池、山、峰、谷、滝、洞などを築き、園内の配置は自由で不規則的なものが好まれ、花木とともに建築が観賞地点と園景対象の両面で主要な構成要素とされる点が特色といえよう。土、石の築山は漢代以来の伝統を有し、代には普遍化し、奇石の観賞は南北朝時代以降に文人の間で始まったものであり、詩や絵画からの寓意、借景や対景の手法とともに、中国の造園が長い伝統のなかで生みだした独自の手法に数えられる。同時に、『園冶』に代表される造園書の個別的手法と、その類型化をいっそう推し進めた現存遺構の諸要素が、その伝統の末期に属することも注意されてよい。

[編集] イスラムの庭園

イスラム世界ではペルシア語の「かぐわしい所」を意味するブースターン(bōyistān>būstān)に由来したアラビア語のブスターン (bustān) が庭園を指す用語として広く使われてきたが、この語は同時に菜園、果樹園を指すこともある。また楽園をも意味するジャンナ (janna)、フィルダウス (firdaus) のほかラウダ (rauḍa)、バーグ (bāgh)、ハディーカ (ḥadīqa) など、庭園を指す言葉は少なくない。

イスラム世界の中心となる西アジア北アフリカの国々のほとんどは乾燥地帯に位置し、集落を取り巻くのは不毛の砂漠か荒野である。砂漠は単に視覚的に単調であるばかりでなく、無あるいは死を意味する忌まわしいものであり、この苛酷な自然を克服し改善して生まれたのがオアシスであり庭園であり、ここに人々の水と緑への渇望が集約されている。イスラムの庭園がきわめて人工的(整形的、幾何学的)な構成をとるのは、ひとつには範とすべき美しい自然が現実には存在しないからである。したがって、いわゆる借景という発想が生まれる素地はなく、まして水や緑を欠く枯山水などはイスラムの庭園の範疇には入らない。ユダヤ教キリスト教における「理想の庭園」の長い伝統を受け継いだイスラムにおいても、庭園は永遠の楽園のイメージとみなされている。つまりイスラムの庭園は理想化された「地上の楽園」である。コーラン(47章、55章、76 章など)によると、楽園には涼やかな木蔭とよどみなく流れる川や泉があり、さらに蜜と乳と美酒の川が流れ、あらゆる種類の果物が実り、そして美しい乙女たちが住む天幕が張られているという。この理想の庭園はペルシア絨毯にも写されており、戸外・屋内を問わず随時華やかな空間を展開させることを可能にしている。イスラム文化の基盤にはサーサーン朝のペルシア文化の伝統があるが、庭園の場合も例外ではない。整然とした木立が並び、池泉が設けられ、鳥獣を飼育する苑囿をも兼ねた囲みのある古代ペルシアの宮苑パイリダエーザ (pairidaeza) は「塀で周囲を囲んだ」を意味する語であり、パラダイス (paradise) の語源にもなった。サーサーン朝の皇帝たちは塀で囲い込んだ広大な園林(バーグ)を設置し、そこに果樹や花卉を植え、東屋を営み、池泉に舟を浮かべ、鳥獣を放って歓楽や狩猟などの儀式を大々的に催したが、イスラム時代に入ってもイラン系のみならず中央アジアやイラン地域では、テュルク・モンゴル系の王族たちも競って都市の郊外に大規模なバーグを多数建設した。これらペルシア文化の伝統は、イスラムの支配に下った後も長く保持され続けたのである。なおペルシア語で「天国、楽園」を意味するフィルダウスとはパイリダエーザの近世ペルシア語形である。

イスラムの庭園で最も重要な要素は水、植栽、パビリオンである。さまざまな水源から引かれた水は、概して直線的な水路を通って長方形ないし正方形に区画された花壇に配分される。中央で直角に交叉して全体を4分割するイランのチャハール・バーグがその典型である。水景施設としては噴泉、方形の人工池(ハウド)などが設けられる。イスラムの庭園は起伏の少ない平面的な構成をとるものが多いが、傾斜地では階段状に庭園が設けられ、落差を利用した滝が造られることもある。植栽としては伝統的に果樹園に類するものが多く、オレンジザクロイチジクをはじめ、ピスタチオクルミアーモンドなどの堅果類も好まれた。地域によって乾燥に強いタマリスク、サンザシなどが選ばれるほか、マツスギナツメヤシプラタナスポプラヤナギクワテンニンカなどの常緑樹、落葉樹が植えられた。草花はジャスミンバラケシ、イチハツ、ラベンダーなど多種多様である。宮殿を含めたイスラム世界の住宅建築において、外界から隔離された憩いの場である中庭は伝統的に建物と不可分の関係にある。庭園のもう1つのタイプ、すなわち郊外に造られることの多い公園のような規模の大きい庭園にも必ずパビリオンが建てられている。建築的にはなんら統一的な形式もスタイルもなく、各地の伝統がそれぞれ生かされている。一般に庭園の周囲には高い塀が巡らされる。それは、吹きつける砂塵や草木を食い荒らす家畜の侵入を防ぎ、街の喧騒を遮断する機能をもっている。もちろんイスラム以前のペルシアのパイリダエーザの伝統とも無関係とはいえない。以上の一般的な庭園に加えて、アーグラタージ・マハールに代表される、王族や聖人の墓妓を中心にした特殊な庭園がトルコイランなどで造られた。

イスラム世界における庭園の歴史は、各地に残る考古学的資料や文献によって8世紀前半にまで遡ることができる。おもな庭園跡としては、サーマッラーカリフの宮殿・邸宅ジャウサク・アルハーカーニーの庭園跡、コルドバ近郊の夏の宮殿メディーナ・アサハーラの庭園跡、セビリャのアルカーサルのカスル・アルムバーラクの庭園跡、グラナダアルハンブラ宮殿ミルテパティオ、夏の離宮ヘネラリーフェの庭園などがおもな例である。一方、アケメネス朝以来の造園芸術の伝統があるイランでは、イスファハーンのチェヘル・ストゥーン宮殿の庭園、アシュラフのチェヘル・ストゥーン、テヘランのゴレスターン宮殿の庭園、シーラーズのバーグ・エ・タフト、バーグ・エ・エラーム、カーシャーンのバーグ・エ・フィンなどを挙げることができる。

[編集] 西洋の庭園

[編集] 古代エジプト、西アジア

古代エジプト西アジアの庭園のようすが詳しく知れるような遺構は残存していないが、文献、壁画などからある程度まで推察をすることは可能である。たとえば古代エジプトにおいては、紀元前14世紀、第18王朝の上流階級の住宅のようすを描いた壁画から、整然と区画され矩形の池を配した庭の存在が知られ、園亭、パーゴラなどの施設が造られていたこともわかる。また聖域の聖性を高めるための植樹が行われたのは、西アジアにおいても同様であった。

古代西アジアの庭園も古くからの歴史をもつが、なかでも新バビロニア時代のバビロン空中庭園世界の七不思議として古来喧伝されてきた。これは宮殿の屋上、あるいはそれに相当する高みに造られたテラス式の庭園と思われ、おそらくその規模と、ユーフラテス川を水源とした揚水技術が驚異の的となったのであろう。

具体的な遺構を欠くために、推測の域を出ないものの、この地域がヨーロッパにおける庭園のイメージの源泉を形作ったことは間違いのない。古代オリエント神話における、聖なる泉を中心とする楽園の描写は、旧約聖書の記述を通じて中世ヨーロッパの人々の庭園観に少なからぬ影響を与えた。またルネサンス期の庭園には、それを具体的な形に移した、噴泉を中心に水路が方形の花園を四分するイスラム庭園の基本構成の投影がみられる。また古代ローマおよびイタリアルネサンスの庭園における揚水技術の展開も、東方にその淵源をもつと考えられる。

[編集] 古代ギリシア・ローマ

古代ギリシアにおいても、聖域、競技場や劇場などの公共施設、個人の大邸宅に林苑や庭園が造られていたことが、当時の資料によって知られる。しかしながら、ルネサンス以降のヨーロッパ庭園の展開に影響を与えたという点では、古代ローマの住宅やヴィラに付属した庭園が重要である。とりわけ小プリニウスがその友人に宛てた書簡のなかに記している彼の2つのヴィラ(トスカナ荘とラウレンティア荘)の列柱廊や園亭に飾られた庭の描写と、ローマ近郊のティボリに造られたハドリアヌス帝の広大なヴィラは、ルネサンスの庭園を計画した人々の重要なインスピレーションの源となった。古代ローマの住宅は、軸線上に配置されたアトリウムとペリステュルムの2つを諸室が囲む形を基本とし、さらにその奥に蔬菜園などが配される形を基本としたが、必ずしもそれのみにとらわれぬ多様な庭が造られていたことは、ポンペイエルコラーノオスティアなどの遺跡に明らかである。噴泉は好んで多用されたが、それとともに刈込み(トピアリア)がさかんに行われ、幾何学的な構成の生垣のほかに、文字や動物をかたどったものまでが造られた。また室内に壁画として庭のすがたを描くことも行われており、ローマ国立美術館に保存されている皇妃リウィアのヴィラの壁画はその好例であって、果樹が豊かに実を結び、噴泉が高く水を吹き上げる当時の庭園のようすをしのぶことのできる貴重な資料である。

[編集] 中世の囲い込まれた庭

中世は庭園芸術の低迷期であるとする説があるが、これは必ずしも当を得ない見方であろう。たしかにはなばなしい展開こそみられないものの、庭は中世上流階級の人々の生活にとって欠くべからざる存在だったからである。ギヨーム・ド・ロリスおよびジュリアン・ド・マレによる『薔薇物語』の挿絵に見られるような、垣をめぐらし装飾的な噴水を中心として構成された庭が、おそらく一般の邸館に付属する庭園のありようであったと思われ、そこには珍しい植物、鳥禽が集められたのであった。十字軍の遠征がこうした傾向にさらに拍車をかけたのはいうまでもなく、とりわけ東方の花や木が珍重された。当時の庭は、のちのルネサンス庭園のような変化に富んだ空間構成よりは、いかなる植物を集めるかに重点が置かれていたように思われる。またこうした中世の庭のようすは、「鎖されし園」を意味する「ホルトゥス・コンクルスス」と呼びならわされる、楽園に座すマリアを描いた宗教画などにもうかがうことができる。回廊が方形の庭を囲い込む修道院の中庭形式も、この時代に完成したもので、これは中央に噴泉や雨水溜、井戸(あるいは宇宙軸、生命の樹の観念にもつながる象徴的な樹木)を配して、天上の楽園の観念的な表現ともなるものであった。

[編集] イタリア・ルネサンス

文化の他のジャンルと同じく、庭園においても新しい動きがいちはやく現れるのはイタリアにおいてである。しかしながら、15世紀頃の初期ルネサンスの庭園は、中世以来の伝統的な形式からの過渡期的な様相が強く、まったく新しいルネサンス独自の様式が展開するのは、16世紀に入ってからのことである。イタリア・ルネサンスにおいて庭園芸術がめざましい発展をとげるのは、上流階級の人々が好んで営んだヴィラと、そこでくりひろげられる生活のゆえであった。都市の周縁部、あるいは郊外に造られたヴィラは、別荘というよりはひとつの知的サロンというにふさわしく、たとえばメディチ家コジモ大ロレンツォたちがフィレンツェの郊外に建てたヴィラ群は、当代最高の詩や音楽、芝居などに彩られた芸文の花開く場であった。これらは多く丘陵地帯を選んで営まれたが、その庭園は中世の庭の求心的で閉ざされた構成を脱して、大きな展望に向かって開いた構造をもつにいたっている。たとえばフィレンツェ北方のフィエゾレの丘に築造されたヴィラでは、斜面に複数のテラスが配され、トスカナの田園の広々とした眺望が得られている。しかし、のちの16世紀の庭園のように、テラス相互間を軸線(ビスタ)でつないで統一するといった手法はまだ行われていない。このほか、フィレンツェ北西方のカレッジのヴィラも、よく当時の庭の面影を伝えている。

15世紀末から16世紀初頭にかけて、すなわち盛期ルネサンスの頂点に、文化の中心がフィレンツェからローマへと移ってきたときに、以後の庭園の構成に大きな影響を与える2つの庭が造られた。1つは大建築家ブラマンテが設計したバチカン宮殿のベルベデーレの中庭で、ここでは細長い敷地に軸線を通して奥行き方向に3段のテラスが築かれ、壮大な階段が空間のアクセントになって、最奥部は巨大なニッチに終わっていた。また建築家でもあったラファエロジュリオ・デ・メディチ(のちのクレメンス7世)のために造ったヴィラ・マダマは、ハドリアヌス帝のヴィラに範をとったものだが、ブラマンテの例と同様な造りのほかに、グロッタを主題として大々的に採用したことと水を活用したことが際だっていた。これらの特徴は、16世紀を通じてイタリアのルネサンス庭園の重要な特色となった。

16世紀に完成されたこのイタリア様式の庭園として、今日残存するもっともすばらしい例は、ローマ近郊のティボリにイッポリト・デステの営んだエステ荘、およびローマ北方のバニャイアのヴィラ・ランテである。ともに傾斜地に営まれたものだが、前者は大がかりな水の使用に特色があり、後者は16世紀イタリア庭園に特徴的なジャルディーニ(幾何学的な庭園)とボスケ(叢林)の組合せの典型であった。さらにこれらの庭園が、邸館の内部同様、ギリシア神話ローマ神話の神々の像やさまざまな寓意像によって彩られていたことも忘れてはならない。すなわち庭園はメタファーとシンボルの体系として組み上げられていたのである。

[編集] フランス式庭園の成立

イタリアの庭園はヨーロッパ各国に大きな刺激を与え、そのボキャブラリーがアルプスの北方へと輸出されたが、やがてそのなかからフランスに新しい様式への動きがあらわれ始める。まず宮廷造園家の家系に生まれたモレが、16世紀後半に刺斥文様を生垣に写しとったような刺斥花壇を開発し、さらに17世紀にいたってル・ノートルが、イタリアと違って主として平地に営まれた幾何学的構成をもつ庭園に強い軸線を導入して、ブルボン朝の栄華にふさわしい壮大な様式を完成させた。これが「フランス式庭園」あるいは「整形庭園」と一般に呼ばれるもので、ル・ノートルはボスケ(叢林)で庭園の主部を限りとり、そこに刺斥花壇、大噴泉などを整然と配して無限へと延びる見通し線を造りだした。とくにこのために彼が活用したのは、カナール(水路)である。ル・ノートルの出世作は、マザランのもとで大蔵縁をつとめたフーケの城館、ヴォー=ル=ヴィコントの庭園で、それは南北1.2キロメートル、東西0.6キロメートルの広さをもっていた。この庭がルイ14世の目にとまり、ル・ノートルは有名なヴェルサイユ宮殿の庭をデザインすることになる。ここでは宮殿中央の「鏡の間」の前のテラスから南へと「王の並木道」が延び、その先がカナールになって、それがはるか天と地の境にまで延びていっているように見える。ヴェルサイユではボスケのなかにもさまざまな小庭園が造られ、これらを舞台に、モリエールの芝居、リュリの音楽、ラ・フォンテーヌの詩の朗読などが行われたのであった。ル・ノートルの関与した作品は、パリ周辺にたくさん残っており、シャンティイ、ソー公園、サン・クルーなどがおもなものである。

[編集] イギリス風景式庭園の流行

フランス式庭園もたちまちヨーロッパ各国の模倣するところとなったが、18世紀に入ると、イギリスにこれとまったく対照的な新しい庭園思潮があらわれてヨーロッパ全土に流行し、既存の名園までもがこれに造りかえるにいたっている。この新しい庭は一般に「風景式庭園」と総称されるが、イタリアとフランスの庭がそれぞれの地形的特性をよく生かしたものであったように、それはイギリスのゆるやかな起伏をもつ丘陵の牧歌的な風景をその基盤においたものであった。

フランス風の整形庭園を攻撃する文章によってこの風景式庭園誕生の先鋒となった人物としては、シャフツベリー伯、アディソン、ポープらがいるが、現実の庭園としてはストーのテンプル家の館が最初期に属する。この設計は最初ブリッジマンによって行われ、ブリッジマンは庭と外界の境に一種の堀割であるハハーを導入して、何さえぎるものなく眺望が周囲の自然にとけ込んでいくように工夫した。ストーは以後、ブリッジマンと協同したバンブラー、ケント、ギブズ、ブラウンといった名手たちがつぎつぎに手を加えた記念碑的な庭園となる。風景式庭園のさまざまな相を一つに集めた庭として、いまに伝えられている。しかしブリッジマンのあと、風景式庭園における眺望を一幅の絵としてとらえる新しい傾向があらわれてくる。その手本は、たとえば17世紀のフランスの画家ロランプッサンの描いたような古典的な神殿や廃墟の見えるローマ郊外の風景であって、ケントがその代表的な作家であった。ケントの仕事としては1730年代に造ったラウシャム・ハウスの庭園が残っている。またこうした古典的な題材だけでなく、ゴシック、あるいは中国風のものを題材に選ぶものもあらわれており、ロンドンキュー・ガーデンズパゴダを造ったチェンバーズは、そうした東洋風の構成に魅かれた人物の一人である。この絵画的な構成を重んじる派に属するものとしては、ホーア家代々、ことにヘンリー2世がアマチュア造園家として造ったスタウアヘッドの庭が、完成された美しさを示している。このような傾向に対して、ただ水と芝、樹木と起伏のみによる構成を主張したのがケーパビリティの渾名をもつブラウンであった。レプトンはこのブラウンの考えを受け継いで風景式庭園最後の巨匠となった人で、「ランドスケープ・ガーデニング」という概念を提唱し、イギリスにおける、庭園の枠を超えるランドスケープ・デザインの伝統の礎を固めていった。この風景式庭園の思想の影響をもっとも強く被ったのはフランスであり、ルソーが晩年に隠棲したジラルダン縁のエルムノンビルの館の庭や、マリー・アントワネットベルサイユに営んだプティ・トリアノンのアモーなど、さまざまな例が残されている。

[編集] ドイツの庭園

ドイツ文化圏は庭園の歴史においてはとくに独自の様式をつくりあげることなく、つねに各国の様式を採り入れて発展させてきた。イタリア式を採り入れたものとしては巨大なカスケードを配したカッセルのウィルヘルムスヘーエの庭園、フランス式を採用したものとしてはウィーンシェーンブルン宮殿、風景式庭園の例としてはミュンヘン近郊のニュンフェンブルク宮殿の改造部分などが挙げられよう。ただドイツ文化圏の特色として、単に時々に流行の形式を追うというよりは、さまざまなタイプを等距離において、形式を自由に選び取っている面もなくはない。また北方のロマンティシズムの色づけが、ドイツ文化圏の庭園に独特の幻想的な世界を築きあげていることも注意すべきである。

[編集] 都市公園の形成

イタリアのルネサンス期には上流階級の庭園は公開が原則となっていたが、アルプスの北方ではこの習慣はなかなか広まらなかった。しかし18世紀になると、大都市においては上流階級の狩猟園の公開がしだいに行われ、19世紀の後半になると、公共の公園が庭園の新しいテーマとして登場する。各都市は競って公園を造り緑地を確保したが、そのデザインの基調となったのは、イギリスで発達した風景式庭園の思想であった。この種の公園として最大のものは、人口が増加しつづけるニューヨーク市が創設した面積850エーカーに及ぶセントラル・パークの計画であり、その設計にはオルムステッドがあたった。これは人口の密集するニューヨークにあって、今日もなお貴重な財産となっている。

しかし近代建築運動の登場にともなって、こうした風景式庭園を基調とする公園の造り方に異議が唱えられ、主として建築家を中心として改革運動が起こった。彼らは建築の有する秩序体系に合致する庭園デザインを求めたのである。ここに「戸外の室」としての庭のデザインが成立した。今日では現代の広汎な要求に応えて、庭園の枠を超えて環境全体のデザインを手がける専門家の誕生をみており、都市内に建築と一体となって造られる公園や大規模な住宅地計画などに活躍している。

[編集] 日本の庭園

海外の日本庭園
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海外の日本庭園

「庭園」という言葉は新しいもので、もともと「」と「園」は別の意味をもっていた。「庭」は仕事や行事をするための場所をいい、平坦な土地を指した。古代は神事や政事の場所でもあったが、屋前の広場、屋前および屋内の農作業場、家屋まわりの空地などに対しては、今も「庭」が通用している。「園」は野菜や果樹、ときに草花を栽培している「囲われた土地」を意味した。所有主の領域を示し、また植物が植えられているのが特徴である。野菜や果樹のような実用的なものより、花卉のような観賞的なものが主力を占めてくると、今日いう「庭園」の概念に接近してくる。庭は、植物の有無には無関係で、囲われていないのが特徴である。庭と園は人の生活する家を媒介として結びつき、それぞれ内容を濃くするものであったが、庭と園をくっつけて、庭園という語になったのは明治以降のことで、19世紀末、明治20年代から30年代にかけて定着していったものである。現代、庭園の語は、造園の対象となる、区画された、美と機能のそなわった空間に対して使われている。また庭という言葉もひきつづいて使われ、社会生活が複雑に高度になるにつれて、造園の範囲は拡大し、区画されない土地、すなわち庭のウェイトが今日ますます高まっている。従来、造園の対象とした庭園はほとんど個人が生活する住居の庭園にすぎなかったのだが、今では、官庁、事務所、病院、学校、共同住宅、ホテル、緑道、広場というように範囲がひろがり、必ずしも囲われている空間ばかりとは限らなくなった。

[編集] 飛鳥・奈良時代

日本における庭園の初めての記録は、日本書紀において推古天皇34年(626年)条にあらわれる。この年に蘇我馬子が没したが、飛鳥川の畔にあった馬子の家の庭には、小池が掘られ、池には小島が築かれていた、という。蘇我馬子はこのために「嶋大臣」と呼ばれ、この庭園が珍しく、評判になっていたことがわかる。平坦な広場として実用的に使われていた「庭」に小池を掘り、小島を築いて観賞の対象としての「庭園」が造られたのである。百済から仏教が伝えられたとき、崇仏か否かの論争があったが、崇仏側の蘇我氏が勝ちを占め、飛鳥寺が建立された。庭園がこの蘇我氏によってつくられたことは、庭園の技術も百済より伝来したと想像させる。大化改新後になって、天武天皇の皇子、草壁皇子の早世を悲しんで春宮の舎人たちの詠んだ歌が万葉集巻二に残されているが、この歌から草壁皇子の庭園がかなりはっきり知られる。この庭園にも池がうがたれ、荒磯の様を思わせる石組みがあり、石組みの間にはツツジが植えられ、池中には島があり、このために「橘の島宮」と称せられたという。このように、池を掘り海の風景を表そうとしたことは、以後の日本庭園にも長く受け継がれる。飛鳥宮平城京跡の庭園発掘がすすみ、文献では得られない知見を加えている。平城京の左京三条二坊六坪からは、長さ55メートル、最大幅5メートルの、細長く屈曲し、底に玉石を敷きつめた池が発掘され、公的な曲水の宴が催された庭園として注目された。

[編集] 寝殿造の庭

8世紀末になって都が平安京に遷されたが、京都は三方が山に囲まれ、清流にめぐまれた景勝の地である。いたるところに森や池や泉があった。三方の山々は古生層に属してゆるやかな起伏をもち、また盆地縁辺にはいくつかの独立した小山も点在していた。この古生層の山河からは、美しい庭石と白砂がとれた。地形からも材料からも、庭園をつくるのに好適の地であったといえる。9世紀は天皇の離宮、退位してからの御所の庭園に優れたものが多く造られたが、京都の北西にある大沢池は、嵯峨天皇離宮として造られたものである。大沢池には北に寄って中島が2つあり、この付近に今も庭石が散見される。北方に名古曾の滝の遺跡もある。

10世紀も半ばを過ぎると、藤原氏が広大な荘園を経済的基盤として栄えてきた。このころは「古めかしきもの」から「今めかしきもの」への変換期で、生活が変わりつつあったといわれる。中国から伝来した中国絵画がようやく日本化され、いわゆる「大和絵」の成立したのもこの時期であり、漢詩文に対し仮名書きの文学作品が書かれるようになるのもこの時代である。貴族の住宅や庭園に中国とは違った独自の様式が造られた。貴族の住宅は寝殿造と呼ばれ、広いものは、1町四方に及んだ。門は西か東にあって、南側には敷地いっぱいに庭園がつくられた。寝殿は南面し、南庭が設けられたが、南門のなかった点は中国の形式と異質のものである。南庭は白砂が敷かれ、年中行事の儀式の場とされた。その前方には2、3の島が築かれ、島へは南庭から反り橋を、さらに島から対岸に平橋を架けていた。中門廊の南端は池に臨み、釣殿が造られた。ここは納涼、月見の宴に用いられたり、舟遊びの際には発着の役目を果たした。中島の裏側には楽屋が造られ、舟遊びに興をそえることもあった。南庭には遣水と呼ばれる流れが寝殿と東の対屋との間、透渡廊の下をくぐって流れていた。池がつくられないような狭い敷地の場合でも、この遣水だけはつくられた。遣水の流路とその護岸としての石立は、流れに変化をつけるもので、水が石につきあたって白く波だつ面白さや水音にもこまかく気が配られた。

寝殿造の庭がとくに詳しくわかっているのは、当時の公家橘俊綱が書いたといわれる『作庭記』が残されているからである。『作庭記』には自然の風景からモチーフを得るという主張が貫かれている。また自然と作者との対応のしかたが「乞はんに従う」という言葉で表現されているのは重要である。すなわち、自然の地形や岩石が、人間に要求してくるというのである。自然が人間に要求するという感じ方に、日本人独特の自然観がみられる。自然が人間と対立し克服すべき対象となるのではなく、自然の中にとけこみ、自然に従いながら作庭しようとする。『作庭記』が公家自身の手で書かれたように、当時の公家は一流の作庭家でもあった。この著者の父は、宇治平等院をつくった藤原頼通である。藤原頼通も庭園をつくろうとしたとき、気に入った専門家がなく、みずから作庭したといわれる。

[編集] 浄土教庭園の形成

平安時代中期(10世紀)以後、仏教は国家的なものから私的なものに変わり、貴族の私寺が増えた。住宅の中に御堂を建て、また仏寺が別荘としての機能も果たした。藤原道長の法成寺、藤原頼通平等院をはじめとして11世紀から12世紀を通じて時代の風潮を形成した。眼の前に極楽浄土の世界をつくろうとしたのである。この形式の伽藍配置には池の占めるウェイトが非常に大きい。参拝者は南門をくぐって大池に架かった反り橋を渡り、中島を経て御堂に達するようになっていた。華麗な堂塔が池面に映る姿は浄土を空想させたであろう。阿弥陀堂の東面に池が掘られるという浄瑠璃寺のような場合もあるが、池や庭園がやや整形的になっているのが多いのは、浄土曼荼羅の構図がもとになっているためと推測されている。11世紀末からおよそ80年間にわたり、白河院の鳥羽離宮が造営された。鳥羽は平安京の南、鴨川に接した風光明媚な土地で、従来からも別荘地であった。この地に東西1.5キロメートル、南北1キロメートルの区域を占めた離宮がつくられた。池は東西6町、南北8町あり、池に数個の中島が浮かんでいた。白河院が自慢にしていた庭園で、池を中心に南殿、北殿などの住宅と[安楽寿院]]などの堂塔が同居した浄土形式の構成であった。この浄土形式の建築と庭は、12世紀初期には京都より遠く離れた東北の平泉に造られ、今も庭園の遺跡をとどめている。藤原基衡のつくった毛越寺は比較的原形をとどめ、新たに石組みも発掘されている。また基衡の夫人がつくった観自在王院、娘のつくった白水阿弥陀堂は、庭園を発掘復原して公開されている。

初めて武家政治を打ち立てた源頼朝も、鎌倉に浄土式庭園の形式を受け継いだ、永福寺の庭を造っている。13世紀初めには京都の北西に西園寺公経が西園寺をつくったが、これも寺といいながら公経の別荘でもあった。大きな池を中心に多くの御堂と住宅が配置されたもので、14世紀末に将軍足利義満のものとなって北山殿と呼ばれ、有名な金閣が建立された。義満の死後、鹿苑寺(金閣寺)となっている。

[編集] 禅院の庭

12世紀末、より禅宗が伝えられたが、同時にもたらされた禅宗寺院の様式や庭園は、1世紀を経てようやく日本的に消化され、定着するようになった。この中心人物が夢窓国師であった。夢窓国師は自然を愛好し、行くさきざきに名園を造った。なかでも西芳寺の庭は、禅宗の世界観で構成された傑作である。この庭園が以後の庭園に与えた影響は測り知れないほどである。寺は山の麓につくられ、池と、その上の山の斜面を利用した禅堂の庭とに分けられる。またこの禅堂より山に登る道があって、頂上に縮遠亭という休憩所があった。頂上からは桂川周辺を展望しようとし、池辺の2層の舎利殿からは庭園を見下ろそうとする構想で、両者は同一の考えから出た、立体的な構想力を示したものである。池には3つの島があり、小島には白砂が敷かれ松が植えられ、亭があった。池の3面の花木は2段に刈り込まれていた。池の周辺には2層の舎利殿のほかに、釣寂庵、湘南亭、潭北亭、貯清寮、邀月橋、合同船があった。広さに比して建築的要素の多い庭といえよう。この邀月橋は亭をもった亭橋で、これを渡ると長鯨にのって大海に浮かんだようだといわれた。向上関より石段を上がった所に指東庵という禅堂がある。この山腹に巨石を組み、滝を象徴している。ここは『作庭記』にいう山里の景に似ながら、きびしい禅の世界を思わせる。禅堂の前庭として非常に相応しい環境の構成であり、石組みの最高峰といえる。夢窓国師が庭園を造るときは、それは遊興のためではなく修行の一部であり、庭園をつくるために田畑をつぶす苦しみを述べた記録も残されている。他の一流芸術に匹敵する庭園は、こうした心のあり方から生まれたともいえる。この石庭は枯山水として知られているが、これ以来、書院の庭としてこの石組みが発展した。

龍安寺の砂庭式枯山水
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龍安寺の砂庭式枯山水
太山寺安養院の枯池式枯山水
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太山寺安養院の枯池式枯山水

14世紀末頃から、五山を中心に禅僧たちの間に文学が隆盛し、また宋から水墨山水画が伝来し、公家をも含めた詩会のためのサークルをつくっていた。このサークルの場として禅寺の書院が使われることが多く、したがって書院の庭が当然発達することになった。この小さい書院の前庭としての狭い空間に、自然の山水を凝縮したような庭をつくりだした。これは水墨山水画と根底を等しくするものであった。岩石を2つ3つ組んで山あるいは滝を表し、砂で川や海を象徴しようとした。代表的な実例が、大徳寺塔頭大仙院の書院の庭である。また、これ以上省略できないというところまで材料を単純化した竜安寺の庭のような傑作まで造られた。大仙院の庭は書院の東側にあって、100平方メートル余の平面に岩石を立て、刈込みを配して岩山として2段に滝の石を組み、白砂で表した流れには石橋を架け岩島を設けた。石堰を横たえた下流には石橋を浮かべている。すべて山水画と相通ずるものがある。書院には縁があって庭園との連帯感をもち、座敷あるいは縁に座して庭園を観賞するように造られている。大仙院や竜安寺の庭はともに枯山水といわれ、白砂で水の流れを象徴するところに特徴がある。庭園には水が不可欠のものであるという考えが根底にひそんでいる。庭園のことを山水といったのもそのためである。

[編集] 茶庭の発生

15世紀の後半より京都、の町衆の間から「下々のたのしみ」としての茶の湯が流行した。を飲み茶器を鑑賞しあうことで、主客の融合をはかったのである。千利休の晩年にいたって草庵風の茶は完成されたが、田園的・山間的情趣を表現の主題とし、茶室は農家の藁屋を、茶庭は山寺への道の趣を表そうとした。植木は山にある常緑樹を用い、剪定は最も戒められた。里にある木も植えず、人工を避けできるだけ自然に、山の趣を出そうとしたのである。茶庭の骨組みをつくっているのは、飛石と手水鉢である。後には石灯籠が夜の茶会の照明として据えられるようになった。茶庭に使われる手水鉢や灯籠は、新しくつくるよりは既存のものが好まれた。廃絶や改修で不要になった橋脚や墓石などが茶人に見立てられて、茶庭の重要な見どころとなった。長いあいだ風雨にさらされていると風化してが生える。その侘びた姿が好まれたのである。茶庭はまた露地ともいわれ、茶室への「みち」を意味している。露地は茶室への道であって、飛石をつたって歩くようにできている。あくまでも歩くための庭であって、見る要素は少なかった。町衆の人々に育まれた茶の湯が、千利休の弟子の古田織部小堀遠州のような武将の手に移るころには、かなり内容が変化している。露地は、広い大名屋敷内につくられた関係もあって広くなった。大きな露地は途中に垣根を一つ二つつくって変化をつくり、また見る要素を強くするようになった。平庭に近かった露地に築山をもうけ、流れや池までもつくり、また石灯籠が重要な見どころとなったのもこのころである。ここに寝殿造風な庭園の伝統や書院庭の石組みの流れと触れあう面があった。この合流点に立った人物は小堀遠州であり、庭園としては桂離宮の庭園が現存する。

古田織部や小堀遠州の茶は、千利休の茶に比べると作意が強いといわれる。千利休が作意をも自然らしさの中に含みこもうとしたのに対し、古田織部は作意を表面に押し出した。古田織部は飛石や畳石を打つとき、大ぶりなもの、しかも自然にあまり見られない異風なものを探し求めたのである。それまで飛石には小さい丸石を使っていたのを、切石の、しかも大きいものを好んで使った。なかでも古田織部が考案したと伝えられる織部灯籠のきりっとした形は、古田織部の作風を想像させるに十分である。小堀遠州は古田織部の作風を受け継ぎ発展させた。古田織部の作意が主として陶器の方に向けられたのに対し、小堀遠州は建築と造園へより集中した。小堀遠州の著しい特徴は、庭園に直線を導入したことである。 桂離宮の輿寄の「真の飛石」が小堀遠州好みと伝えられたのも故なしとしない。種々な形の切石を組み合わせた大きな畳石と正方形の切石を配置した空間構成は、以前には見られないものであった。直線に使った長い畳石は桂離宮内の諸所に見られる。特に松琴亭前の反りのない石橋は圧観である。

[編集] 回遊式庭園の流行 - 大名庭

二条城
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二条城

17世紀初め、徳川家康が政権をとって以来、諸大名を統制するために参勤交代という制度を考えだした。このために大名たちは江戸と領国の両方に庭園をもつ邸宅を構えた。江戸に造られた庭園の中で、最も有名なものの1つに小石川後楽園がある。小石川後楽園は徳川光圀朱舜水を招いて設計に参加させたといわれており、中国的、儒教的な趣好が濃厚である。池のまわりを回遊して観賞するように造られ、庭園内の景観として自分の好む名勝地をモチーフとしたものが配された。それらはいずれも庶民の遊観所で、また中国の文人たちが好んで歌った西湖廬山もとり入れている。こういう景観をひきしめるためにも、また利用上からも、休憩所としての茶屋や御堂を建て、これらの建物と庭景観とで局所局所をまとめ、順路にそって回遊するようにできている。時間とともにつぎつぎと展開されていく変化の多い景観は音楽に比較される。広々した池面に出る前に必ずうっそうと茂った木立を通り、山々を通りぬけるときも変化にとんだ建物や橋で飽かせることがない。

17世紀も中期になると町人の文化が栄え、華やかな風潮が支配する時期を迎えたが、庭園も広い芝生をとった明るいものになった。中世のように池泉にも石組みを多く使わず、石を使うときも、捨石といって要所に1個だけを捨てたかのように配することが行われた。丸みのある石が好んで使われたのはこの頃である。

18世紀初期に岡山藩池田綱政が岡山郡代官津田永忠に命じて14年の歳月をかけて作らせた岡山市後楽園(当時「茶屋屋敷の庭」とも言われた)は芝生と池を主とした開放的な空間創りが心地よい庭で、現在日本三名園に数えられている(他の2つは金沢の兼六園と水戸の偕楽園)。四国高松市にある栗林荘もやはり大名の別荘である(栗林公園)。この栗林荘を造営した松平氏水戸徳川家を継いだとき、同家の小石川後楽園を当世風に大改造し中国風をやわらげたのも、同じく18世紀初期の頃であった。同時期に柳沢吉保が造らせた江戸の六義園は、和歌趣味にあふれた明るい庭として知られる。

18世紀後半になると2つの特徴が現われた。1つは著しい園芸の流行である。江戸ではある地域一帯に植木屋が軒を並べて花園を開放し、江戸市民の名所になった。これが大名の庭園にも入って、小石川後楽園が再度改造され庭園内に草花が植えられた。また、江戸の隅田川東岸の向島に町人が造った百花園は草花ばかりの庭園であり、しかも営業として成立したのであった。もう一つの特徴は、大名庭で庶民に開放されるものがでてきたことである。水戸の偕楽園白河の南湖がそれである。庶民といっても一般大衆すべてとはいかなかったが、近代の公園へ結びつくものとして重要である。

[編集] 明治から昭和へ

慶雲館本庭
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慶雲館本庭

明治になると、西洋の影響で生活様式や建築が変わり、それにつれて庭園にも新しい動きがみられた。旧大名や政府の高官、新しい実業家たちが大庭園をつくった。芝生を広くとった明るい庭で、ここで園遊会が行われた。芝生の間をゆるいカーブの園路がめぐり、自然主義の庭園といわれる、雑木の多い森と人工とも思われない池をもつ明治神宮内苑は、自然味ゆたかな心の休まる庭であり、山県有朋1896年京都南禅寺の西に造った無鄰庵もその代表的なものである。さほど広くない敷地をうまく使って東山借景とし、疎水からひいた流れが芝生の間をぬっている。施工にあたった小川治兵衛は、その後、南禅寺近辺に野村碧雲荘、平安神宮神苑、大阪の住友家庭園(慶沢園)、長浜慶雲館本庭など数々の名園をつくった。植治の流れは岩城亘太郎に受け継がれている。

大正から昭和にかけては小庭園時代に入っていった。小庭園では自然主義的な庭は困難で、写景でなく、自然の景趣を写そうとするもので、作庭者の主観の強い造形的、装飾的な庭園となった。画家の山元春挙と造園家の本位政五郎が造った大津市の蘆花浅水荘は文人風の庭といわれ、これを継いだという小島佐一にも京都市の川田邸の庭がある。大正期には造園学が興り庭園協会を中心に古庭園の研究、新しい庭園を模索した。昭和に入ってからは、2つの目立った動きが登場した。1つは寺院に多くの枯山水をつくった重森三玲であり、自然主義的な庭園を批判して象徴的な庭園を打ち立てた。もう1つは昭和の初め頃に飯田十基が推進した雑木の庭で、その後に小形研三に継がれ、都市の人工化とともに急成長していった。第二次世界大戦後、建築が近代化するにともない、公共建築の庭園、公共の庭園へと発展していった。中島健による日本芸術院会館の庭園、池原謙一郎による入谷町南公園などがそれである。

[編集] 形式

[編集] 日本の名園

他、著名な日本庭園を参照

[編集] 世界の名園

[編集] 関連項目

[編集] 関連書籍

  • 『古代庭園の思想―神仙世界への憧憬』金子裕之編 角川選書 角川書店 ISBN 4047033391


 美術芸術文化

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