Privacy Policy Cookie Policy Terms and Conditions 織田信長 - Wikipedia

織田信長

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織田信長 凡例
愛知県豊田市長興寺蔵 紙本著色織田信長像
時代 戦国時代から安土桃山時代
生誕 天文3年5月12日1534年6月23日
死没 天正10年6月2日1582年6月21日
改名 吉法師(幼名)、三郎(通称)
別名 第六天魔王、うつけ
戒名 総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀
墓所 本能寺大徳寺総見院妙心寺玉鳳院
阿弥陀寺ほか
官位 上総介、尾張守、弾正忠、従三位参議
権大納言右近衛大将内大臣正二位
右大臣、贈正一位太政大臣
主君 足利義昭
氏族 織田氏(自称平氏藤原氏忌部氏
父母 父:織田信秀、母:土田御前
兄弟 信広信長信行信包信治信時
信興秀孝秀成信照長益長利
お犬の方お市の方
正室:斉藤道三の娘・濃姫
側室:生駒家宗の娘・生駒吉乃
信忠信雄信孝秀勝勝長信秀
信高信吉信貞信好長次信正
徳姫冬姫織田秀子永姫報恩院
三の丸殿ほか

織田 信長サウンド おだ のぶなが! ?天文3年5月12日1534年6月23日) - 天正10年6月2日1582年6月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した戦国大名

目次

略歴

織田信長公像(安土駅前)
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織田信長公像(安土駅前)

尾張戦国大名織田信秀の嫡男として1534年5月12日に生まれる。父の死後、同母弟の織田信勝(信行)との家督争いに勝利して織田氏の当主となる。さらに周辺の敵対勢力である今川氏斎藤氏との戦いに勝利し、足利義昭を奉じて上洛を果たす。その後、敵対した義昭により武田氏朝倉氏延暦寺石山本願寺などから成る反信長包囲網が結成されるも、これを破り、以後は天下布武を推し進め、楽市楽座検地などの革新的な政策を採用する(織田政権)が、本能寺の変で家臣の明智光秀の謀反により自害した。

既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)の否定、家柄門地によらない人材登用、新兵器である火縄銃などの活用などを通して、戦国時代を終結に導いたが、後の秀吉の情報操作や、自らをして魔王(第六天魔王と呼んだこともあり、恐れられていた部分もあった。

生涯

大うつけの少年期

尾張国戦国大名である織田信秀の三男として、天文3年(1534年)5月12日、尾張勝幡城(那古野城説もある)で生まれる。幼名は吉法師。この時点ですでに庶兄に織田信広がいたが、母・土田御前が信秀正室であったために嫡子となり、2歳にして那古屋城主となる。しかし幼少から青年時には奇矯な行動が多く周囲から尾張の大うつけと称されていた。鉄砲伝来により日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。

まだ世子であった頃、表面的には家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の清洲織田家の支配する清洲城下にたったの数騎で火を放つなど、父の信秀も寝耳に水の行動をとり、若き頃からの鬼才にして豪胆さを見せていた。また、三河戸田康光が今川から織田に寝返った折、敵方の人質として護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期をともに過ごし、両者は後に堅い盟約関係を結ぶこととなる。

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し織田上総介織田信長)と称する。天文17年(1548年)には教育係であった平手政秀の策により、父・信秀と激しく争った宿敵美濃国の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶と政略結婚した。その後の天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見。その際に道三はうつけ者として悪名の高かった信長の真の器量を見抜いた。

天文20年(1551年)に父・信秀が没したため、家督継承したが、その葬儀において祭壇抹香を投げつける(抹香を投げ付けたことに関しては後年の創作とする説もある)。天文22年(1553年)には教育係の平手政秀が、自らの死をもって信長の奇行を諌めようと切腹する。これに信長は嘆き悲しみ、沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。

家督争いから尾張統一

父の死後、かねてから信長のうつけぶりにあきれていた織田家重臣の林秀貞林美作守柴田勝家らは、信長を廃して、聡明で知られていた信長の実弟・信行を擁立しようとした。これに対して信長には森可成佐々成政河尻秀隆らが味方し、骨肉の争いとなる。

しかし弘治2年(1556年)4月、義父の斎藤道三がその嫡男である斎藤義龍との戦いに敗れて死去する。信長も道三への援軍を出したが、間に合わなかったと言われている。道三の支持を失った信長を攻めるのを好機と見た信行派は、同年8月24日、挙兵して信長と戦うが、敗北する(稲生の戦い)。その後、信長は末盛城に籠もった信行を包囲するが、生母の土田御前の仲介により、信行、勝家らを赦免した。

しかし、信行は翌弘治3年(1557年)に再び謀反を企てる。しかし稲生の戦い後から信長に通じていた柴田勝家の密告により、これを知った信長は、病気と偽って信行を清洲城に誘い出し、河尻秀隆に命じて暗殺させた。

また当時、尾張国は守護大名であった斯波氏の権威が衰え、それにより尾張下4郡の守護代であった織田大和守家当主・織田信友が実権を掌握していた。しかし信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行のひとりに過ぎなかったにも関わらず、その秀でた智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大していた。信秀の死後、信長が後を継ぐと、信友は信行の家督相続を支持して、信長と敵対し、信長謀殺計画を企てた。ところが信友によってかねてから権威維持のために傀儡化されていた尾張守護・斯波義統が、その計画を事前に信長に密告してしまった。これに激怒した信友は、義統の嫡男・斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙を狙って義統を殺害する。

このため、義銀とその弟・毛利秀頼津川義冬ら斯波一族が信長を頼って落ち延びてくると、信長は信友を義統を殺した謀反人であるとして、叔父の織田信光守山城主)に命じて信友を殺害する。こうして尾張下4郡の守護代・清洲織田家は滅び、織田家の庶家であった信長が、織田家の頭領となった。

さらに、信長は同族の犬山城織田信清らを従え、旧主・清洲織田家の宿敵で織田一門の宗家であった上4郡守護代織田信安を破り(浮野の戦い)、追放した。新たに守護として擁立した斯波義銀が、斯波一族の石橋氏と、同じ足利一門にあたる吉良氏と通じて自身の追討を画策していることが発覚すると、信長は義銀を斯波氏宗家にあたる足利将軍家の住まう京都に追放した。

こうして信長は、永禄2年(1559年)までには尾張国内の支配権を確立した。

桶狭間の戦いから清洲同盟へ

桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)
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桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)

尾張統一を果たした翌年の永禄3年(1560年)5月、足利将軍家の庶流である駿河戦国大名今川義元が2万とも4万とも号する大軍を率いて尾張へ侵攻してくる。織田軍はこれに対して防戦するが、総兵力は5000人。今川軍は三河の松平元康(のちの徳川家康)率いる三河兵を先鋒にして、織田方の城砦を次々と陥落させていった。

織田家衰亡の危機に、信長は家臣が右往左往する中、静寂を保ち、深夜に思い立って幸若舞『敦盛』を舞った後、たったの5騎で熱田神宮に参拝。後からつき従ってきた家臣をひっさげ、2000の軍勢で戦勝に溺れる今川軍の陣中に強襲をかけた(桶狭間の戦い)。(この時は雨が降っており、義元が信長の位置を把握できず、本陣に近づくことができたとの諸説もある)馬廻の服部小平太毛利新助によって今川義元はあえなく討ち死にを遂げた。総大将の討死を知った今川軍は、本国駿河に潰走していった。こうして信長は、この戦勝により天下にその名を轟かせた。信長、26才の時である。

桶狭間の戦いの後、今川氏はその勢力が衰退する。このため、今川氏の支配から三河国徳川家康(この頃、松平元康より改名)が独立して戦国大名となる。当時、信長は美濃攻略のために斎藤氏と交戦しており、家康も甲斐武田信玄や駿河の今川氏真(義元の嫡男)らに警戒する必要があったため、利害関係が一致していた。そのため両者は永禄5年(1562年)、清洲同盟(=織徳同盟)を結んで背後を固めた。

美濃攻略

信長は桶狭間の戦いの後、その矛先を美濃の斉藤義龍に向けた。しかし義龍は勇将で知られ、さすがの織田軍も一筋縄ではいかなかった。しかし永禄4年(1561年)に義龍が急死し、凡庸で知られた嫡男の斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家臣団内部で分裂が始まり、信長は対斎藤戦で優位に立つ。永禄7年(1564年)には北近江浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強めた。その際信長は妹のお市を輿入れさせている。

永禄8年(1565年)より信長は、伊勢の北畠具教と戦う。具教は奮戦するもやがて劣勢となり、信長が提示した条件を受け入れ降伏した。その条件とは、「信長の次男・織田信雄を具教の嫡男・北畠具房の養子にすること」であった。こうして伊勢国は織田の物となったのである。伊勢国が手に入り、信長は北畠親子の身の安堵を反故にし、軍勢を差し向けた。北畠具房は捉われ、数年で死去。北畠具教は信長・信雄の軍勢に敗れた。

伊勢の神戸具盛へも同様の政策を行い、神戸氏の養子として織田信孝を受け入れた後、幽閉した。

永禄9年(1566年)には攻めあぐねていた墨俣において木下藤吉郎(羽柴秀吉)に命じて墨俣城(いわゆる一夜城)を築かせ、そこを拠点としたとされている(ただし墨俣城の実態については諸説あり、実在を疑う論もある)。さらに西美濃三人衆稲葉一鉄氏家直元安藤守就らや竹中半兵衛などの縁者、ほかにも蜂須賀正勝前野長康金森長近など)を味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた。こうして尾張・美濃の2カ国を領する大名になったとき、信長は33才であった。

「美濃を制するものは天下を制する」と言わしめた同国を手中にした信長は長く美濃国の旧主であった土岐氏・斎藤氏の拠点、井ノ口を中国朝が岐山より立ち、前朝を倒して天下を制した故事にちなんで地名を岐阜と改めた。このころから『天下布武』の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。

上洛

信長の「永楽通寶」の旗印
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信長の「永楽通寶」の旗印

この頃、中央では永禄8年(1565年)、かねて京都を中心に畿内で権勢を誇っていた管領細川氏の執事である三好氏の有力武将・三好三人衆松永久秀が、室町幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた第13代将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従兄弟に当たる足利義栄を傀儡として擁立する。

久秀らはさらに義輝の弟・足利義昭の暗殺も謀ったが、義昭は細川藤孝和田惟政ら幕臣の支援を受けて京都から脱出し、越前国朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、当主の朝倉義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月にはしびれをきらして美濃の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾する一方で、美濃国と国境を隣りあわせとする甲斐の戦国大名・武田信玄に対しては、信玄の四男・武田勝頼に養女・雪姫を娶わせることで同盟を結んだが、この雪姫が武田信勝を出産した直後に早世したため、嫡男の信忠と信玄の六女・松姫(信松尼)との婚姻関係を模索し、友好関係を保つ姿勢をとるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。

そして9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の戦国大名、六角義賢六角義治父子は織田軍の猛攻を受けて観音寺城が落城すると、六角父子は伊賀に逃亡し、六角氏は滅亡、以降はゲリラ戦を展開した。信長が京都に上洛すると、それまで中央政治を牛耳っていた三好義継、松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、他の三好三人衆に属した勢力の多くは阿波へ逃亡する。残っていた池田勝正篠原長房らも信長に降伏した。こうして、三好長慶以来中央政治を牛耳っていた三好・松永政権は、信長の電撃的な上洛によってわずか半月で崩壊し、代わって足利義昭を第15代将軍として擁立した信長による織田政権が誕生したのである。このとき、信長は義昭から副将軍の地位を勧められたが、信長は既に将軍家を見切っており、謝絶したという。

永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斉藤龍興ら美濃浪人衆が共謀して決起し、足利義昭の御所である六条本国寺を攻撃した(六条合戦)。しかし信長は豪雪が降る中をわずか2日で援軍に駆けつけるという神速の速さを見せたと言われている(ちなみに、岐阜から京都まで当時は通常では三日はかかった)。しかし信長が到着する前に、浅井長政の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斉藤軍は敗退していた。

1月10日には三好軍と共同して決起していた高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず、処刑した。同日、信長はに2万貫の矢銭と、織田家への服属を要求する。これに対して堺会合衆は三好三人衆を頼りに信長に抵抗するが、三好三人衆が織田軍に敗退すると、信長に臣従した。

また、伊勢にも侵攻を開始し、永禄11年(1568年)には神戸具盛を降伏させ、三男の織田信孝神戸氏の養子として送り込んだ。翌永禄12年(1569年)には伊勢国司である北畠具教も降伏させ、次男の織田信雄北畠氏の養子として送り込んだ。こうして信長は、畿内における勢力を拡大していったのである。

信長包囲網

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍権力を制限するため、「殿中御掟」9か条の掟書、のちには追加7か条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これにより義昭と信長の対立は決定的なものになっていく。

元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、盟友の徳川家康軍と共に越前に侵攻を開始する。織田・徳川連合軍は朝倉方の諸城を次々と落としていくが、金ヶ崎へ進軍したところで、突然、北近江の盟友であった浅井長政に裏切られ、織田・徳川連合軍は背後を突かれる形となった。突然の窮地に追い込まれた信長だが、殿軍を務めた木下秀吉(藤吉郎より改め)、徳川家康らの奮闘(金ヶ崎の退き口)もあり、なんとか京に逃れた。信長が京に帰還したとき、従う者はわずか10名ほどであったと言われている。

これを契機に将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化し、義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成した。

これに対して信長は浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川家康軍と共に浅井・朝倉連合軍と戦う(姉川の戦い)。浅井方の先鋒・磯野員昌に15段の備えの内13段まで破られるなど苦戦するが、徳川家康や美濃三人衆の奮戦もあり、遂に浅井・朝倉連合軍を破った。元亀元年(1570年)5月6日、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとした事があったが、未遂に終わっている。天正元年(1573年)に善住坊は捕らえられ、処刑された。

元亀元年(1570年)8月、信長は摂津で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、石山本願寺の援軍などもあって苦戦する。しかも信長本隊が攝津に対陣している間に軍勢を立て直した浅井長政・朝倉義景・延暦寺などの連合軍3万が、近江坂本に侵攻する。これに対して織田軍も抵抗したが、衆寡敵せず、信長重臣の名将といわれた森可成と信長実弟の織田信治は戦死してしまった。これに対して信長は、9月23日未明に急ぎ本隊を摂津から近江に戻すという神速とも言えるスピードで帰還する。慌てた浅井長政、朝倉義景らは比叡山に立て籠もって抵抗する。これに対して信長は近江国志賀において浅井・朝倉連合軍と対峙した(志賀の陣)。しかしその間に本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢長島一向一揆衆が叛旗を翻して、信長は実弟の織田信興、重臣の坂井政尚らを失い、進退に窮する。このため信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日に勅命によって浅井・朝倉軍と和睦することに成功した。このとき、大久保忠教の記した「三河物語」によれば、信長は義景に対して、「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望みなし」とまで言ったという。

元亀2年(1571年)9月、信長は退避勧告を何度も出した後、抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちした。これは浅井・朝倉連合軍に対して延暦寺が協力したことに対する報復であったと言われている。

元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(のちの織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は信長有利に展開し、8月には朝倉軍の武将・前波吉継富田長繁、戸田与次らが信長に降伏していったという。

10月、足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こした。武田軍の総兵力は3万。その大軍が織田領の東美濃、並びに徳川領の遠江三河に侵攻を開始する。これに対して織田・徳川軍も抵抗した。

しかし武田軍の武将・秋山信友に攻められた東美濃の岩村城では、城主の遠山景任(直廉)が病死。その景任未亡人のおつやの方(信長の叔母)は、信長の五男・坊丸(のちの織田勝長)を養子にして女城主として抵抗するが、秋山信友はこのおつやの方に対して結婚戦術を持ちかけた。実は、おつやの方の娘・雪姫は武田勝頼と結婚して武田信勝を出産していた経緯から、武田氏とも縁戚関係にあったのだ。そのため、おつやの方は秋山信友と結婚することで開城・降伏し、坊丸は甲斐に人質として送られ、東美濃の大半も武田の支配下に落ちた。

また、徳川領においても徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江、三河の諸城が次々と落ちていくという戦況不利な状況にあった。これに対して信長は、家康に佐久間信盛平手汎秀ら3000の援軍を送ったが、12月の遠江三方原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗して平手汎秀らは討死し、信長は窮地に陥った。

元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江から三河に侵攻し、2月には三河野田城を攻略する。しかも信玄の上洛に呼応する形で、将軍・足利義昭が三好義継・松永久秀らと協力して挙兵に及んだ。東西に敵を抱えた信長はまたも進退に窮し、4月5日、正親町天皇から勅命を出させることによって義昭と和睦したのである。そして4月12日、信長最大の強敵であった武田信玄は病死し、武田軍は甲斐に帰国することとなった。

包囲網崩壊

信玄の死去により勢いを得た信長は態勢を立て直した。そして7月、信長は叛旗を翻して二条城や填島城に立て籠もっていた足利義昭を破って京都から追放し、室町幕府を終焉へと導いた。そして7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。

天正元年(1573年)8月、信長は細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もっていた三好三人衆の一人・岩成友通を滅ぼした。同月、信長は3万の軍勢を率いて越前に攻め入り、刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉氏を攻略した。さらに返す刀で小谷城への攻略して浅井久政・長政父子を討ち取り、浅井氏に勝利した。このとき、長政に嫁いでいた妹のお市の方を引き取っている。

9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万の軍勢を率いて、伊勢長島に攻め入った。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島の一向一揆による抵抗も激しく、長期戦を嫌った信長は10月25日に撤退を開始する。ところが撤退途中に一揆軍による追撃が始まり、織田軍は苦戦し、林新次郎が討死してしまった。

11月、河内の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。しかし信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内に送り込む。だが、信長の実力を恐れた義継の三家老らによる裏切りで、義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、大和の松永久秀も万策尽きて、多聞山城を明け渡すことで信長に降伏した。

こうして武田信玄の病死からわずか1年足らずで、信長包囲網に加わっていた大名の大半は信長に敗れたのである。

長島攻め

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前で、地侍や一向宗による反乱が起こり、守護代の前波吉継(桂田長俊)は一乗谷で攻め殺された。さらにそれに呼応する形で、甲斐の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠と共に迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明智城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。

3月、信長は上洛して従三位、参議に叙任された。このとき、信長は正親町天皇に対して「蘭麝待の切り取り」を奏請する。これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているが、天皇はこれを勅命をもって了承したという。これを契機に、信長の実力が朝廷からも認められていることを知った諸大名、特に奥州からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。

7月、信長は3万の大軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めに追い込んだ。一揆軍も巧みな戦術を見せて、信長の庶兄・織田信広を討ち取るなどの戦果を挙げたが、8月に入ると兵糧不足に陥り、さらに織田軍の猛攻により大鳥居城が落城して一揆勢1000人余が討ち取られるなど、次第に戦況は織田軍有利に傾いてゆく。

9月29日、兵糧に欠乏した長島城の一向宗は降伏し、船で大坂方面に退去することを信長に申し出て、これを信長も了承した。しかし、信興や信広という信頼する兄弟を殺された信長は、一揆衆の退去する動きが遅いこともあり、船で移動する一向宗徒に一斉射撃を浴びせることで滅ぼした。しかし一揆側も信長に激怒した一部が織田軍に襲いかかり、信長の弟・織田秀成らを討ち取った。

さらに信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島一向宗に対しては、城の周囲から包囲して討ち取った。このとき、一揆衆は2万人が織田軍によって討ち取られたといわれている。この戦によって信長は長島一向衆の反乱を治めることに成功した。

長篠の戦いから越前侵攻

天正3年(1575年)4月、武田勝頼は信玄の死後、武田氏を裏切って徳川家康の家臣となった奥平信昌(貞昌)を討つため、1万5000の軍勢を率いて信昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河の野田で徳川家康軍8000と合流する。

3万8000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽ヶ原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いである長篠の戦いが始まる。この戦いで、信長は鉄砲隊を3つに分け、鉄砲の弾込めによるタイムロスをなくす三段撃ち戦法を使った。この戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に圧勝したのである。またこの戦いでわずかな手勢で武田の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長から「信」の一字を拝領して信昌と改名している。

前年に信長から越前を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前を奪った一向宗では、内部分裂が起こっていた。一向宗は天正3年(1575年)1月、長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前を一揆の持ちたる国とした。そして顕如の命令で守護代として下間頼照が守護代として派遣されたのだが、この頼照が前の領主である桂田長俊以上の悪政を敷いたために、一向宗の内部分裂が進んでいた。これを好機と見た信長は長篠合戦が終わった直後の8月、越前に攻め入った。

これに対して一揆勢も抵抗したが、すでに内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らをはじめ、1万2250人を数えるの一向宗が織田軍によって討伐されたと言われている。

このとき、信長は村井貞勝に対して、越前府中の凄惨な有様を書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候。見せたく候」と書き記している。

このとき従軍した前田利家の所業を記した石版も残っている。

「一揆おこり、そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり。御成敗は、はっつけ、釜煎られ、あぶられ候。かくのごとくに候。一筆書きとめ候」。

こうして越前は再び織田領となり、信長は越前8郡を柴田勝家に与えた。このとき、信長は勝家に対して北国経営の掟を与えたと言われている。

第二次信長包囲網

信長の館(安土城復元天守)
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信長の館(安土城復元天守)

天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言、11月7日に右近衛大将に叙任する。

11月28日、信長は嫡男・織田信忠に織田家の家督、並びに美濃・尾張などの領地を譲って隠居した。しかし隠居とは名ばかりであり、信長は織田家の政治・軍事を執行する立場にあった。

天正4年(1576年)1月、信長は近江国琵琶湖湖岸に安土城の造成を開始する。これは天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天主内部は吹き抜け構造となっていたと言われている。イエスズ会の宣教師は「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長はかつての居城岐阜城を嫡子信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はこの城を拠点に天下一統(近年、俗に天下統一とも言う)事業に邁進することとなる。ちなみに、この安土城築城は信長自ら指揮を執った。

天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。これに対して信長は4月、明智光秀荒木村重原田直政を大将とした3万の軍勢を大坂に派遣したが、5月の葦原の戦いで織田軍は大敗を喫し、原田直政をはじめ1000人以上が戦死してしまった。

大坂の織田軍は勢いづく石山勢の攻勢に窮し、光秀らは天王寺砦に立て籠もったが、石山勢はこれを大軍で包囲し、天王寺における織田勢は窮地に陥った。これに対して信長は5月5日に若江城に入って動員令を出したが、集まった軍勢は3000人ほどでしか無かった。ところが信長は5月7日早朝、そのわずか3000人の軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する石山勢1万5000人に勇猛果敢にも攻め入った。この戦いは天王寺砦の戦いと呼ばれ、信長自身も負傷するという激戦となったが、信長自らの出陣で士気を高揚させた織田軍は石山勢を遂に撃破することに成功した。

その後、織田軍は石山御坊を水陸から包囲して兵糧攻めに追い込んだ。ところが7月13日、石山本願寺の援軍として現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は木津川の戦いで破れ、毛利勢によって石山には兵糧弾薬が運び込まれることとなった。

この頃になると、北陸で新たな強敵が出現した。越後の龍と呼ばれる戦国大名・上杉謙信である。信長と謙信は、武田信玄という共通の敵と対抗するために元亀3年(1572年)に同盟を結んでいた。しかし信玄が病死し、さらに信長の度重なる宗教勢力との抗争に激怒した謙信は、天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦して信長との同盟を破棄し、信長との対立を表明したのである。さらに謙信を盟主として、毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが反信長として同調し、決起した。

これに対して信長は、天正5年(1577年)2月、紀州雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣する。しかし、毛利水軍による背後からの援助や、謙信による能登侵攻などもあり、信長は3月に入ると、形式的に雑賀衆の頭領・雑賀孫一を降伏させたという。ただし、人質提供も何も無い完全な形だけのものであると言われ、形式的な和睦を行ない紀伊から撤兵した。

一方、謙信の攻勢に持ちこたえていた能登七尾城長続連は、信長に対して援軍を要請する。信長はこれに対して柴田勝家を総大将とした3万を前軍、自らが率いる本隊1万8000人を後軍として出陣する。しかし9月15日に七尾城は落城し、9月23日に前軍の織田軍は、謙信自らが率いる上杉軍の前に手取川の戦いで敗れた。信長はこれを知って謙信と衝突することを避け、安土に帰還した。

信長の窮地を見た大和の松永久秀は謙信と呼応して信長を裏切り、挙兵する。久秀の謀反を知った信長は加賀から撤兵するや、織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣して、10月に久秀を討ち取った。しかし謙信との戦いで不利な立場に立った信長は、毛利氏や石山本願寺の攻勢などもあって再び苦境に立たされた。

しかし、久秀を討った10月、信長に対して反抗していた丹波亀山城の内藤定政が病死。すかさず織田軍は亀山城や籾井城、笹山城などの丹波の諸城の大半を攻略した。天正6年(1578年)3月13日には上杉謙信が急死する。謙信には実子がいなかったため、養子の上杉景勝上杉景虎が後継ぎをめぐって争い始めた。この間に、織田軍は上杉領となっていた能登と加賀を攻略。謙信の死去により、またも信長包囲網は崩壊した。

織田方面軍団

  • 北陸方面・柴田勝家軍団
  • 中山方面・織田信忠軍団(滝川一益軍団)
  • 畿内方面・明智光秀軍団
  • 中国方面・羽柴秀吉軍団
  • 四国方面・丹羽長秀織田信孝軍団(天正10年結成)
  • 対本願寺方面・佐久間信盛軍団
  • 東海道の押さえは徳川家康

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田家には備わっていた。信長は部下の武将に並みの戦国大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の中にはこれら信長配下の新設大名を「軍団」とか「方面軍」などと呼称する者もおり、今日では一般書でもかなり見かける記述となっている。

謙信の死後、御家騒動を経て後を継いだ上杉景勝に対しては柴田勝家に前田利家佐々成政らを、武田勝頼に対しては嫡男・織田信忠に滝川一益や森長可らを、波多野秀治に対しては明智光秀に細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛をと言った具合である。

織田軍は謙信の死後、上杉氏との戦いを優位に進め、能登と加賀を奪った後、越中にも侵攻する勢いを見せた。また、天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させた。しかし秀治を何らかの理由があり処刑されてしまう。羽柴率いる織田軍は毛利軍の激しい抵抗の前に山中鹿之介ら尼子再興軍という味方を失い、さらに播磨別所長治の謀反もあり、はじめは苦戦を強いられていたが、やがて織田軍も攻勢に乗り出して、天正7年(1579年)に毛利方であった備前宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転し、天正8年(1580年)には播磨と但馬、天正9年(1581年)には鳥取城を有名な兵糧攻めに追い込んで因幡を、そして岩屋城を落として淡路を攻略するに至ったのである。

一方、信長自身は新たな苦境に立たされていた。天正6年(1578年)10月、荒木村重が有岡城に立て籠もって信長から離反したのである。これに関しては今でも謎が多いが、村重を重用していた信長はこれに驚愕し、はじめ翻意を促したとまで言われている。しかし村重は応じず、本願寺と手を結んで信長に抵抗する。しかし村重の与力であった中川清秀高山重友が相次いで信長に降伏したため、一転して信長方は優位に立った。

11月6日には、第二次木津川の戦いで毛利水軍が、信長が考案した鉄甲船6隻に、大敗を喫したことにより、石山本願寺と荒木村重は毛利軍の援助を受けることができなくなり、事実上両者は孤立してしまった。このため村重は反乱から10ヶ月後の天正7年(1579年)9月、妻子を置き去りにして有岡城から逃亡し、有岡城は落城。荒木一族は大半が処刑された。また本願寺に対しても、天正8年(1580年)4月、正親町天皇の勅命のもとに有利な条件で和睦して、大坂から退去させた。

また、天正7年(1579年)、伊勢の出城構築を伊賀の国人に妨害された事に立腹した北畠信雄は、独断で伊賀国に侵攻し、大敗を喫した。信長は信雄に対して厳しく叱責すると共に、伊賀国人への敵意をも募らせた。(第一次天正伊賀の乱)。そして天正9年(1581年)、信雄を再び総大将に任じ、6万の軍勢をもって伊賀への攻略を再び開始した。こうして伊賀は織田家の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。

天正7年(1579年)、信長は盟友・徳川家康の嫡男・松平信康と、信康の生母である築山殿に対して切腹を命じた。理由は信康の12か条による乱行、さらに築山殿による武田勝頼との内通などである。いずれにせよ、徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれ激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は二人の命を絶つことにした。

天正8年(1580年)8月、信長は譜代の老臣である佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝を追放に処した。理由は本願寺との戦いによる不手際により、信長から折檻状を受けたためである。さらに林秀貞安藤守就も、無能であることと、その昔に謀反を企んだことを理由にして追放されてしまったが、柴田勝家や前田利家など、無礼を働いた者でも、本人に改心の志があれば再び登用するなど、器の大きい合理主義者であったことが伺える。

武田家滅亡

天正9年(1581年)、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の内裏東の馬場で一大的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる京都御馬揃えであるが、これには信長はじめ織田家一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。このときの御馬揃えには、正親町天皇も臨席している。

「貴賎群衆の輩、かかるめでたき御代に生まれ合わせ、……あり難き次第にて上古、末代の見物なり」(信長公記

また、各地の織田方面軍団の攻勢も凄まじかった。柴田勝家軍団は、天正9年(1581年)5月に越中を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて越中にも行軍し、同地の大部分を支配下に置いた。徳川家康軍団も、天正9年(1581年)の3月23日に高天神城を奪回して武田氏を追いつめた。紀州でも雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力が減退した。さらに高野山においても、天正9年(1581年)に荒木村重の残党を匿って足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せた。これに対して、信長は使者10数人を送って穏便に事を鎮めようとしたが、高野山側は信長の使者を全て殺害するという非道的行為を行なった。これに激怒した信長は、織田領における高野聖数百人を逮捕し、河内や大和の諸大名に命じて、高野山を包囲させた。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曽義昌が、信長に寝返りを申し出てきた。これを信長は了承し、2月3日に武田に対しての大動員令を織田信忠軍団に発令した。そして、徳川家康は駿河から、北条氏直が関東から、金森長近飛騨から、織田信忠自身は木曽から、それぞれ武田領への攻略を開始した。その数は、10万余に上ったと言われている。これに対して武田軍は、伊那城では城将・下条伊豆守が城兵によって追放されて織田軍に降伏し、さらに信濃松尾城主・小笠原信嶺駿河田中城主・依田信蕃、駿河江尻城主・穴山信君らも先を争うように織田軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗もできずに敗北する。

信長が武田征伐に出陣したのは3月8日であるが、その日に信忠は甲府を占領し、3月11日には甲斐東部の田野において武田勝頼・信勝親子を討ち取り、武田氏は滅亡した。

甲斐武田氏滅亡後に信長は、武田に属していた者は例え恭順の意思を示そうと容赦なく一族まとめて根絶やしにせよ、とするいわゆる「武田狩り」を命じたといわれる。信長の命令にどうしても承服しがたいものがあった徳川家康や一部の織田重臣は、命がけで武田遺臣を匿った。江戸時代以後も存族した武田ゆかりの者のほとんどは、この時の「武田狩り」からかくまわれた遺臣の末裔である。俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来れて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたとも言われている。

天正10年(1582年)に武田氏が滅びた際、武田遺臣をかくまった塩山恵林寺を攻略した際、恵林寺の住職快川紹喜が放った「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉は現在にまで残っている。

武田氏滅亡後、信長は駿河を徳川家康に、上野を滝川一益に、甲斐を河尻秀隆に、北信濃を森長可、南信濃を毛利秀頼に与えて北条氏直への抑えとしつつも、かつての信玄や謙信に対したのと同じ平和外交に徹し、同盟関係を保った。

本能寺の変

天正10年(1582年)夏、信長は四国の長宗我部元親攻略に、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀の軍団を派遣する準備を進めていた。この時、四国攻めを任ぜられなかった明智光秀が、「自分は干されている。林や佐久間のようになるのではないか」と被害妄想を持った、とする説がある。また光秀は以前に長宗我部元親とのとりなしを信長に命じられ、配下の斎藤利三の娘を元親と婚姻させるなど関係改善に奔走しており、武力討伐という方向転換で、光秀は面目が潰され屈辱を感じた、とする説もある。

天正10年(1582年)5月15日、駿河国加増の礼の為に徳川家康が安土城に訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日まで渡って家康を手厚くもてなした。

家康接待が続いている最中に、信長は備中高松城攻めを行っている最中の羽柴秀吉の使者より援軍依頼を受けた。「毛利方が大軍を率い、高松城への救援に向かう動きがある」との事であった。

信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。『明智軍記』によると、光秀の接待内容が粗末だったため、信長が小姓の森蘭丸に光秀の頭をはたかせた、と記されている。

信長は5月29日に毛利遠征の出兵準備のために上洛し、その後は本能寺(京都市)に逗留していた。だが秀吉への援軍を命じていたはずの明智光秀軍が突然京に現れ、6月2日に本能寺を急襲する。この際、部下からの信長の信頼は厚く、明智光秀に忠誠を誓う者が少なかったため、本能寺に侵攻する際、標的が信長であることは部下に伝わっていなかったとされる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長は自ら槍を持ち奮闘したが、怪我を負い、居間に戻り自害したといわれている(本能寺の変)。享年49。

明智光秀の娘婿明智左馬之助が信長の死体を探したが見つからなかったといわれているが、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。

また、黒人兵の弥助は本能寺の変でも、最後まで信長に同行して戦った。

年表

和暦 ユリウス暦グレゴリオ暦 月日
宣明暦長暦)
内容 出典
天文3 1534年 5月12日 生誕
天文15 1546年 元服。三郎信長を名乗る。
天文18 1549年 2月24日 濃姫と結婚
上総介を称する。
天文20 1551年 家督相続
弘治3 1557年 11月2日 信行を暗殺  
永禄2 1559年 2月2日 初めて上洛、将軍足利義輝と会う  
永禄3 1560年 5月19日 桶狭間の合戦で今川義元を討つ  
永禄9 1566年 尾張守を称する。  
永禄11 1568年 10月28日 従五位下弾正少忠 系図纂要
元亀 1570年 3月14日 正四位下弾正大弼 系図纂要
6月28日 姉川の戦い  
天正2 1574年 3月18日 従三位参議 ※「歴名土代」では天正2年3月18日に従五位下に叙位。同日、昇殿と記載。 公卿補任
3月28日 勅許を奉じ、東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る。  
天正3 1575年 5月 長篠の戦いに武田勝頼を破る  
11月4日 権大納言 公卿補任
11月7日 右近衛大将兼任 公卿補任
天正4 1576年 11月13日 正三位 公卿補任
11月21日 内大臣。右近衛大将兼任。 公卿補任
天正5 1577年 11月16日 従二位 公卿補任
11月20日 右大臣。右近衛大将兼任。 公卿補任
天正6 1578年 1月6日 正二位 公卿補任
4月9日 右大臣、右近衛大将両官辞任 公卿補任
天正10 1582年 6月2日 本能寺の変、自刃  
10月9日 従一位太政大臣を贈位贈官 大徳寺文書
大正6 1917年 11月17日 正一位を贈位  

人物

  • 西洋伝来の物を好み、正親町天皇を招いて開催された『馬揃え』にビロードのマントや西洋式の帽子を着用して参加した。晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けることが常だったと言われている。ヴァリニャーノの使用人であった黒人に強い興味を示し、身元を譲り受け彌介(やすけ)と名付け側近にしている。
  • イエズス会の献上した地球儀時計地図などをよく理解したと言われる(当時はまだこの世界が丸い地球という物体であることを知っている日本人はおらず、地球儀が献上された際も家臣の誰もがその説明を理解出来なかったが、信長だけは「理にかなっている」と言って即座に理解した)。好奇心が強く、鉄砲があまり一般的でない頃から火縄銃を用いていたことは有名。奇抜な性格で知られる信長であるが、ルイス・フロイスには普通の人物に見えたようだ。
  • 青年の頃は、女性とみまがう美男子であった。
  • 身分には拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった。
  • 多くの戦国武将と同様に男色も嗜み、小姓前田利家堀秀政、後には森蘭丸ら多くの稚児と関係を持ったと伝わる。また、側室は権力の強大さにくらべて少ないが数多くの子をなしている。
  • 浅井長政と浅井久政と朝倉義景の三人の頭蓋骨に金箔を塗り、酒宴の際に披露した。これが後世、杯代わりにして家臣に飲ませたという話になって流布しているが、これは小説家による潤色であり、実際には杯には使用していない。髑髏を薄濃にするというのは、死者への敬意を表すものであり、これをもって信長の非道を唱えるのは正しくない。
  • 信長は、人間を巨視的に捉えた社会を指導する技量には優れていたが、ごく周囲の人間の理解を得ようとする努力には関心がなかったように思われる。とはいえ、当時の坊主の仏教に背く日常行為を非難し、ポルトガルの宣教師の紳士な振る舞いを褒め、冷徹な行為は止むを得ない戦国の世に行きながら、自らを魔王に例えるなど、教えや誇りに嘘をつくことを良しとしない正直者だったともいえる。
  • 囲碁幸若舞を好んだ。幸若舞『敦盛』の一節「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか」という部分は、信長の人生観と合致していたのか、特に信長のお気に入りで、よく舞ったと言われている。
  • 大の相撲好きで、安土城などで大規模な上覧相撲をたびたび開催した。また、相撲大会は身分問わず、信長の側近と庶民が入り混じって相撲をとっていたといわれる。そのほか水泳、鷹狩、馬術、弓道などの身体鍛錬、武術鍛錬に繋がるものを趣味としていた。
  • 本能寺の変が起きた原因については、軍事・政治両面においても当時において前代未聞のことを行っていた信長は、明智光秀からすると規格外すぎてついていけなかったのではないかという説がある。
  • 信長存命中に彼の側近の中に軍師・参謀的な人物は全く見受けられず、信長の命令を遂行するために必要な堀秀政、森蘭丸というような優秀な秘書官だけが登用されたという例がある。竹中半兵衛黒田如水らは、信長存命中は名目上は信長の家臣だったが、実際には秀吉の軍師として仕えていたのが、その証左といえる。半兵衛自身は信長を嫉妬していたようだが、如水の場合は信長の実力を高く認めながらも、信長に仕えても軍師として活躍の場が与えられないと欲をだし、その下で台頭していた秀吉に付け込まれたという説が有力である。ここまで成功・改革した人物にそういったものがいないケースはそう多くない。だが信長自身の革新的な政策を、周囲の人物が理解することができずについていけなかった要因のひとつであるともいわれている。ただ乱世の時代を改革するには多少強引であろうと、信長のように革新的な政策をとることが重要であるため、止むを得なかったといわれている。また、信長は身分や家系に拘らない実力主義の政策をとっていたため、家系にこだわる一部の大名からは、信長の政策と性格は不評だったようだ。
  • 信長を実際に裏切った者の多くは信長が上洛してからの、いわば外様の家臣が大半であり、尾張・美濃時代から仕えていた譜代の家臣の中で、信長を裏切った者はほとんど見受けられないという側面もある。また、戦国時代に寝返りや裏切りは日常茶飯事であったため、信長の家臣に対する対応が問題であったとはいえない。
  • 創造的な革命家、あるいは狂気の革命家と評する者もいるが、後者は後の秀吉の政策によって出来上がった印象だとおもわれる。その証拠に、信長が生きていた当時は、信長を非難するような論理的な書物は存在せず、そのような書物は、信長亡き後に製作されたものである。
  • 天正8年(1580年)、信長は林秀貞を昔の謀反の罪で追放したが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。これは、信長が勝家の実力を評価し、信頼していたためと思われる。事実、信長は存命中、勝家に対して越前8郡75万石という織田家臣団随一の領国と、織田家筆頭家老の地位を与えていた。また、松永久秀に対してもその実力を評価して、二度も降伏を許している。このように、信長は有能な人物であれば、その罪を許して重用するという本来の人物像が伺える
  • ルイス・フロイスは信長の人物像を「長身、痩躯で、ひげは少なく、声はかん高い。常に武技を好み粗野」「酒をほとんど嗜まない」と評している。身長は約170cm程度で、500m向こうから声が聞こえたと言う位に、相当に甲高い声であったと言う。また遺髪から血液型を鑑定し、A型である事が判明した。
  • 三好義継が敗死したとき、坪内という名のある三好家の料理人が織田家の捕虜となった。このとき、信長は坪内に対して「料理がうまければ罪を許して料理人として雇う」と約束した。そして坪内が作った料理を信長は食したが、このとき「料理が水っぽい」として坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう1度だけ機会が欲しいと頼んだ。そして2度目に出された料理に対して、信長は「大変うまい」と大喜びし、料理人として取り立てたという。後で坪内に、「最初から2度目の料理を出していたら良かったのではないか」と訊ねられると、坪内は「最初は京風の上品な料理、次は味の濃い田舎料理を作っただけです。しょせん信長公も田舎者ということですよ」と馬鹿にしたという。
肖像画

政策

天下布武

  • 訓読すれば「天(あめ)の下、武を布(し)く」となる。「武力を持って天下を取る」という風に解釈されることが多いが、近年の研究では「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に取ることが多い。上述のように信長は居所を岐阜と改名した頃からこの印を用いているが、岐阜の命名は中国の周の文王(ぶんおう)が岐山(きざん)に拠って天下を臨んだことにちなんでおり(阜は丘の意味)、その志が窺われる。
  • 日本の中世では権力として、公家と寺家、武家が複雑に絡み合っており、信長の志した天下布武とは、その公家、寺家を廃して本格的な武家政権を作るという意味をもっていたと考えられる。その実現のために寺家対策として、一向一揆を叩き、本願寺顕如らを石山合戦で破ったのである。また、室町幕府京都にあるという地理的条件からも公家との結びつきが強く、そのために足利義昭を追放したと考えることも出来る。

宗教政策

  • 宗門は法華宗を公称していたが、一向一揆や延暦寺に対する政策や、安土城の石垣に地蔵仏や墓石を用いたこと、ルイス・フロイスの記載などから唯物論的思考法を身に付け、神仏の存在や霊魂の不滅を信じることはなかったとも言われている。しかし当時の僧侶の横暴を非難し、キリスト教の宣教師を誉めていたことから、必ずしも宗教を否定していたわけではなかった。
  • また一方では安土城天主内の天井、壁画に仏教道教儒教を題材とした絵画を使用したり、浄土真宗や延暦寺の宗教活動自体は禁止しなかったことからも、宗教自体を否定しているのではなく天下布武事業の一環として、既存の宗教との政教分離や政治上の宗教の統一を考えていた可能性もある。
  • 安土城内に信長に代わる『梵山』と称する大石を安置して御神体とし、家臣や領民に礼拝を強要したと伝えられる(→ルイス・フロイスの『日本史』)。
  • これに関しては「入城に際して検問を行い、入城の代金を徴収していたことが、宣教師の目には寺社の賽銭のように見えただけである」とする意見もある。

朝廷政策

信長の朝廷に対する考え方としては、「朝廷を天下布武の障害と看做してその廃止さえ考慮していた」という説と逆に「信長が独自の政策を展開するためには朝廷の権威を有効に活用してこれを正当化する必要があり、少なくても本能寺の変までは後の秀吉・家康以上に朝廷と密着していた」という両極端な説(仮に前者を「軽視説」、後者を「尊重説」と呼ぶ)がある。これには本能寺の変における朝廷関与説にも関わりが出てくる。従って信長と朝廷の出来事を巡っても全く違う見方が浮上してくる。

信長は正親町天皇譲位を要求していた。
「軽視説」によれば、信長は朝廷に対しては金を出し、口も出すという施策を採った。自分の言いなり、つまりは傀儡になるような天皇の擁立を望んでいたようで、天正元年から、正親町天皇に対して譲位を要求していた。正親町天皇は老練な天皇であり、信長の言いなりとなるような人物ではなかったからである。当時は信長も各地に強敵がいたため、天皇が拒否するとあっさりと引き下がった。天正9年の京都御馬揃えは、織田軍の力を見せ付ける軍事行進であったと同時に、正親町天皇に対する威圧でもあったと言われている。
「尊重説」によれば、譲位を希望していたのは正親町天皇の方である。当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、譲位から新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転(仙洞御所は通常は洛中に広範な敷地を要するために、周辺の公家の屋敷や寺院の移転を伴う)費用などの負担があって初めて実現するものであった。つまり、譲位にはこうした莫大な経費を負担する人物が必要であったが、天正年間でこれを行えるのは信長以外に無く逆に天皇が譲位を希望しても信長が同意しない限り譲位は不可能であった。天正9年(1581年)の京都御馬揃え直後、正親町天皇から退位の希望が信長に伝えられ、朝廷の内部資料である『お湯殿の上の日記』には同年3月24日に譲位が一旦決定して「めでたいめでたい」とまで記載されたにも関わらず、『兼見卿記』4月1日には一転中止になったと記されている。これは信長が譲位に同意しなかったからと考えるべきである。なお、羽柴(豊臣)秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている。恐らく信長は足利義昭の二条御所完成に諸大名を招待して天下に自分の存在をアピールしたように、正親町天皇の譲位を天下平定のアピールとするための行事として予定していた可能性がある。
京都御馬揃えは朝廷を威圧するための軍事行進である。
「軽視説」によれば、なかなか譲位に応じない正親町天皇に業を煮やした信長は天正9年の京都御馬揃えによって、織田軍の力を見せ付ける軍事行進であったと同時に、正親町天皇に対する威圧でもあったと言われている。
「尊重説」によれば、この年は正親町天皇の妃で儲君誠仁親王生母である万里小路房子の死去に伴い、宮中での左義長は縮小されたが、宮廷外では普通に行われた。特に信長が安土城で行われた左義長は大規模なものであり、天皇側より母親を失った親王のために御所においても再現して欲しいという依頼が信長に寄せられ、そのための演出として考え出されたのが今回の馬揃えの発端である。『信長公記』における信長の服装は軍事行動とは全く違っており、前関白近衛前久ら乗馬に自信のある公家代表も馬揃えに参加している事などから朝廷を威圧する軍事的目的を否定して、京都の平和回復を宣伝するとともに反対に天皇を厚遇して朝廷尊重の姿勢を見せる政治的目的があったとする見方がある。ちなみに正親町天皇は馬揃えにおける信長側の好待遇に喜んで信長に手紙を送って御服を下賜し、信忠にも褒賞を与えている。これでは威圧の効果は全く無かったのではないかという指摘もある。
信長は朝廷の官職に就こうとはしなかった。
「軽視説」によれば、信長は天正6年(1578年)4月、右大臣右近衛大将を辞した後、朝廷の官職に就こうとはしなかった。この前月には信長を恐れさせた最後の強敵・上杉謙信が49歳で死去している。謙信が死去した後、京を窺う地方に信長と互角に戦える勢力はなくなった。石山本願寺もすでに戦力を失いかけており、武田氏毛利氏大友氏にも往年のような力はない。関東240万石の後北条氏と同盟関係に入り、当主の氏直に室を送る動きを起こしていた。これは信長が、すでに朝廷の力を借りることが必要なくなったと考えたためとの考えもある。本能寺の変直前の天正10年5月、正親町天皇は、信長に対して征夷大将軍太政大臣関白のいずれかを与えるという条件を出すことで妥協しようとした。しかし信長は朝廷から官位を受けなかった(三職補任問題)。
「尊重説」によれば、信長も官位へのこだわりが無かったわけではない。そもそも大臣級であれば大臣辞任後に散位(無官)状態になる事も珍しくない事であり、現役と前官の大臣の違いといえば、形骸化していた朝廷行事における席次の差程度であった。また、右大臣辞任の文章には嫡男信忠の昇進を希望する一文(当時貴族社会には高官が辞任する代わりにその嫡男を取り立てる慣習があった)が盛り込まれており、信長の辞任も単に後継者である信忠の昇進を希望したという程度の意味でしかなかった可能性もある(ただし朝廷側は信長の昇進優先を希望していたため実現しなかった)。更に信長は右大臣と兼務していた右近衛大将については執着心を抱いており、本来は信長が徳大寺公維から権大納言を譲り受けた際に、将来大臣昇進時に右大将を譲ると約束しながら、未だ征夷大将軍を辞任しない足利義昭に対抗して源頼朝ゆかりの同職に居座りを続けたために公維から苦情が寄せられたほどである(『言継卿記』)。右近衛大将辞任は右大臣辞任との兼ね合いからきた止むを得ないものであった。更に三職補任問題についてもこの条件提示は本能寺の変直前であったために時間がなくて返答できなかったとも考えられ、更に一歩進んだ見解として信長が既に非公式に太政大臣就任を了承していたとする考えもある。本能寺の変直後の7月17日に出された羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙には信長を「大相国」と呼んでいるが、太政大臣贈官が宮中で論じられたのは3ヵ月後の事であり、更にその贈官の宣命には「重而太政大臣」の一文があり2度太政大臣の辞令が出されたと解される事、変の直前の近衛前久の太政大臣辞任が急に決まった事を根拠としている。

商業政策

  • 商工業者に楽市・楽座の朱印状を与え、不必要な関所を撤廃して経済と流通を活性化させるとともに、検地を徹底して領国支配を確立し、家臣を城下に居住させて常備軍を編成した。ただ、全ての座を無くさせたわけではない(そんな事をすれば当時の流通は麻痺してしまう)。したがって楽座にできるところは楽座に、京都のように座が力を持っている都市では座を利用した。

人事政策

  • 能力主義を重視して、足軽出身の木下藤吉郎(羽柴秀吉)、浪人になっていた明智光秀、忍者出身とされている滝川一益などを登用する一方で、譜代の重臣である佐久間信盛林秀貞らを追放した。佐久間や林にはそれなりの実績があったが、同様の譜代家臣ながら北陸方面軍の指揮官として活躍する勝家などと比すと物足りないものがあった。重臣として織田家に居座りつつ、活躍以上の利権を自己主張する佐久間や林に対し、懲罰的粛清を断行したと見る向きもある。現代の日本は「終身雇用制」から「能力主義」へと移行しつつあるが、信長は400年以上も前に、もう同じ事をやってのけていたとも言える。ただ当時としては革新的に過ぎて、周りが信長の思考を理解できなかった可能性も否定はできない。
  • 佐久間信盛林秀貞ら譜代家臣および安藤守就の粛正については、家臣の所領を整理し織田家直轄領を増やす目的もあったと見る事もできる。
  • 当時流行した茶の湯を家臣団掌握の手段など、政治的に活用し、一国に値する程の価値があった『名器と称される茶道具』を領地、金銭に代わる恩賞として与えたりもした。恩賞と領地加増の関係については、どの大名にとっても多かれ少なかれ頭の痛い問題であったのだが、信長はそれをうまく改善してのけたと言える。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号と上野一国の加増でガッカリしたという逸話さえある。信長が茶の湯に対する権威付けを以前からしっかり行っていたからこそ、家臣もそれに高い価値を見出す事ができたのである。
  • 宣教師と共にやってきた外国兵を受け入れ、国籍を問わず、自らの兵として登用していた。
  • 人事においては厳しい一面があったように言われているが、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・お禰(高台院)に対して辛く当たっていることを知ると、秀吉を呼び出して厳しく叱責し、お禰に対しては励ましの手紙を送るなど、彼らしい人間味を見せているところがある。

戦略

  • 信長は、新しい体制を導入し古い体制を打破して数々の改革を行った点で、中世から近世への移行を推進した人物であったことは間違いない。特に、古い体制の欠陥に着目する能力、それを改め新しいものを創造する能力については群を抜いている。このような視点に立つ者は、治世に優れた戦国大名と評されることの多い武田信玄を、あくまで中世の枠における優れた人物であるとし、鉄砲戦術、鉄甲船、人材登用、そして楽市楽座令などの施策を行った信長を、中世の枠を超えた人物であると評価される。
  • 信長は戦略としては、近代の先進国にも通じており、入念な準備を行い相手の力をそぎ、その上で相手よりも多くの兵によって戦うといったどちらかと言うと慎重な手段を用いることが多く、一種の無謀とも言える少ない兵で、盲目的で投げやりな玉砕で大軍を破ろうとする策はあまり取らなかった。特に信長がその存在を恐れた武田信玄・上杉謙信の両名には自分から積極的には兵を出さず慎重に対応していたが、結局両名とも年齢によるところもあり没してしまったので結果的にはこの対応は正解だったといえる。しかし、時には敵の意表をつき寡兵で敵を破るなど臨機応変に変えていったようである。
  • 信長は戦略家としてだけではなく、個人的な武勇にも優れていた。桶狭間の戦いをはじめ、一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大名でありながら自らが先頭に立って、奮戦しているほどである。大名自身が最前線に立って戦うことは異例であり、こういったことが当時から数多くの部下、そして現代人を惹きつける一因ともなっている。
  • 西洋の物品に対して高く興味を示し、晩年に信長が戦場に赴くときには、南蛮鎧を身に付けることが常だったと言われている。
  • 信長という人物は桶狭間の戦いによる印象が強いため、迅速果敢で奇襲攻撃が得意という評価が強い。確かにこの評価は間違いではないが、信長の数百を数える戦争の中で、敵より少ない兵力で戦った記録は弘治2年(1556年)の稲生の戦い、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い、天正4年(1576年)の天王寺砦の戦いの3回だけであり、必要な状況での、先見のある選択だったとされている。
  • 信長は、当時の戦国武将の中で機動能力が最も優れていた。例えば六条合戦でも、本来なら三日はかかると言われた距離を二日で踏破(しかも豪雪の中を)し、摂津に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで摂津から帰還して京都を守り抜いている。このように、信長とその軍勢による機動能力は、当時において最も優れていた。

一部では苛烈といわれる所業

  • 信長の事績の内容に対する評価は、時代や解釈する者によって大きな差がある。古い権威を否定するための断行的政策については当時から現代に至るまで非難が多い。そのため、人物的には創造的な革命家、あるいは狂気の革命家と評する者もいるが、後者は後の秀吉の政策によって出来上がった印象だとおもわれる。その証拠に、信長が生きていた当時は、信長を非難するような論理的な書物は存在せず、そのような書物は、信長亡き後に流布されたものである。
  • 江戸時代から現代まで、これら一連の宗教勢力に対する信長の行為に対する史家や学者の評価は、行為は別としても、その行為自体は評価してしかるべきもの、あるいは新時代を築くためにはやむを得なかった行為と見る意見もある。正徳の治で有名な学者・新井白石などは、信長の宗教勢力に対する行為に対して、
「そのことは残忍なりといえども、長く僧侶の凶悪を除けり。これもまた、天下の功有事の一つと成すべし」
と、評価しているのである。このように、行為は別としても、当時の宗教勢力が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたこと、なおかつ僧侶の腐敗を鑑みると、賞賛してしかるべき、やむを得ない行為であったとされる。
また、信長が生きていた当時は、信長を非難するような論理的な書物は存在せず、そのような書物は、信長亡き後に製作されたものである。信長を非難してきた学者は江戸時代以降に多いことがこの裏付けてでもある。
  • 伊勢長島の一向衆における攻略に関してであるが、天正2年(1574年)8月12日、信長は篠橋城に立て籠もる一向衆が、長島城に立て籠もる大坊主などの幹部を降伏するように説得するから、全員を長島城に赴かせてくれることを許してほしいと願い出て、信長もこれを了承した。ところが、篠橋城の一向衆は信長との約束を破って、長島城に入るや、信長に対して双方共に裏切り抵抗したのである。このような背信行為を行なった以上、長島の人々が信長に滅されるのも、戦国時代の常識としてはやむを得ない側面がある。
  • 茶坊主に何らかの不手際があり、信長が激怒した事があった。茶坊主は怒りを恐れ棚に隠れたが、信長は棚ごと茶坊主を斬ったという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「圧切長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられたという。
  • 天正元年(1573年)11月、足利義昭の帰洛の交渉のため、毛利輝元から信長の元に派遣された毛利家安国寺恵瓊は、国許にあて書状を送っている。「信長の代、5年、3年は持たるべく候。来年あたりは、公家などに成らる可しと見及び候。左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」とあるが、ただし、この発言は信長の死後に流布したものであり、喧伝の可能性もある。
  • 天正6年(1578年)、畿内の高野聖1383人を捉えた。高野聖に成りすまし密偵活動を行うものがいた事が全ての元凶であり、これに手を焼いた末の行動であると言われている。
  • 天正10年(1582年)4月10日、信長が琵琶湖竹生島参詣のために安土城を発った。安土城と竹生島は距離があるため、信長は今日は帰ってこないと思った侍女たちは桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと、安土城を空けていた。だが一泊すると思われていたはずの信長は日帰りで帰還。侍女たちの外出を知った信長は激怒した。 侍女の助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じ方法で信長に罰されている。ただし、桑実寺では、このとき殺害された長老の記録が、本能寺の変以降も残っている為、実際に殺されてはいない説が有力である。また、文献に成敗されたとはあるが、侍女達も殺害されたとは記録にない。当時、縄目を受けるという成敗(処罰)方法もあった事もあり、殺害にまでは至っていないという説が有力である。
  • 信長の敵勢力に対する行為の大半について当時から現代の史家における評価は、当時の常識で言うと残虐とまではいかないむしろ普通といえる事件もあり、また信長のような者が現れなければ、戦国時代の争乱はまだまだ続いたとされ、戦国時代を早く終わらせるためにはやむを得ない行為というものである。
  • 天正8年(1580年)、信長は林秀貞を昔の謀反の罪で追放したが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。これは、信長が勝家の実力を評価し、信頼していたためと思われる。事実、信長は存命中、勝家に対して越前8郡75万石という織田家臣団随一の領国と、織田家筆頭家老の地位を与えていた。また、松永久秀に対してもその実力を評価して、二度も降伏を許している。このように、信長は有能な人物であれば、その罪を許して重用するという本来の人物像が伺える

内政

  • 敵大名や一揆衆や自らの配下には苛烈であった信長だが、地味な内政や民心掌握に敏腕を発揮しており、信長が支配下に置いた尾張・美濃などの多くは信長によって終生、善政が敷かれていたと言われている。桶狭間の戦いにおいても信長が勝利することができたのは、領民の支持があったからだとも言われている。相次ぐ戦乱で荒廃した京都の町人たちも、厳正な信長の統治に対しては歓迎したと言われている。織田軍の足軽が道を行き交う女性に絡んでいるのを見かけた信長が、京都の治安を乱す行為をしたとして自身で手討ちにしたという挿話もある。また、本能寺の変の後に、明智光秀に靡いた国人層が少なかったことも、これを裏付けている。
  • 楽市楽座は信長が最初に行なった施策と言われることが多いが、実際には近江南部の戦国大名であった六角定頼(信長に滅ぼされた六角義賢の父)が最初に行なった施策であり、信長は楽市楽座をさらに大規模な施策としたにすぎない。だが、信長には楽市楽座をはじめ、琵琶湖などを中心とした流通による商業発展を目指すなど、当時としてはあまりに先見的な内政を行なっている面がある(流通による商業政策が重視されはじめたのは江戸時代後期であり、それまでは年貢が重視されていた)。

総論

  • 革命児、第六天魔王など、色々言われる人物ではあるが、信長の登場で応仁の乱以降に日本各地で続いた長い戦乱の収束が早まったと主張する声もあり、戦国時代を事実上終焉に導いたのは、信長であるという評価が現在では高い。
  • このように歴史的評価や人物評が定まることのない人物である。一般人から見ると正義とも巨悪とも受け取られ、天才とも狂気とも映る信長は、規模が大きく魅力的である。そのため現在に至るまで、小説・映画・ゲームなど、信長を主人公とした作品は多く、特に本能寺の変で信長が死ななかったらどうなっていたかというシミュレーション作品も近年では多く作成されるなど、信長の人気は昔から今まで多大なものである。

系譜

先祖

織田氏平氏とも藤原氏とも自称するが、福井県丹生郡越前町織田にある劔神社の関係から古代豪族の忌部氏と考えられる。越前に地盤を築き、尾張に派生した。朝倉氏とは当初からのライバル関係。織田信定から古渡城主で父の信秀の代で守護代を務める本家と同等に渡り合える力を持った。

織田久長-織田敏定織田信定織田信秀織田信長

兄弟
姉妹
息子
一門衆
織田信定
織田信行
織田信張
織田信光
織田信康
他系
子孫
2005年3月に行われたフィギュアスケート世界ジュニア選手権で優勝した織田信成選手は、信長七男の織田信高の子孫に当たり、信長から数えて十七代目となる。
信長の性格は「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」という俳句(信長作ではない)でよく引用されるが、信成はテレビ番組の取材で「鳴かぬなら それでいいじゃん ホトトギス」と詠んで話題となった。
信成の母でスケートのコーチを務める織田憲子は、夫の信義氏の実家に仏花を届ける際、うっかり桔梗を送ってしまったという挿話がある。(桔梗は明智光秀の家紋):なお最も直系に近い織田氏の末裔は、織田高長の子孫で現在フリーライターの織田孝一(本名・織田信孝)であるようだ。
タレントの織田無道は織田家の末裔を自称しているが、詳しい事は定かではない。

家臣

他に有力重臣として九鬼嘉隆細川幽斎荒木村重池田勝正松永久秀筒井順慶、武井夕庵、森武蔵、美濃三人衆などもいる。

墓所・霊廟

本能寺廟
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本能寺廟
中京区廟所
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中京区廟所

以下の場所に、墓所及び霊廟がある。

  • 「信長公廟」:京都市中京区本能寺
    • 石造宝篋印塔と入母屋造の廟屋。本能寺の変で焼失した後に、場所を移して再建された本能寺に墓所がある。
  • 「織田信長公本廟」:京都市上京区の蓮台山阿弥陀寺
    • 石碑。本能寺の変の直後に、住職が寺に葬ったと伝える。秀吉に遺骨の差し出しを求められており、信憑性が高い。
  • 「織田信長墓所」:高野山奥の院
    • 五輪塔。明治以後忘れ去られていたが、1970年に発見された。
  • 京都市北区大徳寺塔頭の総見院
    • 五輪塔。一周忌に秀吉が建立した寺院といい、遺骸が見つからなかったため、木像を2体造り、1体を火葬して1体を総見院に安置したという。
  • 「織田信長公本廟」:安土城二の丸跡
  • 「織田信長公御分骨廟」:富山県高岡市の高岡山瑞龍寺
    • 石造宝篋印塔。
  • 「織田信長父子廟所」:岐阜県岐阜市の神護山崇福寺
    • 石碑。市指定史跡。信長の側室お鍋の方が遺品を贈り、位牌を安置したという。


  • 「織田信長信忠公供養塔」:大阪府堺市の南宗寺本源院
  • 建勲神社」:京都市北区
    • 別格官幣社。秀吉は弔うために船岡山に寺を建てようとして天正寺という寺号を朝廷から賜るが、建立途中で終わる。1869年(明治2)に明治政府は織田信長を祀る神社の建立を指示。1870年(明治3)、天童藩知事の織田信敏が江戸邸宅内に織田信長を祀られ、その後1875年(明治8)に船岡山の山腹に新たに創建。1910年(明治43)に現在地の山頂に遷座。
  • 「建勲神社」:山形県天童市
    • 県社。政府は1869年(明治2)に、織田信長を祀る神社の建立を指示。1870年(明治3)、天童藩の知事、織田信敏が現在の舞鶴山に織田信長を祀る。1884年現在地に遷座。
  • 「建勲神社」(摂社):岐阜県岐阜市若宮町の橿森神社
    • 織田信長が美園で開いた楽市楽座の市神が橿森神社の御神木に祀られた。明治になって境内に建勲神社を勧請した。
  • 愛知県清須市の清洲古城跡
    • 信長を祀る神明造の小祠がある。
  • 「南蛮寺の鐘」:京都市右京区の臨済宗大本山妙心寺の塔頭寺院、春光院が所蔵。南蛮寺は信長が京都に建てたキリスト教会堂。

その他各地に、供養塔や建勲神社などがある。

伝説

  • 伝織田信長の首塚:静岡県芝川町西山本門寺
    • 第18世住職、日順上人の父、原宗安(原志摩守)が本能寺の変の際、戦死した自分の父原胤重と兄原清安(原孫八郎)の首と本因坊算砂の指示で信長の首を本門寺まで持ち帰り柊を植え首塚に葬ったという。

関連項目

史料
小説
映画
テレビドラマ
漫画
ゲーム
音楽

外部リンク


織田弾正忠家歴代当主
織田信長
先代:
織田信秀
次代:
織田信忠

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