世界で一番悲しいVゴール
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世界で一番悲しいVゴール(せかいで・いちばん・かなしい・ぶいごーる)は、1999年11月27日、埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)の浦和市駒場スタジアムで行われた1999年Jリーグ・ディビジョン1(J1)セカンドステージ最終節・浦和レッズ対サンフレッチェ広島戦での福田正博によるVゴールのこと。
この試合で浦和は延長後半にVゴールで勝利したものの、得失点差でJ2降格となったことからこう呼ばれるようになった。 ゴールを決めた福田はこのゴールを「涙のVゴール」と語ることもある[1]。
なおこの試合を「駒場の悲劇」と呼ぶサポーターも少なからずおり、また悲劇という表現自体、浦和寄りの見方との意見もあるが、この日のスポーツ番組で解説者が用いたことがきっかけで、その後ほとんどのサッカーファンの間で「世界で一番悲しいVゴール」として定着したため、ここでもこれを用いる。
目次 |
[編集] 最終戦までの経緯
1999年、Jリーグはこのシーズンから2部制を導入。このシーズンより、年間成績のJ1(当時16チーム)の下位2チームはJ2(当時10チーム)の上位2チームと自動入れ替え制となった。
この年の浦和は、前シーズン(1998年)の2ndステージを3位と躍進したことにより優勝戦線に絡むと予想されていたが、永井雄一郎や小野伸二がFIFAワールドユース日本代表として、石井俊也がシドニー五輪予選の代表としてチームを離れるなど、ベストメンバーが組めない状況が続いたこともあり、1stステージは13位と振るわなかった。
このため浦和は原博実監督を解任し、2ndステージからオランダ人のア・デモスを監督として招聘したが、シドニー五輪の一次予選で小野伸二がひざを負傷してシーズンのほとんどを離脱するなどがあっては連敗を重ね、さらには第6節・ジュビロ磐田戦から第9節・名古屋グランパスエイト戦まで4試合連続延長Vゴール負けを喫するなどにより、過酷なJ1残留争いをすることとなる。
リーグ戦終盤、浦和はアビスパ福岡、ジェフユナイテッド市原(当時)、ベルマーレ平塚(当時)と降格ラインの瀬戸際に立たされ、そのなかでまず平塚が早々に降格決定となった。残り1試合となった11月23日の時点で、
順位 | チーム | 試合 | 勝点 | 勝利 | (90分勝) | (延長勝) | 引分 | 敗戦 | 得失点差 | 得点 | 失点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
13 | アビスパ福岡 | 29 | 28 | 10 | (7) | (3) | 1 | 18 | -16 | 41 | 57 |
14 | 浦和レッズ | 29 | 26 | 7 | (7) | (0) | 5 | 17 | -20 | 38 | 58 |
15 | ジェフユナイテッド市原 | 29 | 25 | 9 | (5) | (4) | 2 | 18 | -16 | 24 | 40 |
16 | ベルマーレ平塚(*) | 29 | 13 | 4 | (4) | (0) | 1 | 24 | -41 | 28 | 69 |
*11月20日の時点で降格決定
となった。最終戦を福岡は引き分け以上で、浦和は90分勝ちで、市原は90分勝ちしたうえで福岡が負け、あるいは浦和がVゴール勝ち以下であると、それぞれJ1残留という状況になった。
[編集] 最終戦
[編集] 試合展開
浦和のホームゲームで行われたこの試合は、主力であるピクンと岡野雅行、広島もポポヴィッチ、藤本主税、久保竜彦が欠場するなど、お互いに主力を欠いてのスタートとなった。
前半から一進一退の緊迫した好ゲームとなった。浦和は何度も広島ゴールへ攻めるも、広島の堅守を崩すことができず苦戦を強いられた。後半に入ってからも9分にペギリスタインから大柴健二に代えた以外には大きな動きはなかった。
ところが、後半15分にア・デモス監督の元に同じく降格争いをしている市原がリードしたという一報が入り、後半18分にMFの中村忠に代えて盛田剛平、後半34分にDFの城定信次に代えて福田正博と続けてFWを投入し、何としても点を取るという作戦に出た。
小野伸二やDFの山田暢久もチャンスメークに徹し、盛田、大柴、福田を中心として広島ゴールへ何度も攻め、点を狙いに行くも全て阻まれる。後半42分、小野のコーナーキックから盛田が飛び込みヘディングするも外してしまい、決定的なチャンスを逃してしまう。そして、ついに90分間が終了した時点で両チームとも得点をあげることができず、延長戦へ突入となった。
この時点で福岡は横浜F・マリノスに0-2で負けて勝ち点28・得失点差-18、市原はガンバ大阪に1-0で勝利し勝ち点28・得失点差-14となった。このためもし浦和が延長勝ちとなっても、勝ち点28で3チームとも並ぶものの得失点差-19で福岡に1点及ばないため年間順位15位となり、浦和のJ2降格が決定した。
そのような中で試合は続けられ、延長は後半まで進む。延長後半1分に小野のショートコーナーからペトロビッチからのゴール前へのクロスボールを福田が蹴り込み、Vゴールとなり勝負は決まった。この時、J1残留が決まったと思い抱きついてきた池田学とそれを振り払い号泣していた福田、小野や岡野の号泣する姿、ピッチに倒れこむペトロビッチのシーンなどから、その日のスポーツニュースで「世界で一番悲しいVゴール」と表現され、のちにこの試合と決勝ゴールがこう呼ばれるようになったといわれる。
[編集] 記録
[編集] メンバー
- 浦和レッドダイヤモンズ
- 監督:ア・デモス
- 選手
- サンフレッチェ広島
- 監督:エディ・トムソン
- 選手
[編集] 降格の影響
Jリーグの人気クラブであった浦和のJ2降格の影響は、翌2000年のJ1リーグ全体の平均観客動員数にも現れた。J1リーグの平均観客動員数が前年に比べて600人程減少し、逆にJ2リーグでは平均観客動員数が1500人程増加している。
[編集] その後のレッズ
翌2000年は、かつて浦和の前身である三菱重工業サッカー部を一年で一部へ復帰させた斉藤和夫を監督として迎え、J2を戦った。また、懸念されていた主力の流出がないどころか、当時鹿島アントラーズの主力だった阿部敏之、室井市衛、さらには、ポーランド人FWアンジェイ・クビツァを獲得するといった補強を行ったので、独走でのJ1復帰が予想された。
当初は首位を走っていた浦和だが、終盤が近づくにつれて失速。特に昇格争いのライバルで、首位でJ1復帰を決めたコンサドーレ札幌には3敗1引分と1勝もできなかった。その後、2位争いで大分トリニータに迫られるが、J2最終節となった浦和市駒場スタジアムでの11月19日のサガン鳥栖戦で土橋正樹の延長Vゴールで勝利し、辛くもJ1復帰を果たした。(2000年J2最終節参照)
また降格後に、この試合の日時を取り「NEVER FORGET 1999.11.27」、すなわち「この日のことを絶対忘れず、これからも戦おう」、というサポーターたちの合言葉となったといわれる。
ちなみに、2001年のJ1復帰後、降格が決まった試合の対戦相手であったサンフレッチェ広島には現在まで1度も負けてなく、更に広島がJ2に降格するときも延長戦までもつれた。
[編集] 関連項目
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