旧約聖書
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旧約聖書(きゅうやくせいしょ)は、ユダヤ教およびキリスト教の正典。また、イスラム教においてもその一部(モーセ五書、詩篇)が啓典とされている。その大部分はヘブライ語で記述され、一部にアラム語が用いられている。
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[編集] 様々な呼称
旧約聖書とは、新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』3章14節の「古い契約」という言葉をもとに、2世紀頃からキリスト教徒によって用いられ始めた呼称である。しかし、「古い契約」とは単にモーセの律法契約を指すのではないかとする意見が散見されるようになり、また「旧約」という表現ではユダヤ教徒を刺激することもあって、最近ではユダヤ教聖書、ヘブライ語聖書とも呼ばれるようになった。しかし、ユダヤ教が改宗を積極的に勧めない宗教であることや、日本でのユダヤ教コミュニティの少なさなども手伝ってか、日本語では依然として「旧約聖書」と呼ばれることが多い。
ユダヤ教においては、Torah(トーラー:律法)、Nevim(ネイビーム、ネビイーム:預言者)、Ketubim(クトビーム、ケスビーム、ケトゥビーム:諸書)の頭文字、TNK に母音を付した Tanakh(タナク、タナーク、タナハ、タナッハ)と呼ばれる他、Miqra(ミクラー:朗誦するもの)と呼ばれることもある。ミクラーはクルアーンと語源を同じくする。
[編集] 内容と意義付け
その内容は、律法と呼ばれる祭儀と行動規範の書(律法=モーセ五書)と、神の世界創造に始まり、イスラエルの興廃を中心とする歴史、および将来の救済を予告する預言書、さらにユダヤ教では諸書と呼ばれる詩や知恵文学からなる。ただしユダヤ教では歴史と預言を大きく「預言者(の書)」として扱う。
ユダヤ教にとっては、唯一の正典であり、現在も行動を律する文字通りの法である。また民族の歴史を伝え、イスラエルの地を民族の故地とする精神的な基盤を与え、もって行為と歴史の両面において文化的な一体性を与える書でもある。
対して、将来にユダヤを復興するメシア王を約束する旧約聖書を、キリスト教徒はイエス・キリストの出現を約束する救済史として読む。旧約聖書の代名詞にも使われる「律法」はキリスト教徒の戒律ではもはやないが、キリスト教徒にとって、旧約聖書の完成がイエス・キリストとその使信であり、依然として重要な意義をもっている。
[編集] 旧約聖書の作成の流れと多種多様な信仰について
旧約聖書の各文書が完成されるまでは、断続的ではあるが、長い期間に渡り、多くの人々や学派のようなグループによって各自の新しい信仰を盛り込むために手が加えられ、何度も大きな増補改訂が行われてきた。このため、1つの文書の中で、様々な信仰が含まれ、相反する内容の部分も生じている(中には、一人または少数の人の作成と考えられるものもあるが)。 旧約聖書学は、批判的に、これらの個々の文書の作成過程とその中での複数の作成者たちの各々の固有な信仰を明らかにし、更にその信仰の間の影響関係を研究する学問である。
その研究で明らかになったことは、旧約聖書は、「現在でいう客観的な歴史書」というものでなく、また、「科学的事実を述べる書」でもなく、「信仰の書」であるということだ。「自分は神ヤハウェをどの様に信仰・理解しているか、生きる意味は何々か…」という極めて主観的な「告白の書」である。これは、自分の考えを小説で伝えるのと同じ行為である(勿論、その内容を信仰し信じた上で書いてはいるが)。 現在では、小説⇒事実でない⇒嘘⇒無価値という否定的な考えが強いが、小説でないと伝える事ができない真実もある。この為、「事実か、事実でないか」を論争するのは、旧約聖書の読み方としては、正しい姿勢ではない。事実でなくて真実なことはあり、もっとも重要な事は、「この物語で、この著者は何を言いたいのか?」を考えるべきである。
一つの典型的な例として創世記1章の天地創造の物語を取り上げ考える。 これは、「記述されている物語」は時代が太古の出来事である。しかしこれを記述している著者は、紀元前587年に新バビロニア帝国に敗れ、バビロニアに強制連行された祭祀記者と言われている人々である。その当時の民族の戦いは、民族の神同士の戦いでもあった。具体的には神ヤハウェと新バビロニアの主神マルドゥクとの戦いであり、ユダヤ民族が負けた事は、その神ヤハウェが負けたということになる。 今まで救済してくれた神、エジプトでの奴隷から救い出し約束の土カナンに導いてくれた神はどうなっているのか?本当に負けて逃げてしまったのか? この様な今までの救済信仰が崩れ去る、ユダヤ民族の信仰の危機に陥っていた時に書かれたのが天地創造 物語である。この物語で主張しているのは、「この全世界のものを創造したのは神ヤハウェであり、ネブカドネツァル王さえも神が創造し、人間には分からないが神の深い意図の下で行動しているのだ」ということであり、この創造信仰がその後のユダヤ民族に生きる力を与えることになった。 この捕囚というユダヤ民族が滅びる瀬戸際で、神ヤハウェは「生めよ殖えよ。地に満ちよ。」と言って下さる。
#以上のような見解は、JEDP学説という一つの学説に基づくものであるが、最近ではこの学説にも多くの問題点が指摘されているため、一つの学説に過ぎないことを明記する。 旧約聖書内では、エジプトからの脱出時に神ヤハウェとイスラエルが交わした律法契約をイスラエルが破ったことで、神ヤハウェはイスラエルの保護をやめ、民をバビロニア帝国に渡されたことになっている。尚、旧約聖書内ではイスラエルの民が律法契約を幾度も破り、その度に痛い目を見ては、預言者達に諭されて改心するという描写がある。
[編集] 正典化の過程
「モーセ五書」は、紀元前4世紀頃には正典的な権威が与えられていた。「ヨシュア記」「列王記」に至る4書は、その後まもなく正典的な扱いを受けた。これをユダヤ教では「前の預言書」という。
「後の預言書」「諸書」は、捕囚期から紀元前4世紀頃の部分も含んでおり、紀元前2世紀頃に正典的な地位が確立された。最終的には、1世紀の終わりごろユダヤ教においてキリスト教を排斥したヤムニア会議で正典を確認した。このヘブライ語本文を、8世紀以降、マソラ学者が母音記号等を加えて編集したものがマソラ本文で全24書である。
別に、紀元前250年頃からギリシア語に翻訳された七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)がある。特にパウロを含めキリスト教徒が日常的に用い、信仰を形成したもとになったためキリスト教研究にとって重要であり、また現在の写本に失われたと思われる古い形態を残している点で文献学上も重要である。マソラ本文と七十人訳聖書では構成と配列が異なる。また七十人訳聖書に基づいたラテン語訳のヴルガータでは、収められている文書は同じだが正典を39書としている。
マソラ本文とキリスト教の旧約聖書では巻数が異なる。これは数え方の相違により、七十人訳聖書にある一部の文書を前者が除外することの他、キリスト教が12書と数える十二小預言書(小預言書)をマソラ本文が1書として扱うこと、キリスト教が2書と数えるエズラ記とネヘミヤ記をマソラ本文が1書として扱うことによる。
ユダヤ教の正典は上記のとおり1世紀に決められているが、キリスト教では教派によって異なる。教会内で早くから議論になった新約聖書の正典化と異なり、旧約聖書の正典性について本格的な議論が起こったのは、16世紀の宗教改革以降である。これは西方教会内の論争にとどまり、東方教会には影響を与えていない。たとえば東方正教会は七十人訳聖書に含まれていた文書を正典とする。。カトリック教会も同様であるが、ただしその配列は幾らか異なり、また東方正教会が正典とみなす文書の一部を外典とする。聖公会およびプロテスタント教会はマソラ本文に含まれる文書のみを正典と認めている(後掲の一覧参照)。(プロテスタント諸派が「外典」として排除する書物の一部は、新共同訳聖書では「旧約聖書続編」として扱われている。)
[編集] 旧約聖書の史実性
旧約聖書の多くのエピソード、たとえばアブラハム、モーセ、ソロモン王の物語は、実際にはヨシヤ王(紀元前7世紀)の書記たちが、ヤハウェ信仰を一神教として整理する目的で書いたと一部の聖書学者は主張する。その証拠として挙げられるのは、エジプトやアッシリアなどの近隣諸国が、きわめて多くの記録を残しながら、聖書中の人物や物語について紀元前650年より以前には言及していないことである。当然にこうした人物の実在性も否定される。他の考古学者は、同じ素材を聖書の史実性の証明に用いているが、他の地方での記録は聖書の中の記録と完全に一致するわけではない。
パリのルーブル博物館に保存されている「モアブ碑石」には西暦前900年頃存在したモアブの王メシャの手による戦勝記念碑であり、そこではイスラエルに対する反乱に関する説明があり、「イスラエルの王オムリ」について言及している。
大英博物館に保存されている「テイラー・プリズム」は、西暦前700年以前に存在したアッシリアの皇帝センナケリブの手による年代記であり、そこではユダヤ人ヒゼキヤ王の王国を攻囲したことの言及がある。
とくに創世記の記述に関しては、親子とされている人物の物語が、実際にはそれぞれ違う民族の始祖伝承であり、文書編纂過程で結合された可能性も指摘されている。これは裏返せば、複数の部族連合が統合され、ユダヤ民族というひとつの民族に融合していった可能性を示唆している。
また、新約聖書同様、奴隷制度に対する批判が一切無いのが、この時代の風潮を反映している。
[編集] マソラ本文の配列
以下の区分に従い、分類また配列する。詳細は下記の表を参照のこと。
- 律法(トーラー)
- 預言者(ネビーイーム)
- 前の預言者
- 後の預言者
- 小預言者
- 諸書(ケスービーム)
- 真理(エメス)
- 巻物(メギロース)
[編集] セプトゥアギンタ/ヴルガータの構成
ユダヤ教と若干分類法が異なり、そのため配列も異なっている。「歴史書」はユダヤ教聖書の前の預言者・後の預言者・巻物に対応し、加えてユダヤ教で旧約外典とするものを含む。またユダヤ教で認める書でも「補遺」とされるユダヤ教にない部分をもつものがある。詳しくは下記の表を参照。
(†セプトゥアギンタに含まれない書物、‡ヴルガータに含まれない書物、#東方正教会で正典扱いではない書物*カトリック教会で正典扱いではない書物 “”日本ハリストス正教会における名称)
- モーセ五書
- 歴史書
- うち
- 教訓書(知恵書)
- うち
- 預言書
- 大預言書
- うち
- ダニエル書(“ダニイル書”)
- ダニエル書補遺
- アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌(ダニエル書3章)
- スザンナ(ダニエル書13章)
- ベルと竜(ダニエル書14章)
- ダニエル書補遺
- 12小預言書
- 大預言書
[編集] 諸教派の旧約聖書配列の一覧
ユダヤ教 | プロテスタント | カトリック | 東方正教会 |
---|---|---|---|
律法(トーラー) | モーセ五書 | ||
創世記 | 創世記 | 創世記 | 創世記 |
出エジプト記 | 出エジプト記 | 出エジプト記 | 出エジプト記 |
レビ記 | レビ記 | レビ記 | レビ記 |
民数記 | 民数記 | 民数記 | 民数記 |
申命記 | 申命記 | 申命記 | 申命記 |
預言者(ネビーイーム): 前の預言者 |
歴史書 | ||
ヨシュア記 | ヨシュア記 | ヨシュア記 | ヨシュア記 |
士師記 | 士師記 | 士師記 | 士師記 |
ルツ記 | ルツ記 | ルツ記 | |
サムエル記 | サムエル記上 | サムエル記上 | サムエル記上 |
サムエル記下 | サムエル記下 | サムエル記下 | |
列王記 | 列王記上 | 列王記上 | 列王記上 |
列王記下 | 列王記下 | 列王記下 | |
歴代誌上 | 歴代誌上 | 歴代誌上 | |
歴代誌下 | 歴代誌下 | 歴代誌下11 | |
エズラ記 | エズラ記 | エズラ記 | |
エスドラ記16 | |||
ネヘミヤ記 | ネヘミヤ記 | ネヘミヤ記 | |
トビト記1 | トビト記1 | ||
ユディト記1 | ユディト記1 | ||
エステル記 | エステル記2 | エステル記2 | |
マカバイ記11,5 | マカバイ記11,5 | ||
マカバイ記21,5 | マカバイ記21,5 | ||
マカバイ記36 | |||
マカバイ記46 | |||
知恵文学 | |||
ヨブ記 | ヨブ記 | ヨブ記 | |
詩篇 | 詩篇 | 詩篇9 | |
オデス書6,7 | |||
箴言 | 箴言 | 箴言 | |
コヘレトの言葉 | コヘレトの言葉 | コヘレトの言葉 | |
雅歌 | 雅歌 | 雅歌 | |
知恵の書1 | 知恵の書1 | ||
シラ書1 | シラ書1 | ||
ソロモンの詩篇6 | |||
預言者(ネビーイーム): 後の預言者 |
大預言者 | ||
イザヤ書 | イザヤ書 | イザヤ書 | イザヤ書 |
エレミヤ書 | エレミヤ書 | エレミヤ書 | エレミヤ書 |
哀歌 | 哀歌 | 哀歌 | |
バルク書1,3 | バルク書1,3 | ||
エレミヤの手紙1,8 | |||
エゼキエル書 | エゼキエル書 | エゼキエル書 | エゼキエル書 |
ダニエル書 | ダニエル書4 | ダニエル書4 | |
小預言者 | 小預言書 | ||
ホセア書 | ホセア書 | ホセア書 | ホセア書 |
ヨエル書 | ヨエル書 | ヨエル書 | ヨエル書 |
アモス書 | アモス書 | アモス書 | アモス書 |
オバデヤ書 | オバデヤ書 | オバデヤ書 | オバデヤ書 |
ヨナ書 | ヨナ書 | ヨナ書 | ヨナ書 |
ミカ書 | ミカ書 | ミカ書 | ミカ書 |
ナホム書 | ナホム書 | ナホム書 | ナホム書 |
ハバクク書 | ハバクク書 | ハバクク書 | ハバクク書 |
ゼファニヤ書 | ゼファニヤ書 | ゼファニヤ書 | ゼファニヤ書 |
ハガイ書 | ハガイ書 | ハガイ書 | ハガイ書 |
ゼカリヤ書 | ゼカリヤ書 | ゼカリヤ書 | ゼカリヤ書 |
マラキ書 | マラキ書 | マラキ書 | マラキ書 |
諸書 (ケスービーム) |
|||
真理(エメス) | |||
詩篇 | |||
ヨブ記 | |||
箴言 | |||
巻物(メギロース) | |||
雅歌 | |||
ルツ記 | |||
哀歌 | |||
コヘレトの言葉 | |||
エステル記 | |||
ダニエル書 | |||
エズラ記+ネヘミヤ記10 | |||
歴代誌 |
[編集] 脚注
- プロテスタントの旧約聖書には含まれない。
- カトリックと正教会のエステル記にはプロテスタント版では含めない103節がある。
- カトリックの聖書ではバルク書はエレミヤの手紙という第6章を含む。バルク書はプロテスタントの聖書には含まれない。
- カトリックと正教会ではダニエル書はプロテスタント版にはない3つの章がある。それは「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」「スザンナ」「ベルと竜」である。新共同訳聖書ではこれらを「ダニエル書補遺」としている。
- ヴルガータ聖書ではマカバイ書1・2はマラキのあとにおかれている。
- カトリックとプロテスタントの聖書には含まれない。
- オデス書はマナセの祈りを含む。これはカトリックとプロテスタントにはない。
- 東方正教会の聖書はバルク書とエレミヤの手紙が独立している。
- 東方正教会は詩篇が1つ多い。この1篇はダビデに帰され、カフィズマには含まれない。
- ユダヤ教(マソラ本文)では1書にかぞえる。
- 東方正教会の聖書では、カトリックとプロテスタントにはない「結び」がある。