コンサドーレ札幌
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コンサドーレ札幌(コンサドーレさっぽろ、Consadole Sapporo)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
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[編集] クラブの概要
1998年Jリーグ加盟。前身は東芝サッカー部。ホームタウンは北海道札幌市。ホームスタジアムは札幌ドーム(球団事務所も札幌ドームの敷地内の施設にあり、同一施設内にプロ野球・北海道日本ハムファイターズ球団事務所も入居している)と札幌厚別公園競技場。加えて年に1ないし2試合ずつを室蘭市にある入江運動公園陸上競技場、函館市にある千代台公園陸上競技場で行う。主な練習場は宮の沢・白い恋人サッカー場で、他に札幌ドーム・屋外サッカーグラウンドなども用いられる。チーム名は公募で決定したもので、「どさんこ」の逆さ読みに、ラテン風の「オーレ」(-ole)を組み合わせたもの。
[編集] 下部組織
U-18、U-15、旭川U-15、U-12。
長期間を睨んだ強化計画の一環として下部組織の充実に力を入れているのがコンサドーレの特徴のひとつであり、財政の緊縮化を図った2004年度においてさえ下部組織の予算は前年比で据え置かれている。U-18は2001年の日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会及び2005年の高円宮杯全日本ユースサッカー選手権(U-18)大会、U-15は2002年と2003年の高円宮杯全日本ユースサッカー選手権(U-15)大会でそれぞれ準優勝するなど、サッカーの後進地域と見られてきた北海道において着々と進歩を続けている。また、さらなる才能の発掘を目指し、旭川にもU-15のチームを置いている。
[編集] 歴史
[編集] 前身
前身の東芝サッカー部は1935年に神奈川県川崎市で結成され、日本サッカーリーグの中-後期は1部リーグで活躍する強豪実業団チームだった。しかし川崎は当時ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)が本拠地だったことから、川崎でJリーグ昇格を目指そうとしてもまず人気・実力でハンディキャップを背負ってしまう。札幌市が札幌ドームを将来的な本拠地とすることを目指したプロサッカーチーム誘致活動を実施中だったこともあり、1996年のシーズン開幕時に設立された運営会社・北海道フットボールクラブ株式会社が東芝サッカー部を受け入れることで、チームは札幌市に移転することになり、チーム名もコンサドーレ札幌と改められた。この時以来東芝とコンサドーレの間で資本的なつながりはないものの、東芝サッカー部の赤と黒を基調としたユニフォームはそのままコンサドーレに引き継がれ、サポーターの誇りとして応援歌にも歌われている。
[編集] 1996~1997年(JFL)
「北海道からJリーグチームを」の合い言葉のもと、アルシンド、ペレイラらJリーグでの実績を持つブラジル人選手を迎えて華々しく誕生したコンサドーレであったが、1996年(Jリーグ準会員承認)のプロ移行初年度はプロ選手と東芝から出向してきた社員選手が混在し、さらには期待されたアルシンドが審判への暴言で長期出場停止となりそのまま退団するなど、結局最後までチームは噛み合わず20勝10敗の5位に終わり、Jリーグ入りの条件である2位以内をクリアできなかった。しかし、そんな中でもルーキー吉原宏太の活躍など明るい材料もあり、シーズン後半は東芝社員選手を中心にしたチーム構成で内容が向上するなど、決して悲観するようなものではなかった。だが、シーズン終了後には上向きのチームを支えた東芝社員選手の契約更新がなされなかったことでクラブとマスコミ・サポーターの間に緊張関係が発生するなど、誕生したばかりのクラブとして運営の問題も表面化する。結局、チームに残る意思を示した選手は東芝を退社するというかたちで決着がついたものの、後味の悪さが残ったことは否めなかった。
翌1997年シーズンにはウルグアイからウーゴ・フェルナンデスを監督に招聘して本格的にJリーグを目指したチームは、周囲の期待通りに快進撃を続け、26勝4敗という成績で旧JFL優勝、念願のJリーグ昇格を果たした。また、パナマ代表FWホルヘ・ルイス・デリー・バルデスが40得点で得点王に輝いている。しかし、大きな親会社を持たず資金力に乏しいチームにも関わらず、昇格を急ぐあまりに選手獲得に多大な資金を投入したしわ寄せは既にこの頃から表面化し始め、慢性的な赤字体質に悩まされるようになる。
[編集] 1998年(Jリーグ)
戦いの場をJリーグに移した1998年、コンサドーレはトップカテゴリの洗礼を浴びる。1stステージでは内容的に善戦した試合も少なくなかったものの、結果としては4勝13敗と全く振るわず16位に低迷。この年は翌1999年からJリーグが2部制に移行する関係で、シーズン終了後にJリーグの下位チームとJFL優勝チームによるJ1参入決定戦が予定されていたが、このJ1参入決定戦に回るチームはこの年のリーグ戦の順位ではなく、1997~1998年2シーズン通算の順位ポイントによるものであった。1997年シーズンは下部リーグJFLにいたコンサドーレには1998年1シーズンのみの順位ポイントしか計算されず、2ndステージでよほどの好成績を挙げなければ参入決定戦に回ってしまう。巻き返しを期して臨んだ2ndステージではやや持ち直したが、フロントとの確執から10月にフェルナンデス監督が解任されチームは空中分解。石井肇ヘッドコーチが後任の座に就いたが持ち直すことが出来ず、結局12勝22敗で年間順位は14位(当時J1チーム数は18チーム)に入りながらも『1997~1998年2シーズン通算順位ポイント』で16位となってしまい、J1参入決定戦に回ることになる。このJ1参入決定戦でヴィッセル神戸・アビスパ福岡にそれぞれ2連敗を喫し、Jリーグ史上最初の降格チームとなった。J1参入決定戦を回避するために繰り返した選手補強も実らず、またJリーグに上がったことで伸びると思われた観客動員も思ったほどではなく、累積赤字は27億円以上にのぼった。
[編集] 1999~2000年(J2)
J2に降格となり、「1年でのJ1復帰」を目指したコンサドーレが切り札として迎え入れたのが、岡田武史前日本代表監督だった(他、元日本代表名塚善寛、鹿島アントラーズで優勝経験のある佐藤洋平らも入団)。日本を史上初のワールドカップ出場に導き、知名度と実績を兼ね備えた名将としてその手腕にかかる期待は大きかったが、Jリーグでの監督経験がなかったことが災いしてなかなかチームを作り上げることができず、また外国人選手の獲得にも失敗したため、昇格争いに絡むことすら出来ずに、この年は17勝13敗6分5位で終了、A代表・五輪代表にも選出され人気・実力共にチームの柱であった吉原がガンバ大阪に移籍してしまう。J2降格によるスポンサー料の収入減もあり、累積赤字もついに30億円を突破し、経営状態は泥沼となっていた。
そのため、翌2000年は就任2年目の岡田監督がクラブの経営見直しも図り、徹底した緊縮財政を断行。同時に選手の獲得も自ら行い、野々村芳和、播戸竜二、大森健作、アウミールら自らの眼鏡にかなう選手を集めた。そしてブラジルの名門サンパウロFCからエメルソンという強力なブラジル人ストライカーが加わった(この他、大きな活躍は無かったが、1993年アメリカW杯予選日本代表で「アジアの大砲」と呼ばれた高木琢也も入団し、若手選手の模範となった)。理想をいったん捨て、下部リーグを戦うための戦術を確立し、それを実行できる選手を各ポジションに揃えたこの年のチームは、J2を31勝4敗5分という圧倒的な成績で制覇する。とくにJ1から降格してきた浦和レッズとの4度にわたる激闘は今でも語りぐさになっている。この好成績に押されて観客動員数も増え、この年コンサドーレは初めて単年度黒字を達成する。何もかもがうまく行った年であった。しかし、少ない予算でJ1昇格を狙うためにクラブが採った策は、主力選手をレンタル移籍に頼り、メンバーを固定して戦うというものだった。その結果、スターティングメンバー11人のうち、エースのエメルソンを含む8人がレンタル選手という、異常なチーム編成ができあがっていた。地元北海道出身の山瀬功治という期待のルーキーが出てきたとはいえ、その実体は砂上の楼閣であった。
[編集] 2001年(J1)
再びJ1で戦うチャンスを得たコンサドーレにとって、このレンタル依存体質からの脱却が優先事項となり、とりわけ31得点でJ2得点王を獲得したエメルソンの完全移籍が至上命令であった。この完全移籍のための資金を捻出する方法としてクラブが摂ったのは、サポーターから増資を募ることだった。2億5千万円という途方もない金額を集めるのは無謀ともいわれたが、最終的には目標を大きく上回る3億円近くの資金を集めることに成功する。この増資の最大の目的だったエメルソンが金銭面の理由で退団してしまうが、その資金(いつからか「エメルソン基金」と呼ばれるようになった)をもとに他の主力選手を完全移籍させ、またエメルソンに替わるストライカーとして大分トリニータのFWウィル・ロブソン・エミリオ・アンドラデをレンタルで獲得した。
J1復帰となった2001年は、開幕戦でセレッソ大阪にアウェイで競り勝ち幸先のいいスタートを切ると、続く柏レイソル戦でも勝利。勢いに乗った札幌は一時は2位にまで上がるなど予想以上の戦いぶりを見せ、またウィルが24得点で得点王を獲得する活躍もあり、10勝15敗5分の11位でクラブ史上初のJ1残留を果たす。また、同年完成した札幌ドームの集客効果も加わり、平均観客動員数は2万人を突破。2年連続で単年度黒字を達成した。さらに、前年の山瀬(この年J1最優秀新人選手賞を受賞)に続きこの年も新人の今野泰幸が高卒1年目でレギュラーを獲得しユース代表にも選出され、自チームでの戦力養成にも道筋がつき始めた。ようやくチーム全体が軌道に乗り始めたかと思われたが、その矢先にこのシーズンいっぱいを以て岡田監督が退任し、またエースのウィルが横浜F・マリノスへ、ウィルと2トップを組み9得点を挙げた播戸がヴィッセル神戸へそれぞれ移籍してしまう。さらに名塚善寛がケガの影響で引退、主将の野々村芳和もケガの影響もあり戦力外となって引退してしまった。カリスマ的な存在だった監督と、チーム総得点の実に4分の3を叩きだした2トップ、さらには精神的支柱まで丸ごと失ったチームは、再び迷走を始めることとなる。
[編集] 2002年(J1)
岡田監督の引き留めに失敗したクラブは、新監督としてS級ライセンスを取得したばかりで監督経験の無い柱谷哲二を迎え入れ、ウィルに替わるストライカーはロシアリーグの強豪スパルタク・モスクワからブラジル人FWロブソンを、そして日本人選手では小倉隆史(アトランタオリンピック予選日本代表)、小島宏美らを獲得して翌2002年シーズンに臨む。しかし、そうでなくとも戦力的に恵まれていないチームをJ1に残留させるのは、新人監督には荷の重い作業であった。ロシアリーグ得点王(後にこの経歴は虚偽と判明)、UEFAチャンピオンズリーグ出場という肩書きをひっさげて鳴り物入りで入団したロブソンも、ふたを開けてみればまったく振るわず、チームは開幕から黒星を重ねてしまう。結局ロブソンは同年入団したDFマクサンドロと共に5月末に退団、柱谷監督も6月に解任される。
クラブは後任の監督として レアル・オビエド(スペイン)のチームコーディネータを務めていたユーゴスラビア(現:セルビア)人のラドミロ・イバンチェビッチを招聘し、また同じくユーゴスラビア(現セルビア・モンテネグロ)人FWバーヤック、ブラジル人MFジャディウソンの2人の外国人選手をはじめ、日本人選手も次々と獲得して立て直しを図ったが、試合内容は改善したものの勝負弱さは払拭できず、成績は一向に上向くことなくイバンチェビッチ監督は9月にほぼ解任に近い形で辞任してしまう。わずか4ヶ月という就任期間であった。後任には張外龍ヘッドコーチが内部昇格したが、もはや一度狂った歯車は元には戻らなかった。
2002年10月27日のカシマスタジアムでの鹿島アントラーズ戦、2-2で迎えた延長前半ロスタイムに鹿島の石川竜也にVゴールを決められた瞬間、コンサドーレの2度目のJ2降格が確定した。シーズン通算では5勝24敗1分、最下位に終わっている。度重なる監督交代や選手獲得によりチームの財政は再び悪化、9千万円近い赤字となった。
[編集] 2003年(J2)
2度目のJ2を戦うこととなったコンサドーレは、再度1年でのJ1復帰を掲げ、鹿島アントラーズ、名古屋グランパスエイトでリーグ制覇と天皇杯優勝を果たした実績を持つジョアン・カルロスを招聘(その代わり、過去に同監督と確執・衝突のあった小倉に退団を決意させてしまう)。また横浜F・マリノスを退団していたウィルを呼び戻し、MFホベルッチ、MFベットという2人の元ブラジル代表選手を獲得。若手のホープだった山瀬功治が浦和レッズに移籍したものの、U-20日本代表主将今野泰幸を含めてJ2トップクラスの戦力を揃えることに成功した。
ところが、開幕戦で横浜FCに1-3で完敗してスタートダッシュに失敗。期待されたブラジルトリオもベットがホームシックで帰国し退団、ケガで療養中のウィルが深夜の繁華街で傷害事件を起こしそのまま退団、ホベルッチも監督との確執が原因で退団と、全員がシーズン半ばで退団してしまう。その後MFビタウ、FWアンドラジーニャ(大分トリニータ在籍中の2002年、J2得点王)、オランダ人MFウリダとJリーグでの実績を持つ助っ人を獲得するも、戦い方は安定しないまま2003年8月2日のアルビレックス新潟とのアウェイ戦で1-5の大敗を喫したのを最後にジョアン・カルロス監督が辞任。後任は再び張外龍監督となったが、既にチームには巻き返すだけの余力はなかった。J1昇格どころか昇格争いにすら絡めないまま13勝18敗13分の9位というクラブワーストの記録でシーズンを終えた。J1昇格のために繰り返した選手獲得と、成績低迷や不祥事による観客動員の低迷により、この年2億8千万円もの赤字を出す。累積赤字は再び30億円を突破し、債務超過も4億5千万円にまで膨らんでしまう。この結果、クラブは大幅な方針転換を強いられることとなる。
[編集] 2004年~現在(J2・柳下正明体制時代)
2003年に社長に就任した佐々木利幸のもと、事実上の倒産状態から生き残るためには抜本的な改革が必要と判断したクラブは、この年の末に、その方針転換の指標となる「5段階計画」を打ち出した。 それは、人件費をはじめとした経費の圧縮により経営の黒字化を図り、債務超過を解消すると同時に、若手主体のチーム編成とユースチームの強化を軸とする長期育成計画を立て、レンタル移籍や外国籍選手に頼らずともJ1で安定して戦えるチーム作りを目指すというものである。 この計画を実行するにあたっては、当然若手育成に最適な監督を捜す必要があったが、ちょうどジュビロ磐田でユースやサテライトチームの監督を長く努め、同トップチームの監督を務めていた柳下正明が契約延長をせず退団する意思を発表したことから、彼に白羽の矢が立った。
この5段階計画の元年の2004年シーズンは、監督の柳下こそ同年元日の天皇杯を制した実績があるものの、中心選手だった今野や高年俸のベテラン選手・外国籍選手を放出し、逆に加入選手はユースからの昇格者2人を含む大量8人もの新人選手と、テスト生から入団した元磐田・静岡FCの清野智秋のみという極端な補強体制でシーズンに臨んだ。 開幕戦のホームゲームではヴァンフォーレ甲府にロスタイムに追いつかれはしたものの、その内容はおおむね満足できるもので順調なスタートが切れたかに見えた。 しかし、プロ3年目までの選手が大半を占めるチームならではの戦力・経験不足を露呈し、さらに三原廣樹の大ケガによる戦線離脱や新居辰基及び中尾康二の不祥事による契約解除(解雇)もあって途中から全く勝てない状況に陥る。 育成面で定評のある柳下監督の指導のもと、試合を追うごとに内容は改善されていったが、ある意味で勝利を度外視して若手育成にあてたメンバー構成のチームではなかなか勝ちを重ねることが出来ず、この年は5勝24敗15分でJ1経験チーム初のJ2最下位に終わった。 しかしこの年の終わりに行われた天皇杯ではJ1のジェフユナイテッド市原、大分トリニータを破りベスト8に進出。準々決勝でジュビロ磐田に敗れはしたが、チームが確かな成長をしていることを示した。 経営面では経費の削減が実を結び、今野がFC東京へ移籍した際の移籍金も含めて、クラブ史上最高の約3億5千万円の黒字を達成したことにより債務超過は一気に1億円以下にまで減少した。
柳下監督体制2年目となった2005年は、正GK藤ヶ谷陽介がガンバ大阪へ移籍したものの、サンフレッチェ広島からGK林卓人、鹿島アントラーズからDF池内友彦ら経験と実力を持つ選手を補強し、戦い方自体は未だ不安定ではあったが地力をつけたシーズンとなった。 シーズン中にクラブ取締役が女子中学生買春容疑で逮捕されるという不祥事があり、大手スポンサーである学習塾が撤退するなど大きな動揺をもたらす事態や、主力選手の負傷による長期離脱もあったものの、第4クール後半までJ1昇格戦線に食い込む。 順位は6位と、シーズン当初目標としていた5位以内には入らなかったものの、成績の回復や新たな営業活動により観客動員・広告収入が回復して債務超過額も約4200万円となり、柳下が2006年も指揮を執ることとなった。
柳下監督体制3年目となった2006年は、前川崎フロンターレのFW、フッキを補強。他にもJ2クラブの主力選手を補強し、J1昇格争いに挑んだ。序盤戦は大塚ら主力の怪我も相まって思うように成績は伸びなかったが、フッキが出場停止癖を解消すると、シーズン中盤以降になり状況は改善されシーズンを6位で終了。天皇杯ではJ1のジェフ千葉、アルビレックス新潟を破るなど来季に向けて期待できる戦力になりつつあった。フロントは柳下の契約更新を求めたが、「3年でJ1に上げられなかった責任」という申し出を尊重し、11月末にはシーズン末での退任が決まった。
[編集] 道外での公式戦主催
- コンサドーレ札幌は札幌市など北海道各地で公式戦を行っているが、本拠地移転後の1996年から1998年の一部公式戦は道外で開かれている。これは厚別競技場の改修(1996、98年)や、道内の他のスタジアムにナイター照明塔がないこと、また冬季の積雪に伴う競技場の閉鎖などがあげられる。
- その為1996年は平塚競技場と町田陸上競技場、1997年(ナビスコカップ予選)は長崎陸上競技場、長良川競技場、熊本水前寺競技場、1998年は平日のナイターに限り仙台スタジアムでそれぞれ主催ゲームを行った。
- また、J1リーグ在籍の2001年と2002年には春季キャンプを行った高知県春野総合運動公園陸上競技場でも主催試合を行っている。
[編集] チーム成績・歴代監督
年度 | 所属 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | 監督 | 総監督 |
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1992年 | 旧JFL1部 | 18 | 23 | 6 | 7 | 5 | 5位 | 高橋武夫 | ― |
1993年 | 18 | ― | 11 | 7 | ― | 3位 | ― | ||
1994年 | 旧JFL | 30 | ― | 11 | 19 | ― | 11位 | ― | |
1995年 | 30 | 46 | 15 | 15 | ― | 8位 | ― | ||
1996年 | 30 | 62 | 20 | 10 | ― | 5位 | ― | ||
1997年 | 30 | 76 | 26 | 4 | ― | 優勝 | ウーゴ・フェルナンデス | ― | |
1998年 | J・1st | 17 | 11 | 4 | 13 | ― | 16位 | ― | |
J・2nd | 17 | 24 | 8 | 9 | ― | 10位 | ウーゴ・フェルナンデス/石井肇 | ― | |
1999年 | J2 | 36 | 55 | 17 | 13 | 6 | 5位 | 岡田武史 | ― |
2000年 | 40 | 94 | 31 | 4 | 5 | 優勝 | ― | ||
2001年 | J1・1st | 15 | 21 | 6 | 6 | 3 | 8位 | ― | |
J1・2nd | 15 | 13 | 4 | 9 | 2 | 14位 | ― | ||
2002年 | J1・1st | 15 | 6 | 2 | 13 | 0 | 16位 | 柱谷哲二/イバンチェビッチ | ― |
J1・2nd | 15 | 9 | 3 | 11 | 1 | 16位 | イバンチェビッチ/張外龍 | ― | |
2003年 | J2 | 44 | 52 | 13 | 18 | 13 | 9位 | ジョアン・カルロス/張外龍 | ― |
2004年 | J2 | 44 | 30 | 5 | 24 | 15 | 12位 | 柳下正明 | ― |
2005年 | J2 | 44 | 63 | 17 | 15 | 12 | 6位 | ― | |
2006年 | J2 | 48 | 72 | 20 | 16 | 12 | 6位 | ― |
[編集] 獲得タイトル
- 1997年 旧JFL(ジャパンフットボールリーグ)優勝
- 2000年 J2リーグ優勝
[編集] チームカラー
- チームカラーは赤(ファイティングスピリットの象徴)、黒(北海道の大地=無限大のパワーを象徴)、白(フェアプレイ精神の象徴であり、マスコットのシマフクロウや雪の色でもある)、ブルーグレー(深い針葉樹林の色=その静かさを冷静な判断力の象徴)である。また赤と黒は、実業団チーム時代の母体・東芝のコーポレートカラーであり、実業団チーム時代からのチームカラーの名残り、すなわち伝統の象徴でもある。
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[編集] ユニホームスポンサー
[編集] 過去のユニホームスポンサー
[編集] ユニホームサプライの遍歴
[編集] マスコット
- ドーレくん
- 北海道に生息するシマフクロウがモチーフ。チーム名のイニシャル「CS」が白い文字で入った赤いシャツと黒いパンツを着用。
- オフィシャルダンスドリルチーム。ホームゲームの試合前・ハーフタイムにパフォーマンスを行う。サッカーチームでは初めてのクラブ専属ダンスチーム。ミスダンスドリルチーム日本大会で優勝の経験もある実力派。サテライト、ユースなどの下部組織を持ち、若手の育成にも力を入れている。近年、キックオフ50分前のパフォーマンスの際、アウェイ側ゴール裏でコンサドールズとともに踊る一団が現れ、「ドールズサポーター」「アウェイドールズ」などと呼ばれ、コンサドールズとともにコンサドーレホームゲームの名物となっている。
[編集] チーム名変遷
- 1935年~ 東芝堀川町サッカー部
- 1980年~ 東芝サッカー部
- 1996年~ 北海道フットボールクラブ・コンサドーレ札幌
[編集] 関連項目
- コンサドーレ札幌の選手一覧
- コンサドーレ札幌に在籍した全選手一覧
- コンサドーレ (小惑星)
[編集] 外部リンク
[編集] 公式サイト
[編集] 道央
[編集] 道北
[編集] 道南
[編集] 道東
[編集] 道外
[編集] コンサドーレ協賛番組サイト
[編集] ファン・サイト
- "Consadole SAPPORO Information" ~世界じゅうのコンサドーレ札幌サポーターが集まるコミュニティサイト~
- CONSA DE CONSA
- 秒刊コンサドーレと北海道のカレー屋
- 秒刊コンサドーレ避難所の避難所なのれす。。。
- 赤黒千年宮 -コンサドーレ札幌サポーターズサイト
- CONSAにYELL!
- こんさアンテナ
- 美唄発コンサドーレ
- Consadole12.com
- ALWAYS
- 赤黒蹴球団
- CONS@FUL
- コンサでどーだ
- コンササポーターになりたい!
[編集] ファン・ブログ
- コンサと僕と厚別で!
- ALE!!!SAPPORO ~コンサと替え歌の日々~
- コンサと共に歩いていこう!
- Red and Black is My Life
- コンサでしょ
- きたのくにから哀をこめて in ホタテ御殿
- 深川からコンサドーレを叫ぶ!
- 名もなきサポーターの戦いの詩
- サッカー百鬼夜行
- 赤黒アフロの思う事
- Consadole World 3
- コンサドーレ札幌J1復活計画!
- コンサと生きる
- オガタクのコンサ魂確変中!
- こりとりもみ
コンサドーレ札幌 - 2006 |
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1 林卓人 | 2 岡田佑樹 | 3 西澤淳二 | 4 曽田雄志 | 5 池内友彦 | 6 西嶋弘之 | 7 和波智広 | 8 砂川誠 | 9 石井謙伍 | 10 フッキ | 11 相川進也 | 13 中山元気 | 14 鈴木智樹 | 15 加賀健一 | 16 大塚真司 | 18 芳賀博信 | 19 関隆倫 | 20 上里一将 | 21 金子勇樹 | 22 川崎健太郎 | 23 千葉貴仁 | 25 藤田征也 | 27 西大伍 | 28 高原寿康 | 29 西谷正也 | 30 セバスティアン | 31 佐藤優也 | 監督 柳下正明 | クラブ | |
Jリーグ 2007 | |
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J1 | |
鹿島アントラーズ | 浦和レッドダイヤモンズ | 大宮アルディージャ | ジェフユナイテッド市原・千葉 | 柏レイソル | FC東京 | 川崎フロンターレ | 横浜F・マリノス | 横浜FC | ヴァンフォーレ甲府 | アルビレックス新潟 | 清水エスパルス | ジュビロ磐田 | 名古屋グランパスエイト | ガンバ大阪 | ヴィッセル神戸 | サンフレッチェ広島 | 大分トリニータ |
|
J2 | |
コンサドーレ札幌 | ベガルタ仙台 | モンテディオ山形 | 水戸ホーリーホック | ザスパ草津 | 東京ヴェルディ1969 | 湘南ベルマーレ | 京都サンガFC | セレッソ大阪 | 徳島ヴォルティス | 愛媛FC | アビスパ福岡 | サガン鳥栖 |
|
過去に存在したクラブ | |
横浜フリューゲルス | |
ナビスコ杯 | オールスターサッカー | チャンピオンシップ | 入れ替え戦 | アウォーズ |