前漢
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前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は劉邦によって建てられた中国の統一王朝。中国では西漢と呼ぶ。都は長安。
漢は元々は四川省の一地方をさす言葉であったが、劉邦がそこに封じられ、やがて天下統一したことから、地方名から中国全土、さらには中国人・中国文化そのものをさす言葉になった。
前漢は、漢王朝と総称される一連の王権のうち、成立から王莽による簒奪までを指し、光武帝による再興から魏朝に滅ぼされるまでを後漢と呼ぶ。ただし、中国においては、その都の位置からそれぞれ西漢(長安)、東漢(洛陽)とする呼び分けのほうが一般的である。
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[編集] 歴史
東周 | ||||||
前漢
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中華民国(台湾) (参考: 台湾問題) |
[編集] 建国
秦代末期の悪政に反発して陳勝・呉広の乱が起きると全国に飛び火し、騒乱状態となった。その中で台頭したのが項羽と劉邦である。秦が滅びた後はこの両者の争い(楚漢戦争)となり、当初は劉邦が圧倒的に不利であったが、項羽の戦略的・政略的な失敗に乗じて劉邦が項羽を滅ぼし、前漢を建国した。
8年に及ぶ騒乱状態が続いために建国当初の漢の国力はあまり奮わず、匈奴の侵略に悩まされ、一時は劉邦自身が包囲攻撃される危機を迎えた。また全国を完全な統制の元に置く事は不可能であると見切り、郡国制を採用して各地に王を封じた。
劉邦死後、劉邦の皇后であり、二代目恵帝の母である呂后が権力を握り、呂氏一族を王位につけて専権を奮ったが、呂后死後に陳平や周勃らにより呂氏は皆殺しにされて、文帝が即位した。
文帝・景帝は外征や公共工事を差し控え、戦乱によって衰えた民力の回復を図る。この結果、食べきれない食料で倉庫は溢れ、銅銭に通した紐が腐ってしまうほどに国庫に積み上げられたと言う。この二人の皇帝の治世を称えて文景の治と呼ぶ。
景帝は国力が回復すると共に、全国の王の権限を削って中央集権へと移行する事を考えて、晁錯を採用して王たちの権限と領地を削る布告を出した。これに反発した諸王は呉王の劉濞を頭領にして呉楚七国の乱を起こした。この乱は周勃の子の周亜夫の活躍などによって鎮圧される。この結果により、中央の思惑通りに集権化が進んだ。
[編集] 全盛
7代目武帝は文景の治による国力の充実を基盤にして建国以来の悲願である匈奴攻略を試みた。李陵、衛青、霍去病、李広利らの将軍を遣わし、打撃を試みたが、決定的なダメージを与えることはできなかった。しかし、匈奴はその後、漢との抗争、内紛から疲弊し、分裂してその勢力は衰えた。また西域・南越・朝鮮なども征服し、朝鮮に楽浪郡などの四郡を置いた。
内政面では五経博士を置いて儒教を国教化し、郷挙里選制度を始めた。
これらの武帝の政策により、中国の領域と儒教を中心とした政治など清代まで続く中国と言う物の骨子が作られた。
しかし武帝時代も後半になると長年の遠征と武帝自身の奢侈により財政は悪化し、それを補うために塩・鉄・酒の専売制を始め、増税も行った。
[編集] 宣帝時代
武帝の死後は霍光が権力を握り、専権を奮った。霍光の推薦によって皇帝となった宣帝は霍光死後に霍氏一族を皆殺しにして権力を握った。宣帝は貧民の救済・税の削減などを行い、疲弊した国力を回復させた。
また外征面では西域都護を創設し、匈奴を圧迫した。この影響を受けた匈奴は南北に分裂し、南匈奴は漢に対して保護を求めてきた。これ以降の匈奴は今までのような圧倒的な脅威ではなくなった。
これらの治世により、宣帝は中興の祖と称えられる。
[編集] 滅亡
しかしその後は暗愚な皇帝が続き、帝権は次第に弱くなり、豪族の政治への容喙が多くなる。また儒教への過度の傾倒から、現実の政治とはまったく関係の無い事柄に時間と費用を使う事も多くなる。最後は豪族を代表する外戚の王莽によって簒奪されて滅んだ。
[編集] 政治
漢王朝の支配は武帝期には朝鮮から中央アジア、モンゴルからベトナムにまで及び、朝鮮やベトナムに関しては一時期直轄支配を布いていたが、それ以外の時は華北が漢の領域のほとんどであり、他は現地の有力者を王侯に封建して治めさせる外藩と呼ばれる間接支配に過ぎない。
漢の政治は厳しすぎる秦の政治を少し緩やかな物に改めたと理解されることが多いが、実際の制度はそのほとんどが秦から受け継いだ物であり、基本的には秦と変わりないと言える。前漢初期の緩やかな統治はあくまでそれだけの力が中央政府に無かったからであり、文景の治で国力をつけて以後は中央の統制が強くなった。
[編集] 官制
漢の中央官制は三公の下に諸卿(九卿)と呼ばれる諸部署が配置されている。(括弧の中は改名とその時の年代)
- 三公
- 諸卿
- 治粟内吏(→大農令(紀元前143年)→大司農(紀元前104年))
- 大蔵大臣。
- 廷尉(→大理(紀元前144年→廷尉紀元前135年)
- 司法の最高位。
- 典客(→大行例(紀元前144年→大鴻臚(紀元前104年))
- 典属国(紀元前28年に大鴻臚に吸収合併される。)
- 典客は諸侯・王への対応を行い、典属国は異民族などの属国に当たる。合併後は大鴻臚が両方を管轄する。
- 中尉(→執金吾(紀元前104年))
- 首都の治安維持。
- 少府
- 宮中における財政・文書・後宮の管理。
- 奉常(→太常(紀元前144年))
- 宗正(→宗伯(4年))
- 皇帝の家族・親族や外戚に関する事柄の管轄。
- 朗中令(→光禄勲(紀元前104年))
- 皇帝の警護など。
- 衛尉(→中大夫令(紀元前156年)→衛尉(紀元前142年))
- 宮中警備。
- 太僕
- 皇帝の車馬の管理。
- 治粟内吏(→大農令(紀元前143年)→大司農(紀元前104年))
これらの役職は二つに分類できる。本当の意味での行政機関と、皇帝と皇族・外戚・宦官などを管轄する皇帝に関する諸事のための役職である。武帝末期からこの両者の間での対立が見られるようになり、前者を外朝・後者を内朝と呼ぶようになった。この争いは霍光により後者の勝利に終わり、前漢末期の政治は外戚・宦官などが勢力を伸ばす事になり、王莽の簒奪へと導かれる事になる。
これに対して地方制度は郡国制と呼ばれる。この制度は全国を郡と県に分けて直接統治をする一方でその中に皇族の諸侯王を作り、いざと言う時の藩屏とする政策である。しかし文帝期からはこれらの諸侯王の権力・領土があまりにも大きくなりすぎたために中央政権の安定と言う観点からは問題が出てきた。そこで諸侯王の権力を削る事を進言したのが文帝期の賈誼と景帝期の晁錯であり、これが呉楚七国の乱に繋がった。
乱の終結後、諸侯王の領地における行政権を取り上げて、中央が派遣する官僚に任せ、諸侯王は単に領地から上がる税を受け取るだけの存在へと変え、これにより諸侯王の力は大幅に削られた。しかしその後も中央に対して反抗的な態度に出る諸侯王が絶えなかったために紀元前127年に諸侯王の位がそれまでは太子一人に継承されていた物を男子全てに分割して継承する「推恩の令」を出した。この案は元々賈誼が考えた物であったが、武帝期になってようやく実現され、この令によりほぼ諸侯王が中央政権を揺るがす心配は無くなった。これらの政策によりほぼ郡県制と変わりは無くなった。
郡県の頂点に立つ郡の長官は守(太守)と呼ばれ、その下に副長官である丞と軍事担当の尉(都尉)が置かれる。郡の下に県が置かれ、長官が令・副長官が丞・軍事担当が尉と言う。これらの役職は中央からの派遣であり、その下に現地採用の官吏が置かれる。県の下には郷と呼ばれる組織が置かれて村落の自治組織となっている。更にその下に最小単位の里が置かれる。
しかし武帝時代末期には、重税と商人に対する弾圧政策に不満を持つ人々が盗賊化する傾向が強くなり、それらが郡を襲って太守を殺したり、あるいは太守と結託する事もあった。これらの監視のために紀元前106年に全国を13の州に分けて、その中の監視を行う州刺史が創設された。
漢代の地方制度も参照。
[編集] 採用制度
武帝以前の官吏採用制度は任子制と呼ばれる。ある一定以上の役職にある官吏の子を採用する制度である。
その一方で諸侯王・郡守などが地方の才能・人格に優れた人材を中央に推薦する制度も併せて行われていた。これが武帝期になって郷挙里選制となる。その推薦する基準には賢良(才能がある)・方正(行いが正しい)・諫言(上の人間に遠慮する事無く進言できる)・文学(勉強家である)・孝廉(親に対して孝行であり、廉直である)などがあり、これによって採用された人材を賢良方正と呼ぶ。これら賢良方正は首都長安にある太学と呼ばれる学問所に集められて五経博士による教育を受けて、官僚として巣立っていく事になる。
しかしこの制度はまず初めに有力者の推薦を必要とするので、次第に推薦されるのは豪族の子弟達だけになっていき、豪族が権力を獲得するための道具に利用されるようになっていった。後漢になるとその傾向はますます強まり、宦官と豪族達との争いを引き起こすことになる。
[編集] 爵位
漢の爵位は秦の物を受け継いでおり、最低の1位・公士から最高の20位・徹公(列公)までの全部で20段階ある。元は徹公の名前だったが、武帝の諱が徹であるため同意の列に変えられている。この爵位は7位までは一般民衆にも授けられる物で年を取るごとに爵位を与えられる。この目的には郷里(行政単位。上の官制を参照)の秩序の為に人民の階級付けをしたのである。
[編集] 元号制
史上初の元号は武帝期の紀元前113年に銅鼎が発見された事からこの年を元鼎4年としたのが始まりとされる。武帝は遡って自らの治世の最初から元号を付けている。この制度は中国では中華人民共和国により廃止されるまで続き、朝鮮・日本など周辺各国でも採用された。
[編集] 経済
[編集] 抑商政策
戦国時代から商人の活動が活発化しており、文帝期には商人たちの強すぎる経済力が問題になっていた。文景の治の時代は理想の時代の様に称されており、国家財政が好転した事は事実なのだが、それと同時に民間商人の経済力も飛躍的に伸び、富の偏重・農民が商人に転職する事が増えた事による農村人口の減少・中小農民の窮迫など数々の社会問題が表面化してきた。これらの商人は経済力を元に窮迫した農民達から土地を買い取り、農民達を小作農として囲い込み、地方に強い力を持って豪族化して行った。
これらの勢力を抑えるために前漢では度々抑商政策を取っており、後述する税制上での差別や身分制に置ける差別政策を行ったが、あまり効果は無かった。晁錯は抑商政策の一環として穀物で税を納めた者に爵位を与えると言う政策を提案した。それまでの税は銭で収めることになっていたが、農民達の収入は当然穀物であり、徴税期に一斉に農民が穀物を売りに走る事で商人に足元を見られて買い叩かれていたのである。この策により商人が積極的に穀物を買い求めて、農民に金銭が多く入り、窮迫する事を防ごうとしたのである。最高では18位の高位まで得ることが出来たので、この政策は効果を上げた。
抑商政策で最も特筆すべきは武帝期の均輸・平準法である。これらの政策は武帝の元で経済的手腕を振るった桑弘羊が実施した物である。均輸法は全国の物価を調査して安い所の物を買い、高い所で売り払う事で国家収入と共に物価の地域格差をなくす事を図る物である。平準法は安い時期に物資を買い込んで国庫に積んでおき、それが高騰した時に売り出して国家収入と共に物価安定を図る物である。この政策には物価の安定と共に商人が物資の取引に介在することで商人に利益を与える事を防ぐ目的がある。この政策はかなりの効果を上げ、相当額が国庫に流れ込んだ。
しかし、これらの抑商政策にも関らず、土地の兼併化と富の集中は覆せず、豪族の力は増していく事になる。
[編集] 税制
税の徴収は人頭税・土地税・財産税の3種類に分かれ、更に労働税として兵役と徭役がある。人頭税には16歳から56歳までの男女に付き年間120銭=1算を収める口算と7歳から14歳までの男女に付き20銭を収める口賦がある。財産税は咨算と呼ばれ、財産1万銭に付き年間1算を収める。口算と咨算を合わせて算賦と呼ばれる。また商人は口算を2倍を収めねばならない。土地税は収穫高の30分の1を収めることになっていたが、この税額は極めて薄く、時にこの税は廃止されたこともあるので国家財政の主要な部分は占めていなかったようである。
労働税は年間に決まった期間を労働あるいは周辺防衛に費やす事を義務付けられいたが、300銭を収める事で労働を逃れる事が出来た。この銭の事を更賦と呼ぶ。
武帝期になると相次ぐ遠征費用を捻出するために算緍銭(緍は糸偏に昏)と言う税を付け加えた。これはそれまでの咨算の額を引き上げて、商人には財産2千銭に付き1算(一般民衆の5倍)を商工業者には4千銭に付き1算(一般民衆の2.5倍)を課すものである。またそれとは別に個人が車と船に対する税・算車令と算船令を出し、更に口賦の額を3銭引き上げて23銭とした。
この増税は主に商人が対象であり、前述の抑商政策の一環でもある。またこの令には罰則があり、財産を偽って報告した物は財産を没収の上に国境警備へと強制的に回されると言う非常に厳しい物である。この増税策により相当な額が国庫に流れ込み、武帝の政策を支えたが、その一方で破産した商人達は地方の窮迫農民と手を組んで盗賊行為を働くようになり、武帝末期の社会不安の主要素となっている。
[編集] 専売制
武帝期の紀元前119年に始まった塩鉄専売制は国家財政の非常に重要な位置を占めており、武帝末期には既に必要不可欠の物となっていた。塩も鉄も製造には厳重な監視が付いており、その産物は全て国家が買い取り、密造は厳罰に処せられた。塩製造を管理する官吏を塩官と呼び、鉄の方は鉄官と呼ぶ。
武帝死後に「民衆と利益を争うのは儒の倫理に反する」として専売制の廃止が話し合われた事があった。この議論の模様は後に『塩鉄論』という書物に纏められるが、この実態は内朝の代表である霍光が外朝の代表である桑弘羊を追い落とすために画策した物であった。桑弘羊はこれに反論して退けるが、この事は儒教の勢力がそれほどに強くなった事を示す事でもある。その後、桑弘羊は別件で殺されるが、霍光政権下でも廃止される事はなかった。
その後の11代元帝期になると儒教の信奉者である元帝の意向により、一時期廃止された。しかし財政が立ち行かなくなることが明らかであり、すぐに戻された。
[編集] 文化
[編集] 思想
前漢の成立から景帝期までは黄老の道と呼ばれる道家と法家の混交思想が主要な地位を占めており、皇族の間でもその信奉者が多かった。政治においてもそれは反映されており、文景の治の政治は道家思想が元になっている。その一方で賈誼・晁錯などの政策は刑名の学と呼ばれる思想を元としている。こちらはほぼ法家そのもである。前漢初期の思想はこの2つが主である。
武帝期になると儒教の重視が掲げられ、五経博士が置かれた事は既に述べている。
元帝は特に儒教に傾倒した事で知られ、儒教典礼の改革を推し進めた。元帝の治世の時期に初めて儒教が名実共に国教の地位を得た。更に紀元前26年には劉向・劉歆親子により、儒教のテキストが纏められて、『春秋左氏伝』が新たに重要な地位を占めるようになる。
仏教については哀帝の紀元前2年に伝来したと言うのが諸説の中で最も早い説として取り上げられているが、この時期には社会に対しての影響はまったくないと言っていいだろう。
[編集] 文学
この時代の文学はほぼ漢詩と歴史のみであり、その他の分野は誕生していない。
歴史の分野で真っ先に取り上げるべきは何と言っても司馬遷の『史記』である。二十四史の第一であり、後世の歴史を志す者で『史記』を読まない者は皆無と言える。『史記』は最初は司馬遷の個人の著書として書かれた物であるから、後の欽定史書と違い自由に司馬遷の思想が表われている事から歴史書としてだけではなく、文学作品としても高い評価がある。
『史記』以外では陸賈『楚漢春秋』、劉向『戦国策』『新序』『説苑』などが挙げられる。
漢詩はこの時代にはと詩と辞賦に分類される。詩は『詩経』から興った物で四言・五言・七言などの形式のものである。この分野としては楽府詩と呼ばれる物がある。楽府とは元々音楽を司る役所の事であるが、この役所に詩が集められるようになり、更にはそれを模倣した詩が盛んになった。代表としては『艶歌羅敷行』などがある。
一方の辞賦は『楚辞』から興った物で、散文的な詩の事を言う。この作品としては賈誼『屈原原賦』(くつげんをとむらうのふ)・武帝『秋風辞』・司馬相如『上林賦』などがある。
[編集] 国際関係
[編集] 西域
匈奴については上の歴史の項で述べる。
紀元前139年に武帝は張騫をソグド地方にいた大月氏に派遣して匈奴の挟撃策を説くがこれは受け入れられなかった。しかしこの張騫の大旅行により、それまで判然としていなかった西域の情勢が判る様になり、これ以降は漢の視野に西域経営が入ってくることになる。
張騫以後は大宛(フェルガナ)・大月氏・安息(パルティア)・身毒(インド)などの西域諸国との交易が始まり、西方からブドウ・ザクロ・ウマゴヤシなどが輸入されて、漢からは絹織物が輸出された。いわゆるシルクロードである。
武帝は西域諸国の中でも匈奴に属していた楼蘭・姑師を服属させるために紀元前108年に遠征軍を出し、更にその後も2回に渡って姑師へ遠征している。また大宛の汗血馬(血の汗を流すと言われる種類の馬。すばらしく速いとされる。)を得るために李広利将軍を遠征させて、苦戦の末に大宛を服属させている。
西域都護を創設した頃になると匈奴が分裂した事もあり、ほぼ西域の平定事業は完成した。その後は前漢の最後まで安定期が続いたが、王莽の異民族対策が失敗したことでこの地方はしばらく漢から遠のくことになる。
[編集] ベトナム・南西部
始皇帝はベトナムに遠征軍を送ってここを直轄領としたが、秦滅亡後にはこの地に漢人趙佗が自立して南越国を建てた。劉邦の時代には南越王に冊封して懐柔していたが、その後何度か反乱を起こしていた。
これに対して武帝は紀元前111年に南越の内紛に乗じて遠征軍を送り、南越を滅ぼして直轄領にした。これ以降10世紀の呉朝成立までの長い期間、ベトナムは中国の支配下におかれることになる。
南西部には夜郎自大の言葉で有名な夜郎(貴州省)や滇(てん、滇の字はさんずいに真、雲南省)などを初めとした群小国が多数あり、この地の民族に漢の官吏が殺された事を契機としてこの地方の民族を解体して直轄支配に置いた。しかし夜郎と滇には王号を与えて外藩とした。
[編集] 朝鮮
朝鮮に関しては前述した通りに衛氏朝鮮を滅ぼして、紀元前108年に朝鮮半島北部に四郡を置いた。
- 楽浪郡(現在の平壌付近→313年に高句麗に滅ぼされる。)
- 玄菟郡(現在の咸鏡南道咸興→遼東半島→撫順→315年に高句麗に滅ぼされる。)
- 真番郡(楽浪郡の南。正確な位置は不明。→紀元前82年に廃止)
- 臨屯郡(咸鏡南道の南部から江原道にかけて→紀元前82年に廃止)
四郡は高句麗の興起するにつれて保持することが難しくなり、玄菟郡が高句麗に滅ぼされたのを最後に中国による朝鮮半島北部の直轄支配は終わる。
日本列島は楽浪郡を通じてこの時代から中国との交流があり、稲作、製鉄、文字など、様々な技術文化が日本にもたらされた。
[編集] 前漢の皇帝
- 高祖(劉邦、在位紀元前206年 - 紀元前195年)
- 恵帝(劉盈、在位紀元前195年 - 紀元前188年)高祖の子
- 少帝恭(劉恭、在位紀元前188年 - 紀元前184年)恵帝の子
- 少帝弘(劉弘、在位紀元前184年 - 紀元前180年)恵帝の子、少帝恭の弟
- 文帝(劉恒、在位紀元前180年 - 紀元前157年)高祖の子、少帝弘の叔父
- 景帝(劉啓、在位紀元前157年 - 紀元前141年)文帝の子
- 武帝(劉徹、在位紀元前141年 - 紀元前87年)景帝の子
- 昭帝(劉弗陵、在位紀元前87年 - 紀元前74年)武帝の子
- 宣帝(劉詢、在位紀元前74年 - 49年)武帝の曾孫
- 元帝(劉奭、在位紀元前49年 - 紀元前33年)宣帝の子
- 成帝(劉驁、在位紀元前33年 - 紀元前7年)元帝の子
- 哀帝(劉欣、在位紀元前7年 - 1年)元帝の孫、成帝の甥
- 平帝(劉衎、在位1年 - 6年)元帝の孫、哀帝の従兄弟
- 孺子嬰(劉嬰、在位6年 - 8年)宣帝の玄孫
[編集] 前漢の元号
- 建元(紀元前140年-紀元前135年)
- 元光(紀元前134年-紀元前129年)
- 元朔(紀元前128年-紀元前123年)
- 元狩(紀元前122年-紀元前117年)
- 元鼎(紀元前116年-紀元前111年)
- 元封(紀元前110年-紀元前105年)
- 太初(紀元前104年-紀元前101年)
- 天漢(紀元前100年-紀元前97年)
- 太始(紀元前96年-紀元前93年)
- 征和(紀元前92年-紀元前89年)
- 後元(紀元前88年-紀元前87年)
- 始元(紀元前86年-紀元前81年)
- 元鳳(紀元前80年-紀元前75年)
- 元平(紀元前74年)
- 本始(紀元前73年-紀元前70年)
- 地節(紀元前69年-紀元前66年)
- 元康(紀元前65年-紀元前62年)
- 神爵(紀元前61年-紀元前58年)
- 五鳳(紀元前57年-紀元前54年)
- 甘露(紀元前53年-紀元前50年)
- 黄龍(紀元前49年)
- 初元(紀元前48年-紀元前44年)
- 永光(紀元前43年-紀元前39年)
- 建昭(紀元前38年-紀元前34年)
- 竟寧(紀元前33年)
- 建始(紀元前32年-紀元前29年)
- 河平(紀元前28年-紀元前25年)
- 陽朔(紀元前24年-紀元前21年)
- 鴻嘉(紀元前20年-紀元前17年)
- 永始(紀元前16年-紀元前13年)
- 元延(紀元前12年-紀元前9年)
- 綏和(紀元前8年-紀元前7年)
- 建平(紀元前6年-紀元前3年)
- 元寿(紀元前2年-紀元前1年)
- 元始(1年-5年)
- 居摂(6年-8年)
- 初始(8年)
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『中国史1』山川出版社、2003年。
[編集] 外部リンク
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