横浜F・マリノス
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横浜F・マリノス(よこはま えふ・まりのす、Yokohama F. Marinos)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。旧名称は横浜マリノス。
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[編集] クラブの概要
- 1991年、Jリーグ加盟。Jリーグ創設時からの加盟チームのひとつである。
- ホームタウンは神奈川県横浜市。下部組織の練習会場として長年利用されてきた横須賀市も2005年度から加えられた。ホームスタジアムは日産スタジアムと三ツ沢公園球技場。近年は日産スタジアムをメインに使用し、カップ戦(AFCチャンピオンズリーグ含む)等は三ツ沢(球)を利用している。
- クラブの法人事務所は横浜市神奈川区新子安にある。
- 練習場は、Jリーグ発足から横浜フリューゲルスとの合併前までは横浜市鶴見区の獅子ヶ谷グラウンドを用い、合併後はフリューゲルスの練習場であった戸塚区の戸塚トレーニングセンターに移転した。横浜国際競技場完成後は、日産フィールド小机(小机陸上競技場。横浜国際の補助トラック)でも練習を行っている。そして2006年、みなとみらい21地区に建設中の複合施設であるマリノスタウンに、練習場やクラブハウスなどクラブの全機能を移転する。(しかしチームの財政難によりマリノスタウンの規模を縮小し、選手やスタッフ専用の食堂や選手寮等の建設が中止になると言う話や、隣接しているオフィシャルショップの売り上げも低迷しているとの事で、日産自動車はこれを問題視しており、平日の営業を取り止め、休日のみの営業を検討しているとの話も上がっている。)
- チーム名の「マリノス(Marinos)」は、スペイン語で船乗りを意味する。チームカラーは「青・白・赤」のトリコロール(三色)。これは元々日産自動車のコーポレートカラーであったものである。
- 2001年から、球団社長は左伴繁雄(ひだりとも・しげお 1955年10月26日- )。慶応義塾大学卒で、1979年に日産自動車に入社し、厚木研究所の人事部門など担当、事業部門にチケット販売のプロを、地元の広告スポンサーを招き、補強の原資を支え、2003・2004両年の横浜の連覇に貢献。またユースやスクールを増強して生徒を就任当時のスクール生900人を、2004年12月現在3000人に増やすなど努力した。しかし近年は社長の行動が地域密着やサッカー文化の熟成とは関係しないただの営利目的と受け止められる事が多い事からサポーターとの信頼関係を損ねている。2005年は『Colored Blue 宣言』(サポーターに青いシャツを着る事を推奨したもの。但し本来チームカラーは青・白・赤の三色)を発表した事、2006年3月25日の浦和レッズ戦(日産スタジアム)で本来横浜F・マリノスのサポーターにのみ許された横断幕の掲出場所を運営の都合としてサポーターの了承も無く勝手に浦和レッズに提供した事、更に同年9月9日の川崎フロンターレ戦(日産スタジアム)で自民党横浜市連に2000人分のチケット購入と引き換えにスタジアム内での政治活動を容認(一時政治家名ののぼりが立てられたがサポーターの抗議により撤去された)した事等、ピッチ外でのトラブルの原因を産み出した。これらの事を含め多くのサポーターに反感を向けられている。
- 2003年にはブラジル代表にも選ばれたカフーと契約を結ぶが、カフーは来日せず、結局セリエAのACミランに入団した。
- 伝統的に優秀なディフェンダーが多く、日本代表の守備陣を多く輩出している。
- 杮落としの試合をアウェイチームとして迎えることが多く、1993年のJリーグ開幕戦(対ヴェルディ川崎・国立霞ヶ丘競技場)、2001年の埼玉スタジアム2002オープニングゲーム(対浦和レッズ)、同年の札幌ドームのサッカー競技場としてのオープニングゲーム(対コンサドーレ札幌)、これまた同年の神戸ウイングスタジアムのオープニングゲーム(対ヴィッセル神戸)、2005年のフクダ電子アリーナオープニングゲーム(対ジェフ千葉)などを戦っている。しかも、これらの試合では一度も負けたことがなく、「杮落とし無敗神話」とも言われる。また、日産スタジアムにおいては、1998年のダイナスティカップの日本-韓国戦が杮落としであったが、Jリーグの試合では横浜マリノス-横浜フリューゲルスの「横浜ダービー」が初試合である。
[編集] クラブの歴史
[編集] 前身
1972年、神奈川県横浜市で「日産自動車FC」を設立した。読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ1969)を参考にユース(高校生)などの下部育成組織を早くから整備。JSL1部は、79-80年に昇格。 日本初のプロ監督・加茂周のもとチームは上位を必ずキープし、1988~89年度の日本リーグ、JSL杯、天皇杯の当時の日本サッカー主要大会三冠を達成した。 金田喜稔や水沼貴史、木村和司、井原正巳など数々の日本代表を輩出してきた。名門である読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ1969)との対決は、「黄金カード」として、Jリーグでも、人気カードとして愛されている。しかし2006年はヴェルディがJ2に降格、天皇杯でもヴェルディが早期敗退した為、伝統の一戦が27年ぶりに行われなかった。
[編集] 1991年~1998年(横浜マリノス時代)
1991年に、Jリーグ加盟。1993年5月15日のJリーグの開幕試合(対・ヴェルディ戦)を2-1で制した。1995年には、リーグ初優勝を果たした。
1999年に横浜フリューゲルスを吸収合併し、現在の名称となった。「F・マリノス」の「F」は、横浜フリューゲルス(FLUGELS)の頭文字から取ったものである。なお、フリューゲルスはマリノスのチーム史では傍系(別チーム)として扱われるので、フリューゲルスの優勝回数や個人賞などの記録はマリノスに通算されない。
[編集] 1999年~現在(横浜F・マリノス時代)
2000年に5年ぶりとなる1stステージでの優勝を果たしたが、2ndステージ優勝の鹿島アントラーズに敗れ、年間チャンピオンにはならなかった。 2001年シーズンは、主軸の三浦淳宏、柳想鉄の移籍もあって、1stステージでは15位という不本意な成績に陥り、以後、まさかの残留争いに巻き込まれてしまう。しかし、その翌年、ジュビロ磐田からは奥大介、清水範久、コンサドーレ札幌からは、ウィルなど各チームの主力選手を補強し、2002年シーズンの1stステージは2位と好発進した。そして2003年に岡田武史監督が就任、この年J2へと降格したサンフレッチェ広島から久保竜彦、そして翌年韓国のエースFW安貞桓などを補強し、2003年から翌2004年第1ステージにかけて、3ステージ連続優勝を達成。2004年第2ステージは浦和レッズが優勝したため、年間王者はサントリーチャンピオンシップで決める事に。1戦目、横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)での対戦は河合竜二が決め、1−0で勝利。2戦目、埼玉スタジアムでの対戦は、三都主に決められ0−1。延長戦では決着が着かず、PK戦で勝利し2年連続王者となった。しかし2005年は、期待されたACLでのグループステージ敗退、主力選手の怪我などがリーグでの成績にも影響したのか年間9位と不振であった。2006年は、元名古屋グランパスエイトのFW、マルケスを補強。またみなとみらいへのクラブ移転(『マリノスタウン』)など、名門も節目を迎えることになった矢先に、成績不振で、シーズン途中の8月に岡田監督が辞任、後任に水沼貴史コーチが監督に昇格した。それでもJ2降格を逃れるのが精一杯で、前年と同じ9位で終了した。シーズン途中で辞任した岡田監督の後任監督として就任した水沼貴史監督は、天皇杯終了後に辞任する事が既に決定しており、来シーズンより1995年~1996年シーズンを指揮した早野宏史氏が11年振りにチーム監督に復帰する。尚、早野宏史氏の監督就任は天皇杯終了後に正式発表となる模様(奇しくも、早野宏史は水沼貴史が現役引退した年に、マリノスを優勝に導いている)
[編集] ユニフォームについて
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[編集] 配色について
- ユニフォームのデザインは基本的に上:青、下:白、靴下:赤のトリコロールである。これは日産FC時代から続いた伝統である。
- 副は長らく上:白、下:青、靴下:白でメインとの色違いであるデザインを採用していたが、2003年以降はこの配色を取り止めた。
- 2001年は黒の第3ユニフォームが誕生した。これは海外クラブに倣いチームカラーと関係無い色調のユニフォームを取り入れたものである。尚、2003年は第3ユニフォームの採用を取り止めた。
- 2002年は上衣が青と紺のツートンのユニフォームを採用した。(上:青/紺、下:白、靴下:赤) これはYC&AC(横浜カントリー・アスレチッククラブ)で使われた紺と白の概念を取り入れたものである。
- 2003年は上下靴下全て紺のユニフォームで戦った。尚、副は上:白/シルバー、下:黒(チェンジショーツはシルバー)、靴下:シルバーであった。トリコロールの封印は「名門復活なるまでは」という左伴繁雄社長の大号令に基づくものであった。この年はJリーグ始まって以来の球団史上最高位となる完全優勝を納めた。名門復活を果たし、翌2004年には再び伝統のトリコロールのユニフォームに戻した。
[編集] 現在のユニホームスポンサー
[編集] 過去のユニホームスポンサー
- 日本コダック(1993-98 背番号上部)
- ブリティッシュ・ペトロルフ(潤滑油)(1993-95 袖)
- ザナヴィ(1996-98 袖)
- Fuji ten (2000-2001 袖)
- Naturally Plus (2003・2ndステージ パンツ)
[編集] ユニホームサプライの遍歴
- 1992年~1996年 リーグ戦はミズノ、カップ戦はアディダス(デサント)
- 1997年~ リーグ戦・カップ戦ともにアディダスに統一 (厳密には1998年まではデサント社、1999年以降はアディダス・ジャパン社)
[編集] 補足
[編集] スポンサー契約について
- フリューゲルスとの合併で日産自動車と全日本空輸の共同経営を行った後、一旦2002年2月1日付で全日空が同社からの資本を引き揚げ(ユニホームスポンサーについては継続)日産の完全出資となったが、2005年2月1日付を持って第3者割当増資を行い、日産のほか以下の企業からの出資を受けた。
[編集] 表記略称について
新聞・雑誌等の表記略称は「横浜M」もしくは「横浜FM」とすることが多い。しかし、横浜FCがJ2リーグに昇格するまでの2年間(1999~2000年)は横浜市をホームタウンとするJリーグのクラブがマリノスのみだったことから、単に「横浜」と表記されたことがあり、現在も日刊スポーツ、スポーツニッポン、サッカーダイジェストなどではマリノスを「横浜」と表記している。また、2006年まで横浜FCとは別カテゴリ(マリノスはJ1、横浜FCはJ2)に所属していたので、J1のみについて扱うなど、特に紛らわしくない場合は単に「横浜」とすることも多かった(これは横浜FCについても同様である)。横浜FCが昇格し、2007年度より同じJ1に所属することになるため、媒体により略称を変更する可能性がある。なお、Jリーグ公式サイトでは「横浜FM」、totoでは「横浜M」である。
Jリーグ発足当時は「横浜M」「横浜マ」と表記するマスコミが多かったが、読売新聞とフジテレビ「プロ野球ニュース」では、横浜フリューゲルスの本拠地が横浜市(ホームタウン)と九州地方(特別活動地域。長崎県、熊本県、鹿児島県)にまたがる特殊な扱いであったこと、またプロ野球ニュースでは全日空が番組スポンサーだったこともあり、やはり略称を「横浜」のみで出したことがあった(同時期読売系のスポーツ報知、日本テレビは「日産横浜(マリノス)」と表記)。
[編集] その他
- Jリーグ発足時、同じ横浜市をフランチャイズとしていたマリノスとフリューゲルスが同じ日にホームゲームを組むことがあった。しかし、Jリーグではスタジアムの芝生保護や観客入れ替えなどの観点上、変則ダブルヘッダーの開催を認めていなかったので、マリノスが三ツ沢(球)、フリューゲルスは九州地方(特別活動地域の長崎県・熊本県・鹿児島県の3県)または国立などで試合を行うことがあった。なお1995年以後はホームゲームの開催日が調整され、同じ日にマリノスとフリューゲルスの主催試合を重複開催することは皆無となった。
下部組織が非常に充実しており横浜Fマリノスプライマリーが2006年全日本少年サッカー大会で優勝したことにより同大会で前人未到の大会3連覇を達成し、2006年大会においては横浜Fマリノスプライマリー追浜も3位入賞を果たしている。
また横浜Fマリノスジュニアユース追浜も全国制覇を成し遂げておりユースもプリンスリーグで優勝を成し遂げている。ユースからは能力の高い選手が多く輩出されている。
主なマリノスユース出身者は以下の通り
石川直宏(現FC東京)、谷口博之(現川崎フロンターレ)、丹羽竜平、大久保翔(以上ヴィッセル神戸)、飯倉大樹(現ロッソ熊本)、ハーフナー・マイク、秋元陽太、天野貴史、坂田大輔、栗原勇蔵、榎本哲也、田中隼磨、斉藤陽介、田代真一、長谷川アーリアジャスール(以上横浜Fマリノス)
[編集] Jリーグ年度別成績
年度 | リーグ | J1/J2 | 順位 | 成績 |
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1993年 | サントリー | J1 | 3位 | 11勝7敗 |
1993年 | ニコス | J1 | 3位 | 10勝8敗 |
1994年 | サントリー | J1 | 9位 | 8勝14敗 |
1994年 | ニコス | J1 | 3位 | 14勝8敗 |
1995年 | サントリー | J1 | 1位 | 17勝9敗 |
1995年 | ニコス | J1 | 3位 | 15勝11敗 |
1996年 | 年間 | J1 | 8位 | 14勝16敗 |
1997年 | 1st | J1 | 5位 | 11勝5敗 |
1997年 | 2nd | J1 | 3位 | 12勝4敗 |
1998年 | 1st | J1 | 4位 | 11勝6敗 |
1998年 | 2nd | J1 | 4位 | 11勝6敗 |
1999年 | 1st | J1 | 7位 | 8勝6敗1分 |
1999年 | 2nd | J1 | 3位 | 10勝3敗2分 |
2000年 | 1st | J1 | 1位 | 10勝5敗0分 |
2000年 | 2nd | J1 | 5位 | 8勝6敗1分 |
2001年 | 1st | J1 | 15位 | 3勝10敗2分 |
2001年 | 2nd | J1 | 10位 | 6勝6敗3分 |
2002年 | 1st | J1 | 2位 | 11勝1敗3分 |
2002年 | 2nd | J1 | 6位 | 8勝6敗1分 |
2003年 | 1st | J1 | 1位 | 10勝3敗2分 |
2003年 | 2nd | J1 | 1位 | 7勝3敗5分 |
2004年 | 1st | J1 | 1位 | 11勝1敗3分 |
2004年 | 2nd | J1 | 6位 | 6勝4敗5分 |
2005年 | 年間 | J1 | 9位 | 12勝10敗12分 |
2006年 | 年間 | J1 | 9位 | 13勝15敗6分 |
合計 | - | J1 | - | 257勝173敗46分 |
[編集] タイトル
[編集] 国内タイトル
[編集] 国際タイトル
なお日産自動車時代のタイトルについてはその項参照
[編集] チームカラー
- チームカラーは青色、白色、赤色のトリコロールカラー。フランス代表のユニフォームにも似ている。
[編集] 歴代監督
- 1993年~1994年:清水秀彦(日本)
- 1995年:ホルヘ・ソラリ(アルゼンチン)
- 1995年~1996年:早野宏史(日本)
- 1997年~1998年:ハビエル・アスカルゴルタ(スペイン)
- 1999年:アントニオ・デラクルス(スペイン)
- 2000年~2001年:オズワルド・アルディレス(アルゼンチン)
- 2001年:下條佳明(日本)
- 2001年~2002年:ラザロニ(ブラジル)
- 2002年:下條佳明(日本)
- 2003年~2006年:岡田武史(日本)
- 2006年シーズン途中~2006年天皇杯終了まで:水沼貴史(日本)
[編集] チーム名変遷
- 1972年~ 日産自動車サッカー部
- 1991年~ 横浜マリノス
- 1999年~ 横浜F・マリノス
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
横浜F・マリノス - 2006 |
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過去に存在したクラブ | |
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ナビスコ杯 | オールスターサッカー | チャンピオンシップ | 入れ替え戦 | アウォーズ |