王維
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王維(おうい、生卒年は『旧唐書』によれば699年 - 759年、『新唐書』だと701年 - 761年。以降の記述は一応『新唐書』に準拠、長安元年 - 上元二年)は、中国唐帝国の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人である。また、画家であり書家でありまた音楽家としての名も馳せた。字は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。太原(現在の山西省太原)の出身。
同時代の詩人李白が詩仙、杜甫が詩聖と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物、孟浩然、柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人である。とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。画もまた鄭虔や呉道子と並び称され、『南画の祖』と仰がれている。
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[編集] 略伝
汾州(山西省汾陽)司馬の王處廉の長男として生まれる。母の崔氏は敬虔な仏教徒で、王維はその影響を強く受けながら成長した。名の維と字の摩詰とは、『維摩経』の主人公である居士の維摩詰の名を分割したものである。幼少から文名を挙げ、15歳ころから都に遊学、皇族や貴族の知遇を得てさらに名声を高めた。721年ころ進士に及第、大楽丞になるも微罪を得ていったん済州司倉参軍に左遷される。程なく中央に復帰、734年(開元22年)には右拾遺に抜擢され、以後監察御史・左補闕・庫部郎中を歴任する。母崔氏の死を受けて服喪後、さらに吏部郎中を経て天宝末には給事中の要職に至った。しかし折悪しくこのとき安史の乱が勃発、王維は賊軍に囚われ強要されてこれに仕えたため、乱の平定後その罪を厳しく問われた。しかし弟の王縉らの取り成しにより、太子中允に降格されただけで許された。王維は、乱の際に「香水銭」と呼ばれる授戒による軍費調達によって粛宗の信任を得た荷沢神会の支持者の一人であった。その後、太子中庶子・中書舎人・再び給事中に累進、尚書右丞として生涯を終えた。画にすぐれ、北宋の蘇軾に「詩中に画あり、画中に詩あり」と称された。
[編集] 詩の特徴
王維の詩の本分は自然詩である。東晋の陶淵明の田園詩や宋の謝霊運の山水詩を受けつつ、よりダイナミックに自然の美を詠う自然詩は王維より始まった。また、深く傾倒した仏教の影響も窺える。
[編集] 著名な作品
鹿柴 | ||
原文 | 書き下し文 | 通釈 |
空山不見人 | 空山 人を見ず | ひっそりとした山に人影もなく |
但聞人語響 | 但だ人語の響きを聞く | ただかすかに人の声だけが聞こえる |
返景入深林 | 返景 深林に入り | 斜陽が深い林の中に差し込み |
復照靑苔上 | 復た照らす青苔の上 | また青い苔の上を照らし出す |
送元二使安西 | 元二の安西に使いするを送る | |
原文 | 書き下し文 | 通釈 |
渭城朝雨浥輕塵 | 渭城の朝雨 軽塵を裛し | 渭城の朝の雨が道の埃を落ち着かせ |
客舍青青柳色新 | 客舎 青青 柳色新たなり | 旅館の柳も青々と生き返ったようだ |
勸君更盡一杯酒 | 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒 | さあ君、もう一杯やりたまえ |
西出陽關無故人 | 西のかた 陽関を出づれば故人無からん | 西方の陽関を出てしまえばもう酒を交わす友もいないだろう |