サンフレッチェ広島
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サンフレッチェ広島(さんふれっちぇ ひろしま、Sanfrecce Hiroshima)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
目次 |
[編集] クラブの概要
1991年Jリーグ加盟。前身は東洋工業サッカー部(その後マツダSC)。ホームタウンは広島県広島市。ホームスタジアムは広島ビッグアーチと県営広島スタジアム。練習は安芸高田市の吉田サッカー公園や広島広域公園第1球技場が使用される。なお、ホームゲームは1993年はメインが広島スタジアムだったが、1994年以後は実質上のメイン(公式な本拠地移転の届出は1996年)は広島ビッグアーチとなった。現在はリーグ戦では主にビッグアーチを、カップ戦(ナビスコ杯、天皇杯)は広島スタジアムで開催することが多い。また1998年の第1ステージ(ビッグアーチの施設・ピッチ改修のため)と、J2に降格した2003年に関しても広島スタジアムが多く使われていた。
チーム名の「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ(複:frecce)」はイタリア語で矢を意味し、戦国大名、毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんでいる。なお、同クラブは現在、エディオン傘下のデオデオの系列となっている。
チームマスコットは、熊をモチーフとした「サンチェ君」。中国山地に生息するツキノワグマにちなんだもので、デザイン的には初代総監督・今西和男をモデルにしている。「フレッチェちゃん」という彼女もおり、こちらの名前は公募で決まったもの。なお、「フレッチェちゃん」が登場した頃から、「サンチェ君」は体型が変わっている。
[編集] クラブの歴史
[編集] 前史
[編集] 東洋工業~マツダ時代
前身の東洋工業は、サッカーどころ広島の戦前からの強豪チームで、1954年には実業団チームとして初めて天皇杯決勝に進出するなど、当時の主要タイトル、天皇杯・全国実業団・国体に常に優勝争いをする強豪チームだった。後身のサンフレッチェ広島を含めると2006年までに、国内最多56回の天皇杯本大会出場回数を誇る。更に決勝進出も12回と単独チームとしては、これまた国内最多である。
1965年創設された日本サッカーリーグ(JSL)にも、スタート時8チームの一つとして参加。縦横無尽のパスワークで攻撃的サッカーを展開、その記念すべき第1回大会を12勝2分け無敗で優勝。第2回大会途中まで23連勝するなど、1968年まで空前絶後のリーグ4連覇の金字塔を樹立し、JSL27回の歴史で最多の5回の優勝を飾った。1968年のメキシコオリンピックにも3人の代表選手を送り日本の銅メダル獲得に大きく貢献した。この後も松本育夫や今西和男、信藤克義など、数々の日本代表を輩出してきた。
初年度1965年は登録メンバー、25人中21人が広島県出身者で固められた。当時は広島・埼玉・静岡がサッカー御三家、と言われたが、広島の高校サッカー御三家ともいうべき、広大附属高校、広島国泰寺高校、修道高校の三校出身者を結集して黄金時代が築かれた。大半が関東大学リーグに行ったが、よく言われる強い郷土意識から地元に戻って来た。Jリーグの理想である「地域で選手を養成して、地域に根ざしたクラブづくり」を日本リーグ創設期に早くも実現していた。
1970年代に入ると他チームの台頭、主力の引退、及び広島サッカーの地盤沈下もありチームも徐々に低迷。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更。1980年代に二度に渡り2部降格。1960年代黄金期の主力選手だった今西和男が1982年からサッカー部副部長・総監督。1984年から監督に就任し、二度目の2部に降格した1988年、ハンス・オフト監督、ディド・ハーフナーをGKコーチに招聘、信藤、猿沢茂、高橋真一郎ら地元選手の頑張りもあり天皇杯準優勝。日本リーグ最終年となった1991年には1部復帰の成果を得て、この年6位で終え面目を保った。
[編集] Jリーグ開幕前
それと平行し、地方のハンデキャップから有力な大学生新人がほとんど来ない(特に地元広島出身の金田喜稔・木村和司らが来なかったことが相当ショックだったようである)ため、無名ではあるが能力の高い高校生を育て鍛えることに方向転換し、今で言うとサテライトに当たる「マツダSC東洋」を設立し、中国社会人リーグに参戦した。1980年代中期以降になると、のちにJリーグ開幕とともに主力となる、前川和也や河野和正、森保一や片野坂知宏、柳本啓成や笛真人らが入団し、マツダSC東洋で経験を積ませた。
また、1987年ごろから指導者の育成にも着手し、指導者同士による4・5人のグループ討論会が義務付け、年に数回はコミュニケーションスキル発達を目指し専門講師を招聘、定期的に指導者による1泊2日の研修旅行、リポートも書かせた。これで鍛えられたのが後にいろいろな場所で監督となる河内勝幸、松田浩、中村重和、小林伸二、望月一頼らである。
Jリーグ参加10チームを決定する時、地域バランスを考慮され参加を強く要請された。プロリーグ設立準備委員会の最終調査報告でも最高点を付けられていた。しかし当時、親会社のマツダは財政的理由から降りようとした。しかし広島県、広島市ほか、地元経済界、地元マスコミ、サッカー関係者、県民、市民合わせての運動で創設メンバーにこぎつけた。この辺りのいきさつは、広島カープに似る。これも広島という土地に輝かしい伝統があったから他ならない。
[編集] 1991~1994年(バクスター時代)
1991年に関西以西、中国地方では唯一Jリーグに参加。サンフレッチェ広島を設立。ドイツ・ブンデスリーガでプレーしていた風間八宏をチームリーダに、無名だが能力の高いパベル・チェルニー・盧廷潤らの外国人の補強、フジタから高木琢也、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。
1992年に、スチュワート・バクスターが監督に就任。その年のJリーグヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位と不甲斐ない成績を残してしまったが、1994年には、高木・前川など日本代表クラスや、チェルニー・盧・イワン・ハシェックらの活躍で、見事サントリーシリーズで初優勝を果たす。しかしチャンピオンシップではヴェルディ川崎に敗戦、惜しくも年間優勝には届かなった。
Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の中盤フラットな4-4-2を採用し、またDFは片野坂・佐藤康之・柳本・森山佳郎とどれも180cm以下の身長しかなかったが、ラインを浅くとり中盤をコンパクトにすることで対応、攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神で広島サポーターのみならず、多くのJリーグサポーターを魅了した。
[編集] 1995~1996年(ヤンセン時代)
チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年、ハンス・オフトの推薦でオランダ人のビム・ヤンセン監督が就任する。ジョン・ファンルーン、ピーター・ハウストラを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した。しかしあまりにも変わりすぎたため、笛や路木龍次・桑原裕義など数人を除いてほとんどの選手たちはこれについていけず、その混乱からチーム内に派閥が出来、瓦解状態に陥った。その後、3-6-1にシステム変更するも、成績は10位以下まで落ち込む。 1995年シーズン後、システムについていけない選手を次々と放出。風間にいたっては「選手として何一つ得る物が無い1年だった」とはき捨て退団。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山など放出されたことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例して観客動員低下につながって行った。リーグでは結局不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。
[編集] 1997~2000年(トムソン時代)
1997年からはバルセロナ五輪で名を上げ、若手育成に定評があったスコットランド人エディ・トムソンが就任するも、長期の低迷と当時のJリーグバブルの崩壊によって、クラブは経営難となり、1998年には高木をヴェルディ川崎へ、路木を横浜マリノス、森保を京都パープルサンガ(レンタル移籍)、翌1999年には柳本をガンバ大阪へと主力選手を次々と放出。クラブは最初の試練を迎えた。
アビスパ福岡から藤本主税、柏レイソルから沢田謙太郎、他チームで構想外となっていた伊藤哲也、宮澤浩、吉田康弘、山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜彦、下田崇、服部公太、高橋泰らの若手を起用していった。 また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルド、アウレリオ・ヴィドマー、トニー・ポポヴィッチ、ハイデン・フォックス、スティーブ・コリカと優秀な外国人選手も次々と補強した。
医療体制も整っていなかった(1998年になってようやく理学療法士を雇った)ため怪我人が出てもなかなか復帰せず、また財政難からまともに戦力が整わなかったため、トムソン就任当初は5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開、当時清水エスパルス監督であったオズワルド・アルディレスから「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ」と言われるなどであった。しかし就任3年目以降に至ってトムソンのサッカーも熟成。上村健一、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強とも言われた3バック、ユースから入団した森崎和幸、代表にまで昇りつめた藤本、そして何よりも新たなるエース久保の覚醒によって、堅守速攻のカウンターを武器に次々と強豪チームを撃破。1999年には1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残した。翌2000年、更なる上位進出を目指したが、リアクションサッカーからの脱却ができず、肝心なところで勝ち星を失い、1stステージ10位、2ndステージ11位の成績にとどまった。
[編集] 2001年(ヴァレリー時代)
4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブはより攻撃的なサッカーを目指すために、ロシア人ヴァレリー・ニポムニシを新監督に招聘。Jリーグで初めて4-3-3を採用しての超攻撃戦術への大転換を図った。開幕当初こそ選手が戸惑ったことにより成績は低迷したが、ヴァレリー戦術が浸透してくるにつれて大きく浮上。日本代表にも選ばれた久保と藤本、大木勉の個人技、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一、森崎和幸・浩司兄弟らの若手、オレグ・パシニンやコリカら優秀な外国人によって次々と得点を重ね、2ndステージは3位と、優勝した94年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった。ところがこの年のオフ、ヴァレリーは夫人の病気(後に、フロントとのチーム方針を巡る意見の相違から、好条件を提示されたCリーグのクラブの監督に就任するための狂言と判明)によってわずか1年で辞任する。この際、ヴァレリーが新監督に推薦したガジ・ガジエフを、クラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった。
[編集] 2002年(ガジエフ~木村時代・J2降格)
2002年、新監督のガジエフは、01年に驚異的な活躍をしたコリカを「戦術に合わない」と放出。更にキャンプでも選手たちの心を全く掴むことが出来ず、チームはバラバラのままシーズンに突入した。そのボロはすぐに出てしまい、戦術が全く噛み合わないままチームは連戦連敗を重ねる。 ガジエフの肝いりで連れて来たミシェル・パンセ・ビロングなどの新外国人も軒並み期待はずれに終わり、結局ガジエフは第8節終了後に解任された。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での解任劇だった。
新監督には、コーチを務めていた木村孝洋が昇格する形で就任。クラブ史上初の日本人監督となったが、新人監督に低迷するチームの復調を託すことはあまりにも荷が重く、消極的な采配に終始する。頼みの綱の久保と藤本も怪我による低調なパフォーマンスに終始し、結局最終節のコンサドーレ札幌戦に敗れたことで、オリジナル10としては浦和レッドダイヤモンズに続いて2クラブ目、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJ2降格が決まった。
[編集] 2003年(小野時代・J2)
2003年、クラブは1年でのJ1復帰に向けて尽力する。新監督には、長年日本代表でコーチを務め、屈指の理論派として知られる小野剛が就任。予想された主力の流出は久保と藤本の二人にとどめ、一方でセザール・サンパイオ(前柏レイソル)、リカルド(前ベガルタ仙台)などを獲得し、J2で戦うための戦力を充実させた。
こうして向かえたシーズンは、当初は独走したものの、次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し、残り1試合を残して、1年でJ1返り咲きを決める。ちなみにこの年は、J2優勝のアルビレックス新潟には2勝1敗1分けと勝ち越したが、3位の川崎フロンターレには2敗2分けと1度も勝てないばかりか、最終節でフロンターレに敗れたことでJ2優勝を逃した。またアビスパ福岡には前半戦に2勝したものの、後半戦は2敗したことが、アルビレックス、フロンターレと激しいJ1への昇格を争う原因となった(最終的には、勝ち点差が1位から3位までわずか3だった)。
[編集] 2004年~2005年(小野時代)
J1復帰後、就任当初から公言していた「3年でのJ1優勝」に向けて、小野とクラブは積極的な補強に動いた。2004年は、上村、桑原裕義、高橋泰などのチームを支えてきた選手を次々に放出する一方で、DF小村徳男などベテランを中心に補強。堅守を武器に、復帰初年度のJ1で健闘した。だが、得点力の低さから勝ちきれない試合が重なり、結果的に13引き分けと、年間最多引き分け記録を作ってしまった。また無得点に抑えられた試合が年間で9試合もあり、期待された新外国人FWチアゴもリーグ戦でわずか2得点しか挙げられず、ほとんど期待に応えられなかった。森崎和幸・浩司を中心として中盤の選手が得点することは多かったが、FWの得点力不足を嘆く声が多く聞かれた。
この反省から、公約の3年目となる2005年、クラブは更に積極的な補強に動く。前年途中に獲得した盛田剛平、ベットに加え、佐藤寿人、池田昇平、茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たち、ジニーニョ、ガウボンといった有力な外国人選手を次々と獲得。これらの新戦力と、新キャプテンに就任した森崎和、ユースから入団した前田俊介を始めとする生え抜きの選手たちが融合し、チームは快進撃を続け、一時は2位にまで浮上した。小野が掲げた3年でJ1優勝も現実味を帯びる展開まで持ち込んだが終盤に息切れ、下位に甘んじていた浦和レッズとセレッソ大阪が猛追してきたこともあり、最終的には7位でシーズンを終えた。また駒野が東アジア選手権から代表に定着、そして佐藤寿もシーズン終了後に日本代表に選出されるなど、充実のシーズンとなった。特に佐藤寿の活躍には目を見張るものがあり、久保の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取るほどの活躍を見せJ1日本人得点王にも輝いている。
[編集] 2006年(小野~望月~ペトロヴィッチ時代)
2006年シーズンは、昨年足りなかった部分を補強する目的で、FWウェズレイ(元名古屋グランパスエイト)やMF戸田和幸、FW上野優作らのベテランを期限付き移籍で獲得。更なる上位進出を狙ったが、より高レベルのサッカーを目指して導入した新システムが全く機能せず、開幕から自慢であったはずの守備が崩壊し、実に開幕から10戦未勝利(クラブワースト記録)と低迷。第8節終了後、小野は低迷の責任を取って辞任した。後任には、GKコーチの望月一頼が、ワールドカップによる中断期間までの暫定で就任した。
暫定監督となった望月は、前回降格した2002年の反省、更に中断までのリーグ4試合の間に出来るだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、恥も外聞も捨てた5バックによる超守備的な戦術を選択。「見っともない」「つまらない」という批判を受けながらもこのサッカーを貫き、4試合で勝ち点7と、暫定監督としては及第の結果を残し、新監督のミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した。
ペトロヴィッチは世代別代表にも名を連ねる青山敏弘や柏木陽介など若手を積極的に起用。さらに本来はボランチを本職とする戸田和幸・森崎和幸の2人をセンターバックで起用するようになる。そして、この時期からウェズレイが次第にチームにフィットしたこともあり、攻撃の中心となる活躍を見せる。結果的に監督交代が功を奏した形で、31節で来季のJ1残留を決定し、混戦だったシーズンを最終的には10位で終了。2トップの佐藤寿が日本人得点王の18点、ウェズレイが16得点を挙げるなどチーム総得点50のうち7割を二人でたたき出した。長年、チームの課題だったFWの得点力不足が改善されてきたともいえる。
2006年のドイツW杯本大会には、佐藤寿が落選したものの、駒野が日本代表メンバーに選出された。サンフレッチェからW杯本大会の日本代表メンバーが選出されたのは駒野が初めてである。その後も、この2人はオシムジャパンに常に召集されている。
[編集] 下部組織
- トップ(Jリーグ)
- サテライトはDグループに所属
- ユース(高校生年代)〔監督:森山佳郎、コーチ:雨野裕介・佐藤一樹、GKコーチ:加藤寿一(サテライトと兼務)〕
- サンフレッチェ広島ユース
- ジュニアユース(中学生年代)〔監督:島卓視、コーチ:高野剛・塩崎浩作、GKコーチ:阿江孝一〕
- サンフレッチェ広島ジュニアユース
- ジュニア(小学中高学年代)〔監督:岩成智和、コーチ:荒木亮次、GKコーチ:阿江孝一〕
- サンフレッチェ広島ジュニア
- サンフレッチェ広島ジュニアⅡ
- スクール(幼児~小学生年代)〔担当コーチ:門田幸二・行友健太郎・重富計二・岩成智和・荒木亮次・長尾一宏〕
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- 提携スクール(幼児~小学生~中学生世代)
運営は地元自治体や企業に任せサンフレッチェからは指導者派遣や情報・ユニホーム提供などを行っている。
[編集] サンフレッチェ広島ユース
Jリーグ開幕と同時に設立、ほぼゼロからのスタートであったが、前身のマツダSC時代から若手育成に力を入れていた流れをユースに応用し、独自のカラーを確立した。このやり方は他のJリーグクラブだけでなく、JFAアカデミー福島創設にあたり参考にされるなど注目されている。ちなみに卒業後の進学率・就職率はJリーグユースの中でもトップクラスである。
- 全寮制
広島市内に専用で使えるグラウンドがなかったが、高田郡吉田町(現安芸高田市吉田)が町おこしの一環として全面協力され、現在の吉田サッカー公園へ。当初は民家を借りてユース生を住ませていたが、環境の充実をはかり1994年にはJリーグチームとしては初めてユース寮を新設し全寮制を敷いた。マツダから寮長経験のある稲田夫妻を寮長・寮母に向かえ、人間教育にも力を入れている。 - 高校との提携関係
所属する全選手を広島県立吉田高等学校に通わせ、学校成績の悪い選手は練習に参加させないなど、サッカー以外の学業・生活面の指導にも力を入れている。と同時に吉田高校の学校行事に積極的に参加(稲田寮長は吉田高校PTA副会長)、週に1回吉田高校サッカー部(ここには広島ユース生は所属していない)にユース監督以下スタッフを派遣し指導に当たるなど密な関係を築いている。 - ユース独自のスカウト網
専門のスカウトを置き、若年層の有望株を全国津々浦々まで網羅しカバーしている。この情報量は2004年当時は他クラブを圧倒していた。
2003年~2004年が特に強く、2003年には天皇杯1回戦でJ2の水戸ホーリーホックと対戦、延長戦の末惜しくも0-1で敗れている。また2004年にはユース3冠まであともう少しであった。 主な卒業生は、森崎和幸・浩司兄弟、駒野友一など(下部組織出身の選手を参照)。特に、1986年度生まれ(2004年度卒業)は一足先に昇格した高萩洋次郎も含め、前田俊介、高柳一誠など合計7人(2006年現在)がユース卒業後すぐにプロ契約を果たし、また大学へ進学した選手も特別指定を受けるなど、さらにプロ昇格が増えそうである。
年度 | 監督 | 主な戦績 | |||
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クラブユース選手権 | 高円宮杯ユース | Jユースカップ | その他 | ||
93 | 小林伸二 | - | - | - | - |
94 | - | - | - | - | |
95 | - | - | 優勝 | - | |
96 | - | - | 3位 | - | |
97 | 木村孝洋 | - | - | 準優勝 | - |
98 | - | - | - | - | |
99 | - | - | - | - | |
00 | - | - | - | - | |
01 | 中村重和 | 3位 | 3位 | - | - |
02 | - | - | 準優勝 | 天皇杯1回戦敗退 | |
森山佳郎 | |||||
03 | 優勝 | 3位 | 優勝 | プリンスリーグ中国優勝、天皇杯1回戦敗退 | |
04 | 優勝 | 優勝 | 準優勝 | プリンスリーグ中国優勝 | |
05 | - | 3位 | - | プリンスリーグ中国優勝 | |
06 | - | - | プリンスリーグ中国優勝 |
[編集] エピソード
[編集] 球団名
- チーム名は公募したものだが、当初「広島パープル」で決定しかけたという。当時のチェアマン・川淵三郎が、新しく就任したサンフレッチェの球団社長と飲んだ時、「名前はもう決めましたか?」と聞くと「広島パープルにしました」との答え。さらに「パープルは気高い…英語ではすごくいい意味なので」というのがその理由だったが、川淵は「各チームにマスコットを作ろうと思っているのに、そんな色みたいなチーム名をつけられたのでは作りようがない」と渋い顔。この意見に傍らにいた芸者達が賛同したため、「パープル」は消えたという(川淵三郎『虹を掴む』〔講談社・2006年〕より)。なお公募の件数は相当数あったが、「三本の矢」の英語読み「スリーアローズ」が多く「サンフレッチェ」というそのままの応募は無かった。これをもとに日本語の“三”とイタリア語の“矢=フレッチェ”を合わせた造語「サンフレッチェ」というチーム名を関係者が作った。他のチームの名前は野球チーム名に多い英語系の名前が多かったため、当初は一番奇異なチーム名に思われた。しかし「サンフレッチェ」という言葉が、その後政界や球界などさまざまな世界で使われることとなったため、さほど変には聞こえなくなった。また以降Jリーグ入りするチームも非英語系のチーム名が増えたため道筋を作ったといえるかも知れない。チーム名を公募はしたが最終的に「サンフレッチェ」のチーム名を作ったのは関係者である。
- ただ、広島の本来のチームカラーは、紫は紫でもパープル(赤紫)ではなくバイオレット(青紫)である。J開幕時には既にJFLに将来のJリーグ入りを目指す京都パープルサンガが存在しており、重複する名前をつけようとしたとは考えづらいため、この話は100%虚偽ではないにせよ、ある程度協会関係者による創作が混じっている可能性もある。
[編集] チェアマン杯破損事件
- 1994年6月11日、磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、サンフレッチェ広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めた。ところがこの際、授与された高級クリスタル製のチェアマン杯(HOYAクリスタル特製)を、観客席のファンに見せようとしたが興奮しすぎたトレーナーが踏み台に上がろうとした時、誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損。この珍事は翌日のスポーツ新聞の1面を飾った。クラブはその場でJリーグ側に陳謝、その後クラブには新しいチェアマン杯が送られた。
- ちなみにチェアマン杯が破損したというニュースを聞いた時、多くのファンが「割ったのはムードメーカーの森山佳郎に違いない」と考えたという。
- なおその後粉々になったチェアマン杯は、一旦溶かしてペンダント化したと言われている。
[編集] ユニフォーム忘れ事件
- 1995年4月1日、熊本市水前寺陸上競技場で横浜フリューゲルス(以降、横浜F)戦が行われた。この試合は当時九州にJリーグチームがなく、熊本県をホームタウンとほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームなので、サンフレッチェ広島(以降、広島)はアウェーゲームで使う白の2ndユニフォームを持参していた。ところが横浜Fの1stユニフォームは白。競技場に着いて初めてこのことに気付いた広島は球団事務所に紫の1stユニフォームを熊本まで届けるように頼んだが、当然ながら間に合うはずもない。そこで広島は横浜Fの了解を得て、競技場に来ていたサポーターからレプリカユニフォームを借り、それにテープで背番号を貼って試合に臨んだ。試合は延長前半12分にイワン・ハシェックのVゴールで広島が勝ったものの、後日Jリーグから制裁金が課せられた。
- ちなみにユニフォームを貸したサポーターには、この試合でベンチ入りした監督・選手全員のサイン入り色紙がプレゼントされた。またユニフォームはクリーニング後に返却されたが、一部サポーターは「選手が着用したものだから、洗わずに返してほしい」と要望したという。
- なお、余談ではあるが、広島はこの試合を最後に横浜Fには、1998年の横浜Fの消滅までリーグ戦9連敗を喫し、勝つことが出来なかった。
[編集] 応援拒否事件
- 2004年9月29日、広島ビッグアーチでJリーグディビジョン1 2ndステージ第7節 東京ヴェルディ1969戦が行われた。
- 当時、サンフレッチェは小野剛監督の「3年目でJ1で優勝を争えるチームになる」という目標とは裏腹に、2ndステージ開始時から成績が低迷していた。一向に上向く気配のないチーム状態にサンフレッチェのサポーター集団がしびれを切らし、この試合の直前にチーム・選手への声援やチャントを含めた応援を一切拒否することを決定し、実行した。
- 対戦相手の東京ヴェルディ1969のサポーターも極めて少数であったため、この試合は降りしきる雨の音と観客席のかすかなざわめき、そしてピッチ上にいる選手のコーチングの声だけが響く、Jリーグの公式戦とはとても思えない異常な雰囲気の中で始まった。
- 試合自体は、応援拒否のただならぬ空気を感じ取ったのか、試合開始早々(目測13秒)でサンフレッチェFW大木勉のゴールで広島が先制し、そのまま3-0でサンフレッチェが勝利した。試合が進むにつれ自然発生的に湧き上がる声援、ゴールが決まるたびに一瞬だけ湧き上がるスタジアム、そして試合終了後に堰を切ったように響き出すサポーターのチャント・・・その90分間を生で体感した者は魂を揺さぶられるほどの感動を得ると共に「こんなことはもう二度と繰り返してはならない」と頑く心に誓ったという。
[編集] 相性
- 清水エスパルスのホームスタジアムである日本平スタジアムでの試合が鬼門である。1995年の2ndステージで1-0で勝利して以降、2006年までリーグ戦では1分9敗と11年間に渡りこのスタジアムで勝利を奪えていない。(この間に行われたカップ戦でも勝利を奪えていない)リーグ戦の通算成績では2勝10敗1分と大きく負け越している。また1996年から2000年まで5年連続で完封されるなど非常に相性の悪いスタジアムである。
- 浦和レッズ戦はホーム・アウェイ問わず苦手としている。ホームは1999年3月27日に勝利して以来、アウェイでは1998年9月26日に勝利して以降、勝ち星からは見放されている。ちなみにこの連敗が始まったのは1999年11月27日に行われた対戦で、レッズの2部降格が決まった試合でもある(俗に言う世界で一番悲しいVゴール)
- 鹿島アントラーズ戦の通算成績は負け越している。しかし、鹿島のホームであるカシマサッカースタジアムでの相性はよく、最後に負けたのが1997年9月10日の試合である。通算成績でも鹿島を除くJ1所属経験のあるチームの中では唯一勝ち越しており、また、鹿島がこのスタジアムで初めて負けた時の相手がサンフレッチェである。
- かつてJリーグに所属し、現在は消滅してしまった横浜フリューゲルス戦では、1995年4月1日の試合で勝ったのを最後に、横浜フリューゲルスの消滅までリーグ戦9連敗を喫してしまった(それまではリーグ戦7勝2敗とお得意にしていた)。ちなみに最後に勝った試合は、前述のユニフォーム忘れ事件の試合であった。
[編集] 観客動員
- ここ最近は常に中位でシーズンを終えていることもあってか、観客動員は芳しいとは言えない状況である。そもそも広島にはプロ野球の広島東洋カープが存在し、カープは広島のみならず全国にファンが多い球団でもある。同じ日に広島市民球場と広島ビッグアーチでそれぞれの試合が開催されると、ほとんどの場合はカープに観客が流れがちである。またカープの試合では平日でも1万人を越える観客が集まるのに対し、サンフレッチェでは土日祝日の試合でも1万人を超えるか超えないかという状況である。
[編集] 初勝利献上のジンクス
降格制度ができた1999年以降、サンフレッチェに初勝利を献上したクラブはその年か翌年に不幸(降格や経営危機)が起きるジンクスがある。
- 1999年 広島4-1浦和⇒同年に世界で一番悲しいVゴールで降格。皮肉にもその対戦相手が広島であった。
- 2000年 広島1-0川崎⇒同年に最下位で降格。
- 2001年 広島1-0札幌⇒翌年に降格。
- 2002年 広島5-1札幌⇒同年に最下位で降格。最終戦の札幌戦に破れた広島も降格した。
- 2003年 広島4-3鳥栖⇒J2なので降格は無かったが、ダントツの最下位と経営危機でクラブの存続が危ぶまれた。
- 2004年 広島2-1C大阪⇒変則レギュレーションのため15位で残留できたが、通常の年なら降格していた。
- 2005年 広島4-1東京V⇒同年に降格。年間チャンピオン獲得クラブとしては初である。
- 2006年 広島1-0大宮⇒降格した3チームが圧倒的な弱さだったため降格は免れたが、後半戦は不調で終盤まで残留争いが続いた。ジンクスは翌年も継続されるので降格が懸念される。
ちなみに、広島が2006年に開幕から長い間勝てなかったホームで、初勝利をしたアビスパは降格しているので、少し変則的ながらも、ジンクスが効いているのではとも思える。
[編集] 戦績
年度 | 所属 | 順位 | 勝ち点 | 勝 | 敗 | 分 | 得点 | 失点 | ナビスコカップ成績 | 天皇杯成績 | 監督 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
92 | - | - | - | - | - | - | - | - | 予選リーグ敗退 | 2回戦敗退 | スチュワート・バクスター( イングランド) |
93 | J1 | S:6 N:5 |
- | S:9 N:9 |
S:9 N:9 |
- | S:23 N:31 |
S:24 N:25 |
予選リーグ敗退 | ベスト4 | |
94 | J1 | S:優勝 N:4 |
- | S:17 N:12 |
S:5 N:10 |
- | S:44 N:27 |
S:26 N:31 |
1回戦敗退 | ベスト8 | |
95 | J1 | S:10 N:12 |
S:39 N:28 |
S:13 N:9 |
S:13 N:17 |
- | S:39 N:28 |
S:33 N:43 |
開催なし | 準優勝 | ビム・ヤンセン( オランダ) |
96 | J1 | 14 | 30 | 10 | 20 | - | 36 | 60 | 予選リーグ敗退 | 準優勝 | |
97 | J1 | 1st:10 2nd:13 |
1st:21 2nd:15 |
1st:8 2nd:5 |
1st:8 2nd:11 |
- | 1st:22 2nd:21 |
1st:23 2nd:27 |
予選リーグ敗退 | 4回戦敗退 | エディ・トムソン( スコットランド) |
98 | J1 | 1st:13 2nd:9 |
1st:19 2nd:24 |
1st:7 2nd:9 |
1st:10 2nd:8 |
- | 1st:22 2nd:23 |
1st:33 2nd:19 |
予選リーグ敗退 | ベスト8 | |
99 | J1 | 1st:6 2nd:8 |
1st:27 2nd:21 |
1st:9 2nd:7 |
1st:6 2nd:7 |
1st:0 2nd:1 |
1st:30 2nd:24 |
1st:18 2nd:25 |
2回戦敗退 | 準優勝 | |
00 | J1 | 1st:10 2nd:11 |
1st:19 2nd:18 |
1st:7 2nd:6 |
1st:7 2nd:8 |
1st:1 2nd:1 |
1st:19 2nd:23 |
1st:15 2nd:25 |
2回戦敗退 | 4回戦敗退 | |
01 | J1 | 1st:13 2nd:3 |
1st:13 2nd:24 |
1st:5 2nd:8 |
1st:10 2nd:7 |
1st:0 2nd:0 |
1st:25 2nd:36 |
1st:33 2nd:27 |
3回戦敗退 | 4回戦敗退 | ヴァレリー・ニポムニシ( ロシア) |
02 | J1 | 1st:15 2nd:14 |
1st:10 2nd:16 |
1st:3 2nd:5 |
1st:11 2nd:8 |
1st:1 2nd:2 |
1st:14 2nd:18 |
1st:26 2nd:21 |
予選リーグ敗退 | ベスト4 | ガジ・ガジエフ( ロシア)※第1節~第8節 木村孝洋( 日本)※第9節~ |
03 | J2 | 2 | 86 | 25 | 8 | 11 | 65 | 35 | 出場権なし | 4回戦敗退 | 小野剛( 日本) |
04 | J1 | 1st:13 2nd:11 |
1st:15 2nd:16 |
1st:3 2nd:3 |
1st:6 2nd:5 |
1st:6 2nd:7 |
1st:15 2nd:21 |
1st:19 2nd:23 |
予選リーグ敗退 | 4回戦敗退 | |
05 | J1 | 7 | 50 | 13 | 10 | 11 | 50 | 42 | 予選リーグ敗退 | 5回戦敗退 | |
06 | J1 | 10 | 45 | 13 | 15 | 6 | 50 | 56 | 予選リーグ敗退 | 5回戦敗退 | 小野剛( 日本) ※~第8節 望月一頼( 日本) ※第9節~第12節 ミハイロ・ペトロヴィッチ( オーストリア) ※第13節~ |
- 勝ち点制の導入は95年
- 96年、05年以降のJ1、並びにJ2は1シーズン制
- 引き分け制の導入は99年
[編集] 獲得タイトル・記録
- 1994年 Jリーグ サントリーシリーズ
なお、Jリーグに初年度から所属しているチーム(オリジナル10)の中で唯一、日本一のタイトル(Jリーグ年間王者・ナビスコカップ・天皇杯)を獲得していない。
- 2004年 年間最多引き分け記録 13引き分け
- 個人記録
[編集] ユニフォーム
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[編集] チームカラー
- チームカラーは紫色
[編集] ユニホームスポンサー
[編集] 過去のスポンサー
[編集] ユニホームサプライの遍歴
- 1992年~ ミズノ製ユニホームをリーグ戦・カップ戦とも使用している。
[編集] 関連項目
- サンフレッチェ広島の選手一覧
- サンフレッチェ広島に在籍した全選手一覧
- トップス広島(異競技間交流ネットワーク)
- サタ・スポ
- 進め!スポーツ元気丸
- 広島サッカー向上委員会
- サンフレッチェ・ラジオ・サポーターズクラブ “GOA~L”
- 西城秀樹(1994年のチーム応援歌『SAYYEA',JAN-GO』を唄う。)
- 神園さやか(2005年、公認応援ソング『Remember~スタジアムへの道~』を唄う。)
- 広島東洋カープ(広島市が本拠地のプロ野球)
[編集] 外部リンク
サンフレッチェ広島 - 2007 |
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1 下田崇 | 4 ダバツ | 5 駒野友一 | 7 森崎浩司 | 8 森崎和幸 | 9 上野優作 | 10 ウェズレイ | 11 佐藤寿人| 12 サポーター | 14 戸田和幸 | 16 李漢宰 | 17 服部公太 | 18 吉弘充志 | 19 盛田剛平 | 21 木寺浩一 | 23 青山敏弘 | 24 前田俊介 | 25 高柳一誠 | 26 橋内優也 | 27 柏木陽介 | 28 槙野智章 | 29 趙佑鎮 | 30 入船和真 | 32 桑田慎一朗 | 33 中尾真那 | 36 河野直人 | 未定 田村祐基 | 未定 高萩洋次郎 | 未定 平繁龍一 | 未定 遊佐克美 | |
監督 ペトロヴィッチ | コーチ ポポヴィッチ | コーチ 横内昭展 | コーチ 沢田謙太郎 | GKコーチ 望月一頼 | GKコーチ 加藤寿一 | |
クラブ | 編集 |
Jリーグ 2007 | |
---|---|
J1 | |
鹿島アントラーズ | 浦和レッドダイヤモンズ | 大宮アルディージャ | ジェフユナイテッド市原・千葉 | 柏レイソル | FC東京 | 川崎フロンターレ | 横浜F・マリノス | 横浜FC | ヴァンフォーレ甲府 | アルビレックス新潟 | 清水エスパルス | ジュビロ磐田 | 名古屋グランパスエイト | ガンバ大阪 | ヴィッセル神戸 | サンフレッチェ広島 | 大分トリニータ |
|
J2 | |
コンサドーレ札幌 | ベガルタ仙台 | モンテディオ山形 | 水戸ホーリーホック | ザスパ草津 | 東京ヴェルディ1969 | 湘南ベルマーレ | 京都サンガFC | セレッソ大阪 | 徳島ヴォルティス | 愛媛FC | アビスパ福岡 | サガン鳥栖 |
|
過去に存在したクラブ | |
横浜フリューゲルス | |
ナビスコ杯 | オールスターサッカー | チャンピオンシップ | 入れ替え戦 | アウォーズ |