ヴァンフォーレ甲府
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ヴァンフォーレ甲府(ヴァンフォーレこうふ、Ventforet Kofu)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
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[編集] クラブの概要
1999年Jリーグ加盟。ホームスタジアムは山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場。練習は同公園の球技場、補助競技場、緑が丘スポーツ公園陸上競技場などを使用する。チーム名はフランス語の「Vent(風)」と「Forêt(林)」を合わせた造語で、現在の甲府市内に本拠を置いていた戦国時代の甲斐国主で、郷土の象徴的人物でもある武田信玄の旗指物「風林火山」にちなんでいる。また多くのJリーグクラブは、親会社である有名企業に頼っている(例:横浜F・マリノス=日産自動車、名古屋グランパスエイト=トヨタ自動車、ガンバ大阪=松下電器産業など)が、ヴァンフォーレ甲府は、有名企業に頼らず地元山梨の会社など200社の小口スポンサーの支援を受けてチームを運営している。
[編集] ホームタウン
1999年の加盟当初は「甲府市、韮崎市を中心とする30市町村」だったが、いわゆる「平成の大合併」計画に伴い、2003年4月に南アルプス市発足で「25市町村」、2004年には段階を追って甲斐市(9月)、笛吹市(10月)、北杜市(11月)が発足し「13市町村」となった。 2005年7月、Jリーグの理事会の承認で山梨県全市町村をホームタウンとすることが決定。
[編集] マスコットキャラクター
2006年6月12日に、甲斐犬をモチーフにした新マスコットの『ヴァンくん』が誕生する。このマスコットキャラクターはデザイン・名称共に一般公募により決められた。
[編集] クラブの歴史
[編集] 甲府クラブ時代 (1965年-1994年)
前身の甲府サッカークラブ(通称-甲府クラブ)は、1965年に県立甲府第一高校のOBチーム鶴城クラブ(かくじょう―)が日本サッカーリーグ(JSL)昇格を目指して全国社会人サッカー選手権大会に出場する際に、他校出身選手も交えて設立された。クラブは川手工業所社長の川手良萬(甲府一高の前身の甲府中OB、元鶴城クラブ選手)の支援により運営されていたが、企業チームではなくれっきとしたクラブチームであり、選手は様々な職業の人間から成り立っていた。
1969年にはJSLとの入れ替え戦に進出するも、日立製作所サッカー部(現-柏レイソル)に2戦2敗で昇格は叶わなかった(奇しくも36年後にヴァンフォーレ甲府は柏レイソルとの入れ替え戦に勝ってJ1昇格を決めている)。その後もJSL昇格はならなかったが、1972年からは新設されたJSL2部に参加。1986年には川手良萬の死去によりクラブの存続が危ぶまれた時期もあったが、支援者の資金協力により存続が決まった。1992年のJSL閉幕時には、1972年の第1回大会から1991/92の第20回大会まで、昇格も降格も消滅もせずJSL2部に所属し続けた唯一のチームとして特別表彰を受けている。1992年からはリーグ制度改正に伴い旧JFL2部に参加。
[編集] ヴァンフォーレ甲府時代 (1995年-現在)
1995年、チーム名を現在のヴァンフォーレ甲府に改称。1999年のJリーグ2部制発足に伴いJ2に参加した。歴史上、日本の社会人サッカーで「2部」が発足して以来、常にそのカテゴリーへ所属し続けるという記録を2005年まで更新し続けた。
[編集] 1995年-1997年
1999年よりJリーグにディビジョン2(J2)が新設されるため、それに参加することにあわせた準備を実施。山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場の改修、チームの株式会社化を積極的に行なった結果、1997年に1999年からJ2へ参加することが決定された。
[編集] 1998年
翌年よりJリーグへ参入することが決まったこの年、バロンや大柴克友らの活躍により旧JFL最後の年に過去最高の4位を記録。しかし無理な補強が災いし、この時から業績が悪化。シーズン終了後リーグ得点王になったバロンがジェフユナイテッド市原へ移籍するなど戦力が大幅に低下することになる。
[編集] 1999年
Jリーグ参入初年度はJリーグ記録の25連敗(当時のカウントによる、現在は8引き分けを除いた「17連敗」とカウント)を記録。前年度の好成績が一転最下位に陥る。またスポンサー収入の激減や観客の伸び悩みにより業績は更に悪化。前年に続き大柴克友ら主力を放出せざるを得なくなる。
[編集] 2000年
1998年まで指揮をとっていた塚田雄二が監督に復帰(ライセンスの問題から1999年は総監督として在籍)。しかし主力大量放出により戦力が著しく低下し、2年連続最下位に終わる。この時J2に降格していた浦和レッドダイヤモンズにホームジャックされる等観客動員は惨々たるものでユニホームスポンサーも胸は2年連続なし、背番号も秋にようやく決まる等収益は数千万程度しかあげられずシーズン終了後、ついに債務超過になりチームが存続危機に陥る。
一度はこの年を最後に解散・チーム売却(この頃、いくつかの企業及び自治体からの買収話も出ていた)の話も出たものの、サポーターの必死の存続運動などもあり、2001年シーズンの暫定的な存続が図られることになった。
その際、2002年以降の存続の条件として、
- 平均観客動員数 3000人以上(2000年実績 1850人)
- クラブサポーター 5000人以上(同 2698人)
- スポンサー収入 5000万円以上(同 2600万円)
の3条件が課された。
[編集] 2001年
ブラジルの名門チームパルメイラスと提携を結び、ヘイスを監督に据えて戦うものの98失点というJリーグ最多失点記録が災いし、3年連続最下位に終わる。しかしこの年に社長へ就任した山梨日日新聞出身の海野一幸による経営改革やサポーターの努力もあり、上記に挙げられた存続条件は3条件ともに見事にクリアされ、J参入3年目にして初めて単年度黒字を達成する。これにより2002年度以降のチームの存続が決定した。
[編集] 2002年
パルメイラスとの提携を解消し、J1チームの清水エスパルスと提携を結ぶ。世界的イリュージョニストとして知られる二代目引田天功(プリンセス・テンコー)がスポンサーに就任したことで話題になった。成績的にも、この年に就任した大木武監督の目指すプレースタイルが浸透し始めた後期から徐々に上昇。12チーム中7位に入りJ2参加から初めての最下位脱出に成功する。
尚、9月21日にはセレッソ大阪戦においてチーム初となる小瀬競技場での観客動員の満員(当時は13000人収容)を記録。
[編集] 2003年
前年好成績を残した大木監督が退任し、再び低迷するのかとの不安も囁かれた。 しかし、松永英機監督が就任すると、昨シーズンのプレースタイルを継承する形で、さらにチーム力は向上。2002年以上の成績を残した。また、元日本代表の小倉隆史が加入し、大きな話題ともなった。
[編集] 2004年
小瀬競技場の芝改修により開幕後1ヶ月使用できず、このためスタートダッシュに失敗。それでも甲府へ復帰したFWバロンの活躍もあってその後成績は向上し、前期は3位で折り返す。しかし、7月31日を最後にそのバロンが鹿島アントラーズへ移籍(厳密に言えばレンタルによる契約期間が終了)。さらに他の主力選手の負傷離脱も相次ぎ、チームは失速。シーズン終了後松永監督は責任を問われ解任される。 貧乏チームゆえの悲哀(資金不足による有力選手の離脱と選手層の薄さ)を味わった年と言える。
[編集] 2005年
再び大木監督が就任。2002年から培ってきた攻撃重視のプレースタイル(J2では珍しい)をさらに発展させた。 大宮アルディージャから移籍したFWバレーがこのシーズン、J2得点ランク2位の21得点を挙げる活躍。 J1への自動昇格となる2位以上こそならなかったものの、ベガルタ仙台と最終節までもつれ込む熾烈な3位争いを展開した。 最終節で仙台がアビスパ福岡と引き分け、甲府は京都パープルサンガに2-1で勝利、勝ち点で仙台を上回ってJ1・J2入れ替え戦への出場を果たした。 柏レイソルとの入れ替え戦では12月7日の第1戦(小瀬)で2-1、さらに10日の第2戦(日立柏サッカー場)ではバレーの6得点(Jリーグ初のダブルハットトリック)の大活躍で6-2と連勝。
こうして、J2初年度から3年連続最下位に低迷し「J2のお荷物」とまで言われていたヴァンフォーレが、遂にJ1への昇格(チーム結成以来初めての日本のサッカーリーグのトップディビジョン進出)を果たした。
[編集] 2006年
J1昇格初年度、限られた予算の中、元日本代表の林健太郎等を獲得し、身の丈に合った補強を行ない開幕戦を迎える。初戦ホームでの清水エスパルス戦は0-2で敗れるものの、続くアウェーでのジェフユナイテッド千葉戦において2-2の引き分けに終わり初勝ち点を獲得。更に続くホームでの川崎フロンターレ戦においてバレーの得点により1-0でJ1初勝利を得る。その後も勝ち点を重ねていくものの4月30日のジュビロ磐田戦においてチームの要である倉貫一毅が負傷してからチームは失速。ヤマザキナビスコカップを含め5連敗を喫する。しかし5月26日に茂原岳人を練習生として獲得(その後7月14日に正式契約)、更にFIFAワールドカップによるリーグ中断中にチーム初となる韓国でのキャンプを行なった結果調子を取り戻し、11月11日に行なわれた京都パープルサンガ戦に引き分けたことにより来年度のJ1残留が決定するも、15位で終了するなど課題の残るシーズンとなった。
ホームゲームでは横浜F・マリノスや鹿島アントラーズ、更には前年度王者のガンバ大阪に勝利する等の活躍を見せたが、一方でアウェーでは大差で負けることが多く、このアウェーでの弱さを克服することが来年以降の課題になると思われる。
尚、観客動員は昇格効果もあり平均で1万を超え、特に7月29日での浦和レッドダイヤモンズ戦では過去最高の17000人(満員)を動員するなど、地元での人気が加速度をつけて上がってきている。
[編集] 地元のサポート体制
ヴァンフォーレが解散の危機に立たされた2001年、地元市民からは「山梨唯一のプロスポーツクラブの灯を消すな」ということでクラブ存続を訴え続け、クラブが掲げた3つの条件(上掲)をクリアして市民チームとして再建を果たしたが、それを支えているのは地元の企業・店舗などからの支援体制である。
サッカーに関心のなかった甲府市民らまでを巻き込んだ支援活動により、大都市の大手企業だけでなく地元の企業や店舗などもスタジアムの広告看板を掲示するようになった他、クリーニング店が選手の使用したユニホームや練習着を無償洗濯したり、理髪店やパン屋、温泉施設など、多くの企業がヴァンフォーレの選手・スタッフに対しての無料優待を受けて全面的な支援体制を強化させている。
また、運営会社のヴァンフォーレ山梨スポーツクラブは山日YBSグループ各社との結びつきが強く、ヴァンフォーレ甲府の公式サイト(i-mode公式サイトを含む)は山日YBSグループの企業が運営している。また2006年4月から山梨放送でヴァンフォーレ甲府応援番組VENTスポ!が始まった。
これらの体制やクラブ運営が評価を受け、徳島ヴォルティスがJリーグ参入前に海野社長を徳島へ呼んでアドバイスを受けたり、四国アイランドリーグの代表取締役である石毛宏典氏が経営の参考にするために甲府へ訪れたりしている。
[編集] チーム成績・歴代監督
年度 | 所属 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | 監督 | 総監督 |
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1992年 | 旧JFL2部 | 18 | 28 | 9 | 8 | 1 | 5位 | 深沢一智 | - |
1993年 | 18 | - | 6 | 12 | - | 9位 | - | ||
1994年 | 旧JFL | 30 | - | 9 | 21 | - | 14位 | 勝俣進 | - |
1995年 | 30 | 43 | 14 | 16 | - | 9位 | 塚田雄二 | - | |
1996年 | 30 | 33 | 11 | 19 | - | 11位 | - | ||
1997年 | 30 | 52 | 19 | 11 | - | 6位 | - | ||
1998年 | 30 | 59 | 22 | 8 | - | 4位 | - | ||
1999年 | J2 | 36 | 18 | 5 | 27 | 4 | 10位 | 勝俣進 | 塚田雄二 |
2000年 | 40 | 18 | 5 | 32 | 3 | 11位 | 塚田雄二 | - | |
2001年 | 44 | 25 | 8 | 34 | 2 | 12位 | ヘイス | - | |
2002年 | 44 | 58 | 16 | 18 | 10 | 7位 | 大木武 | - | |
2003年 | 44 | 69 | 19 | 13 | 12 | 5位 | 松永英機 | - | |
2004年 | 44 | 58 | 15 | 16 | 13 | 7位 | - | ||
2005年 | 44 | 69 | 19 | 13 | 12 | 3位 | 大木武 | - | |
2006年 | J1 | 34 | 42 | 12 | 15 | 6 | 15位 | - |
[編集] 獲得タイトル
- 2006年までに獲得したタイトルは無し。
[編集] チームカラー
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- チームカラーは青色
[編集] ユニホームスポンサー
[編集] 過去のユニホームスポンサー
- NTTドコモ山梨支店(1998年、胸)
- ディレクTV(1998年、背番号)
- インデックス(2000年秋~2001年、背番号)
- 山日YBSグループ(2001年~2003年、袖)
- プリンセステンコー(2002年~2003年、背番号)
- 泉郷(2004年~2005年、袖)
- シャトレーゼ(2004年~2005年、背番号)
- 武田消毒(2003年~2005年、パンツ)
[編集] ユニホームサプライの遍歴
- 1997年~1998年 ペナルティ
- 1999年~2002年 エネーレ
- 2003年~2006年 デレルバ
- 2007年~ アンブロ
[編集] チーム名変遷
- 1965年~ 甲府サッカークラブ
- 1995年~ ヴァンフォーレ甲府
[編集] 関連項目
- ヴァンフォーレ甲府の選手一覧
- VENTスポ!(山梨放送-VF甲府応援テレビ番組)
[編集] 外部リンク
ヴァンフォーレ甲府 - 2006 |
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1 阿部謙作 | 2 秋本倫孝 | 3 津田琢磨 | 4 山本英臣 | 5 井上雄幾 | 6 奈須伸也 | 7 石原克哉 | 8 倉貫一毅 | 9 須藤大輔 | 10 藤田健 | 11 宇留野純 | 13 田森大己 | 14 堀井岳也 | 15 アライール | 16 バレー | 17 鶴見智美 | 18 長谷川太郎 | 19 池端陽介 | 20 ビジュ | 21 鶴田達也 | 22 松下太輔 | 23 山崎光太郎 | 24 大西容平 | 25 鈴木健太 | 26 保坂一成 | 27 松田勉 | 29 石田博行 | 30 ネト | 31 林健太郎 | 32 杉山新 | 33 茂原岳人 | 34 ジョジマール | 監督 大木武 | クラブ | 編集 |
Jリーグ 2007 | |
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J1 | |
鹿島アントラーズ | 浦和レッドダイヤモンズ | 大宮アルディージャ | ジェフユナイテッド市原・千葉 | 柏レイソル | FC東京 | 川崎フロンターレ | 横浜F・マリノス | 横浜FC | ヴァンフォーレ甲府 | アルビレックス新潟 | 清水エスパルス | ジュビロ磐田 | 名古屋グランパスエイト | ガンバ大阪 | ヴィッセル神戸 | サンフレッチェ広島 | 大分トリニータ |
|
J2 | |
コンサドーレ札幌 | ベガルタ仙台 | モンテディオ山形 | 水戸ホーリーホック | ザスパ草津 | 東京ヴェルディ1969 | 湘南ベルマーレ | 京都サンガFC | セレッソ大阪 | 徳島ヴォルティス | 愛媛FC | アビスパ福岡 | サガン鳥栖 |
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過去に存在したクラブ | |
横浜フリューゲルス | |
ナビスコ杯 | オールスターサッカー | チャンピオンシップ | 入れ替え戦 | アウォーズ |