中村重和
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中村 重和(なかむら しげかず、1958年7月30日 - )は、長崎県島原市出身のサッカー選手・指導者。
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[編集] 経歴
島原商業高校時代は当時同校のサッカー部監督を務めていた小嶺忠敏(現:長崎県立国見高等学校校長兼サッカー部総監督)の教えを受けた。その後、大阪商業大学を経て、東洋工業サッカー部(後にマツダSCに改称。現在のサンフレッチェ広島)に入団する。ちなみに、小林伸二とは高校、大学、マツダの先輩にあたる。
引退後はマツダSC・広島でコーチやスカウトを歴任する。「育成を中心にしたチーム作り」には当初から定評があった。ユース監督時代には、トップでは消化できなかった4-3-3システムを構築・機能させ、現在日本有数の強豪チームとなった広島ユースの基盤を作った。2002年8月にアビスパ福岡より監督のオファーを受け、就任する。
この年の福岡は1年でのJ1復帰(2001年にJ2に降格していた)を目指してシーズン前に実績のある選手を大量に補強したが開幕から不振が続き、21節終了時に監督の今井雅隆が不振の責任をとって辞任。不振を受けて観客動員数は低迷し、さらに人件費がかさんでチームの経営は厳しさを増し、モチベーションの低下した現場は内部崩壊状態と、福岡はどん底の状態に陥っていた。中村はこうした状況を打開しようとチームが招聘した「切り札」であった。当時のポストは「監督」であったが、チームは中村にゼネラルマネージャー的な役割を期待していた。
中村はまず、それまでのベテラン中心のレギュラー陣を若手中心に切り替えることから始めた。当然さらに負けが込み、中村が指揮を執った20試合(2002年25節~44節)ではわずか2勝しかできなかったが、チームも中村も今後は若手中心に戦うと決めており、勝敗は度外視していたところもある。また、この年のオフにベテランの解雇と若手の登用による選手の大量入れ替えを行い、翌年からの本格的な改革の下準備を整えて、管理強化部長に就任。監督には2002年にヴィッセル神戸の監督を務めた松田浩を招聘した。
管理強化部長に就任後は、千代反田充や中村北斗など、地元九州の有望選手を次々に獲得。ベテランが多かった福岡をJリーグでも選手の平均年齢が最も若いチームの1つに生まれ変わらせ、徹底した「育成型チーム」への転換を目指した。成績も2003年は4位、2004年は3位(J1・J2入れ替え戦進出)と着実に上昇を続け、2005年は2位になってJ1復帰を決めた。中村のチーム改革はここに1つの終点を迎えた。
同じ年のJ1自動昇格組だがこちらは資金力をバックにした豊富な戦力でJ2を勝ち上がった京都パープルサンガとよく比較されるが、資金の乏しい中で育成に活路を見出した中村の戦略は今後のチーム経営のモデルケースとなることも予想され、2006年、5年ぶりのJ1でどれだけ戦えるか注目される。
監督としての成績は振るわなかったが(もっとも中村はこうなることをある程度承知していたようである)、それまでの行き当たりばったりのチームを生まれ変わらせた功労者であり、サポーターの信頼は厚い。
[編集] 選手経歴
- 長崎県立島原商業高等学校
- 大阪商業大学
- マツダSC 1981-1989
[編集] 指導経歴
- マツダSC:コーチ 1990-1991
- サンフレッチェ広島:コーチ兼スカウト 1992-1996
- サンフレッチェ広島:ジュニアユース監督 1997-2000
- 日本サッカー協会公認 S級ライセンス習得 2000
- サンフレッチェ広島:ユース監督 2001-2002.7
- アビスパ福岡:監督 2002.8-2002.12
- アビスパ福岡:管理強化部長 2003-2005
- アビスパ福岡:チーム統括グループ副長 2006
[編集] 広島ユース監督指導歴
- 全国大会成績
- 2001年度 高円宮杯全日本ユース選手権3位、日本クラブユース選手権3位
- プロ契約選手(所属は当時)
[編集] 監督成績
年度 | 所属リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝ち点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | チーム |
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2002年 | J2 | - | 20 | 11 | 2 | 13 | 5 | 8位 | アビスパ福岡 |
※2002年は第25節から最終節まで指揮。
[編集] 関連項目
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