露地
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露地(ろじ)とは茶庭ともいい、茶室に付随する庭園の通称である。
![兼六園の露地](../../../upload/shared/thumb/7/71/2002_kenrokuen_hanami_0123.jpg/180px-2002_kenrokuen_hanami_0123.jpg)
本来は路地であるが、江戸時代の茶書『南方録』などにおいてこの「露地」という名称が登場している。これは『法華経』の「譬喩品」に登場する言葉であり、当時の茶道が仏教を用いた理論化を目指していた状況を窺わせる。以後禅宗を強調する立場の茶人達によって流布され、今日では茶庭の雅称として定着している。
[編集] 発生と展開
小間の茶室に付随する簡素な庭園は、広大な敷地を持つ寺院などではなく、敷地の限られた都市部の町屋において発達したと考えられる。こうした町屋では間口のほとんどを店舗にとられていたため、「通り庭」と呼ばれる細長い庭園が発達していたが、さらに茶室へと繋がる通路、「路地」が別に作られるようになった。『山上宗二記』には堺の市中にあった武野紹鴎の邸宅の四畳半の茶室の図が掲載されており、図によればこの茶室が「脇ノ坪ノ内」という専用の通路と「面(おもて)ノ坪ノ内」という専用の庭をもっていたことがわかる。同じころ奈良の塗師松屋松栄が設けた茶室の図には飛び石の記載があり、また待合の原型と思われる「シヨウギ(床几)」の書き入れもある(「松屋茶湯秘抄」)。
千利休の時代には更に茶室の建築が盛んとなったが、当時の数寄者達はこぞって創意工夫をしていたのであり、いわゆる利休風の茶室もこうした状況で熟成された。躙り口の発生に関しても資料が不足しており、流布している利休の創作という主張も確たる根拠があるわけではない。但しこの躙り口によって、それまで中立ちに際しての待合に用いられていた縁側が取り除かれ、腰掛待合が別に設けられるようになった。また手水鉢に代わるつくばい(蹲踞)もこの時期に完成したものと考えられる。
こうした茶室の構造は敷地の広い寺院や武家屋敷にも取り入れられるようになり、中潜りや腰掛待合とつくばいを備えた現在の茶席に見るような様式化した茶庭が成立する。
さらに武家茶道を発達させた古田織部は、鑑賞を重視した茶庭を作っているが、露地にあっても作意の横溢した「織部灯篭」をつくばいの鉢明かりとして据えるなど興趣をこらしている。なおこの織部灯篭は、その竿部分にマリア像らしき像を掘り込んでいることから別名「キリシタン灯篭」ともいい、織部がキリシタンであったとの憶測も呼んでいるが、像がマリアであることも織部がキリシタンであったこともともに確証はない。
織部の弟子である小堀遠州は作庭の名人として知られるが、席中の花と庭園の花が重複することは興を削ぐとして禁止しており、これは以後の茶道界の大部分で慣習となっている。
[編集] 露地(茶庭)の庭園技法
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