ガンバ大阪
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ガンバ大阪(がんば おおさか、Gamba Osaka)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
紙面での略称表記は、Jリーグ発足当初は「大阪」であったが、セレッソ大阪の昇格以降は「ガ大阪」もしくは「G大阪」となっている。現在の本拠地は、吹田市の万博記念競技場。将来的には高槻市が京都大学大学院農学研究科付属農場(京大農場)移転跡地に球技専用のスタジアムの建設を計画しているとの話があるが、2006年現在具体的な事は何も決まってはいない。
- 選手・監督についてはガンバ大阪の選手一覧の項を参照。
目次 |
[編集] 概要
1991年、Jリーグ加盟。ホームタウンは大阪府吹田市。ホームスタジアムは万博記念競技場。同スタジアムの隣接地にある万博記念公園スポーツ広場を練習場としている。クラブ名の「ガンバ(GAMBA)」はイタリア語でサッカーの原点である脚を意味する他、日本語の「頑張る」とも掛けている。当初は松下電器のAVブランド(現在はグローバルブランド)として使われる「パナソニック」の冠を被せ「パナソニックガンバ大阪」としていた。なお加盟時に松下がユニヴァーサル映画を買収した時期と重なり、強そうなのでスピルバーグの名作『ジョーズ』から大阪城にも引っ掛け「大阪ジョーズ」というチーム名が有力候補だった。しかし瀬戸内海にサメが出没する事件が勃発、この案は流れた。
マスコットは「ガンバボーイ」という名の雷小僧であり、ガンバって勝利を勝ち取る元気なサッカーボーイ。雷の形の闘志あふれるエネルギーをその手につかんでいる。 動物ではなく人をモチーフにした数少ないマスコットの一つ(J1では唯一の人をモチーフにしたマスコット)である。Jリーグの中では育成で成功しているクラブの一つで万博のユース、ジュニアユース、ジュニアの他に、門真・堺の両市にスクールを設置している。クラブでは吹田市の周辺の北摂地方の市町村をホームタウン活動エリアと位置づけている。2005年の優勝報告会は、吹田・茨木・高槻の3市で行った。
[編集] 歴史
1980年、前身の松下電器産業サッカー部として、奈良県社会人リーグ2部に加盟登録し、活動を開始。Jリーグ創設時からの加盟チームの一つであり、当初は関西で唯一のJリーグクラブだった。
[編集] リーグのお荷物と呼ばれた時代
かつての名選手釜本邦茂を監督にすえ、礒貝洋光・本並健治といった人気プレイヤーも抱えていたが、最下位争いの常連で成績は芳しくなかった。当時、ガンバは名古屋グランパス・浦和レッズとともにリーグのお荷物扱いであり、ハンス・オフトが日本代表監督を務めていた際には、Jリーグで唯一代表選手を輩出していなかった。1994年のナビスコカップでは準決勝で当時の天敵・ヴェルディ川崎に1-7の記録的大敗を喫し、川淵三郎チェアマンに「ガンバは消えてなくなれ」とまで罵倒された。更に第2ステージで7連敗を喫すると、フロントは同年限りで釜本の解雇を決定。
1995年は釜本の後を継いだヘルト監督の下、第1ステージ序盤には初の首位争いを展開したが、その後失速して負け続け、8連敗も喫した。終わってみれば前年以上に悲惨な成績であり、第2ステージの更なる低迷もあって結局ヘルトは1年で解任となった。
ヨジップ・クゼ監督の初年度となった1996年も、ヴェルディに4年目で初めて勝利したこと(この試合は前半にヴェルディに2点先制されたものの、後半に3点を返し、3-2で大逆転勝ちを納めたという試合だった)以外ファンを興奮させる出来事はなく、全体的に見ればチーム力は低いままであった。初の1ステージ制という状況の中、年間成績は初年度から参加の10チームの中で唯一、4年連続負け越していた(同じくお荷物として扱われていた名古屋グランパスエイトは21勝9敗。浦和レッズは19勝11敗で勝ち越しており、前年にはすでに躍進していた)。
[編集] 初の優勝争い、その後の低迷
1997年、カメルーン代表パトリック・エムボマを獲得。チームを一人で引っ張り同年得点王に輝いている。第2ステージにはチームとして当時最高の2位の成績も残し、初めて年間成績勝ち越しを達成したが、エムボマに頼りきった戦術は関係者やマスコミから多くの批判を受け、「エムボマがいないとガンバれない」と揶揄されることも多かった。事実エムボマがチームを離れるとあっという間に下位チームに逆戻りとなり、再び暗黒の時代を迎えた。
そんな状況の中、1990年代後半以降上野山信行育成・普及部長らが指導した、宮本恒靖、稲本潤一、大黒将志などユース出身の選手がトップチームに相次いで昇格していた。これらが2000年代のガンバの躍進にとって重要な戦力となる。
[編集] 再び上位チームへ、しかし…
2000年、ガンバは第1ステージにおいて、優勝争いを繰り広げたセレッソ大阪とは対照的に13位と大きく低迷するが、第2ステージでは鹿島アントラーズと久々に優勝争いを繰り広げた。しかしアントラーズとの天王山で敗れて優勝の可能性を失うと、最終節ではジュビロ磐田に大敗。
2001年には第1ステージは上位に食い込んだが、今度は第2ステージで低迷。2002年シーズンは第1・第2ステージ共に優勝争いに絡むが、どちらもジュビロとの天王山でことごとく勝てず、優勝を逃している。特に第1ステージの対戦では、一時は2点差を付けながらロスタイムに追いつかれ、延長で敗北を喫するという結果だった。
延長を廃止した初年度の2003年には、後半ロスタイムに幾度となく失点する姿が目立ち、終盤の集中力が幾度となく批判された。この年は、一時は降格の危機に立たされる羽目に陥ることとなった。2004年には上位チームに返り咲き、優勝争いに加わるが、やはり終了間際での失点癖や肝心な試合での黒星が目立ち、優勝することは出来なかった。
このようにほぼ毎年上位争いに絡むようになったものの、「終了間際に失点する」「天王山で勝てない」「終盤に失速する」「調子に波がある」を繰り返し、成長が見られない様子でファン苛立たせていた。優勝争いに加わったシーズンでも、どちらかのステージでは躍進するが、もう片方では低迷することが多く、調子に波があることの証明とも言われた。
また、2002年のコンサドーレ札幌や2003年のベガルタ仙台に対してのように、連敗記録を作っていたチームに久々の白星を与えるパターンも目立った。
[編集] 13年目の悲願
2005年もリーグ戦、カップ戦とも快進撃を見せるが、宮本の負傷以後は調子がやや下降。11月5日に開催されたジェフ千葉とのナビスコ杯決勝では、PK戦に持ち込むがPK職人と言われていた遠藤保仁が外したのが痛く、4-5で敗れ準優勝に終わる。
リーグ戦でも10月22日の大分トリニータ戦に敗れると、この試合以降1勝5敗と急激に失速。下位に低迷していた柏レイソルや大宮アルディージャにも黒星を喫し、11月26日には、ナビスコ杯で敗れたばかりの千葉に再び1-2で敗れ、残り1試合の時点でセレッソ大阪に抜かれ2位に後退。例年通りの結果を思い起こさせる展開で、多くのファンを失望させた。しかし最終節の川崎フロンターレ戦に4-2で勝利、勝点1差の首位だったC大阪がFC東京と引き分けたため、再逆転で悲願の初優勝を勝ち取った。後半ロスタイム突入直前にC大阪が同点に追いつかれ、その直後にガンバが駄目押しの4点目を追加、試合終了前の5分間で形勢が大きく逆転しての劇的な優勝だった(2005年J1最終節を参照)。
2005年は終わってみると、ガンバが勝点60で優勝。2位から5位までが勝点59で並ぶというJリーグ史上稀に見る混戦だった。この結果1993年のJリーグ発足当時の10チーム(1994年までにJリーグに参戦した12チーム)がすべて、何らかの主要タイトル(リーグ戦〔ステージ優勝を含む〕、ナビスコ杯、天皇杯)を獲得したことになる。また2位は浦和であり、Jリーグ創設時は最下位争いをしていた2チームが上位を占め、逆に創設期に黄金時代を築いたヴェルディのJ2降格が決定するという、13年前には想像もつかなかった事態が起きた。それは、ある意味Jリーグが大きく発展したと考えられる出来事でもあった。
優勝決定後、得点王となったアラウージョが2005年限りでの退団を発表、またチームでアラウージョに次ぐ得点を挙げた大黒将志もフランスへの移籍が決定した。
リーグ戦連覇を目指す2006年は攻撃力の低下が懸念されていたが、FWでマグノ・アウベス(前大分トリニータ)、播戸竜二(前ヴィッセル神戸)を獲得。更にMFで元日本代表の明神智和(前柏レイソル)を、DFでは現日本代表の加地亮(前FC東京)といった各チームの有力選手の獲得に成功。第33節時点でマグノ・アウベス、播戸の2人で41点を叩き出していることもあって、攻撃力の低下は見られず、首位・浦和に勝ち点3差の2位につけていたが、最終節の浦和との直接対決で敗れ、2連覇は達成できなかった。さらに2位の川崎フロンターレが勝ったため、3位に転落。来季のACLの出場権も逃した。今期は終盤チームの心臓と言ってもおかしくない遠藤の病気欠場が響いた。遠藤がいれば間違いなく連覇していただろうという意見は多々ある。
意外なようだが、草創期に最下位争いの常連だったにも関わらず、実際に最下位で終わったことは1度もない(ただしこれは各ステージでの話であり、1995年は年間総合成績が最下位だった)。また現在Jリーグに加入している関西のチームの中では、1度も降格を経験していない唯一のチームでもある。
[編集] 大阪ダービー
- 大阪府をホームタウンとするガンバ大阪とセレッソ大阪のダービーである。前者が吹田市で後者が大阪市。大阪を二分する熱いダービーである。
- これまでJ1リーグ戦で24試合行われた大阪ダービー。現在(2006年第22節現在)、ガンバ大阪が16勝と勝ち越している。2003年の1stステージで敗れて以来、現在ガンバ大阪が7連勝中。
- 現在でこそガンバが圧倒的に勝ち星を挙げているが、セレッソの昇格直後、1995年シーズン開幕前に行われた初対戦(プレシーズンマッチ)では3-0と完敗。その後も暫くは「良いカモ」にされていた。初対戦の直後には、本並が思わず「練習試合でも情けない。大阪の町を歩けない」と発言する一幕もあった。
[編集] 成績
年度 | サントリーシリーズ | NICOSシリーズ | 年間順位 |
---|---|---|---|
1993年(10チーム中) | 8位(8勝10敗) | 6位(8勝10敗) | 10位 |
1994年(12チーム中) | 10位(7勝15敗) | 10位(8勝14敗) | 10位 |
1995年(14チーム中) | 11位(10勝16敗) | 13位(8勝18敗) | 14位 |
年度 | 年間順位 | ||
1996年(16チーム中) | 12位(11勝19敗) | ||
年度 | 1st STAGE | 2nd STAGE | 年間順位 |
1997年(17チーム中) | 8位(8勝8敗) | 2位(12勝4敗) | 4位 |
1998年(18チーム中) | 14位(7勝10敗) | 16位(5勝12敗) | 15位 |
1999年(16チーム中) | 10位(6勝9敗) | 13位(5勝1分9敗) | 11位 |
2000年(16チーム中) | 13位(5勝2分8敗) | 4位(10勝5敗) | 6位 |
2001年(16チーム中) | 5位(9勝6敗) | 11位(5勝2分8敗) | 7位 |
2002年(16チーム中) | 4位(9勝1分5敗) | 2位(10勝5敗) | 3位 |
2003年(16チーム中) | 12位(4勝4分7敗) | 7位(6勝5分4敗) | 10位 |
2004年(16チーム中) | 4位(7勝3分5敗) | 3位(8勝3分4敗) | 3位 |
年度 | 年間順位 | ||
2005年(18チーム中) | 優勝(18勝6分10敗) | ||
2006年(18チーム中) | 3位(20勝6分8敗) |
[編集] 獲得タイトル
[編集] 個人タイトル
[編集] Jリーグ対戦通算成績(2006年シーズン終了時まで)
[編集] J1対戦通算成績
対戦チーム | 勝ち | 引分 | 負け |
鹿島アントラーズ | 10 | 4 | 20 |
浦和レッズ | 12 | 5 | 15 |
大宮アルディージャ | 2 | 0 | 2 |
ジェフユナイテッド市原・千葉(←ジェフ市原) | 15 | 3 | 16 |
FC東京 | 7 | 0 | 7 |
川崎フロンターレ | 4 | 1 | 1 |
横浜F・マリノス(←横浜マリノス) | 12 | 2 | 20 |
ヴァンフォーレ甲府 | 1 | 0 | 1 |
アルビレックス新潟 | 3 | 1 | 2 |
清水エスパルス | 16 | 2 | 16 |
ジュビロ磐田 | 10 | 2 | 18 |
名古屋グランパスエイト | 19 | 2 | 13 |
京都パープルサンガ | 9 | 0 | 7 |
セレッソ大阪 | 16 | 0 | 8 |
サンフレッチェ広島 | 14 | 2 | 16 |
アビスパ福岡 | 7 | 2 | 5 |
大分トリニータ | 4 | 0 | 4 |
合計 | 161 | 26 | 170 |
[編集] 個人記録
[編集] 最年少試合出場
- 17歳6ヶ月-稲本潤一(1997年)
[編集] 最年少得点
- 17歳7ヶ月-稲本潤一(1997年)
[編集] シーズン最多得点
- 33得点-アラウージョ(2005年)
[編集] 通算最多得点
- 61得点-マグロン
[編集] ハットトリック
- 4得点
- マグロン【2002年1st第8節(7月14日)・対清水エスパルス】
- 3得点
- 永島昭浩【1993年サントリー第7節(6月5日)・対名古屋グランパス】
- 松波正信【1993年NICOS第14節(11月20日)・対ジェフユナイテッド市原】
- 山口敏弘【1994年サントリー第7節(4月6日)・対ベルマーレ平塚】
- プロタソフ【1995年サントリー第20節(6月28日)・対清水エスパルス】
- エムボマ【1998年1st第7節(4月18日)・対柏レイソル】
- ドロブニャク【1998年1st第17節(8月8日)・対横浜フリューゲルス】
- 小島宏美【2000年1st第8節(4月22日)・対アビスパ福岡】
- 大黒将志【2004年2nd第8節(10月2日)・対セレッソ大阪】【2004年2nd第12節(11月6日)・対アルビレックス新潟】【2005年第7節(4月23日)・対FC東京】
- アラウージョ【2005年第13節(7月2日)・対東京ヴェルディ1969】【2005年第23節(9月10日)・対サンフレッチェ広島】
- フェルナンジーニョ【2006年第2節(3月12日)・対セレッソ大阪】
- マグノ・アウベス【2006年第2節(3月12日)・対セレッソ大阪】【2006年第33節(11月26日)・対京都パープルサンガ】
[編集] 記念ゴール
- Jリーグ通算10,000ゴール-前田雅文 2005年05月08日第11節 万博
[編集] ユニフォーム
[編集] チームカラー
- チームカラーは青色、黒色
カラー | 上衣 | パンツ | ストッキング |
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フィールドプレーヤー(正) | 青×黒 | 黒 | 黒 |
フィールドプレーヤー(副) | 青 | 青 | 青 |
フィールドプレーヤー(3rd) | 白 | 白 | 白 |
ゴールキーパー(正) | 水色 | 水色 | 水色 |
ゴールキーパー(副) | オレンジ | オレンジ | オレンジ |
[編集] ユニフォームスポンサー
- 胸 パナソニック(Panasonic)
- 袖 本格炭火焼肉 でん
- 背番号 ロート製薬
- パンツ シャディ
- なお1992年のナビスコ杯~1996年のシーズン終了までは背番号の下に「Matsushita Electric Industrial Co., Ltd.」ないしは「Panasonic/National」のクレジット、1997~2003年第1ステージまで背番号上部にナショナル(National)のロゴマークを入れていたが、同社の世界ブランドネームをパナソニックに統一することに伴いそのロゴを外すことになり、代って2003年第2ステージからロート製薬が背番号スポンサーとなった。また2004年夏季にロート製薬のロゴが変更されたがそのシーズンは旧ロゴのままで試合を行い、2005年度から新ロゴを着用している。また2005年のJ1リーグ年間チャンピオンチームであるため、2006年シーズンは日本サッカー協会のシンボルであるヤタガラスの付いたチャンピオンマークが右袖についている。
- AFCチャンピオンズリーグ2006に出場した際には親会社以外のスポンサーマークが認められないため、パナソニック以外のスポンサーマークを取り外したユニフォームが登場。本来ロート製薬のスポンサーマークがついている背中部分には選手名が記されていた。
[編集] ユニフォームサプライの遍歴
[編集] サポーターの著名人
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
ガンバ大阪 - 2006 |
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1 松代直樹 | 2 シジクレイ | 3 入江徹 | 4 實好礼忠 | 5 宮本恒靖 | 6 山口智 | 7 遠藤保仁 | 8 フェルナンジーニョ | 9 マグノ・アウベス | 10 二川孝広 | 11 播戸竜二 | 14 家長昭博 | 15 青木良太 | 16 前田雅文 | 17 明神智和 | 18 三木良太 | 19 中山悟志 | 20 寺田紳一 | 21 加地亮 | 22 藤ヶ谷陽介 | 25 丹羽大輝 | 26 伊藤博幹 | 27 橋本英郎 | 28 植田龍仁朗 | 30 横谷繁 | 31 木村敦志 | 32 岡本英也 | 33 安田理大 | 34 平井将生 | 35 ルーカス | 監督 西野朗 | クラブ | 編集 |
Jリーグ 2007 | |
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J1 | |
鹿島アントラーズ | 浦和レッドダイヤモンズ | 大宮アルディージャ | ジェフユナイテッド市原・千葉 | 柏レイソル | FC東京 | 川崎フロンターレ | 横浜F・マリノス | 横浜FC | ヴァンフォーレ甲府 | アルビレックス新潟 | 清水エスパルス | ジュビロ磐田 | 名古屋グランパスエイト | ガンバ大阪 | ヴィッセル神戸 | サンフレッチェ広島 | 大分トリニータ |
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J2 | |
コンサドーレ札幌 | ベガルタ仙台 | モンテディオ山形 | 水戸ホーリーホック | ザスパ草津 | 東京ヴェルディ1969 | 湘南ベルマーレ | 京都サンガFC | セレッソ大阪 | 徳島ヴォルティス | 愛媛FC | アビスパ福岡 | サガン鳥栖 |
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過去に存在したクラブ | |
横浜フリューゲルス | |
ナビスコ杯 | オールスターサッカー | チャンピオンシップ | 入れ替え戦 | アウォーズ |