篠原長房
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篠原 長房(しのはら ながふさ、永正10年(1513年) - 天正元年7月16日(1573年8月13日))は三好氏の家臣。
もとは阿波守護であった細川氏に仕えていたが、三好義賢の力が台頭してくると、その家臣となる。1562年、久米田の戦いで義賢は戦死したが、長房は戦場からの逃走に成功した。その後は義賢の子・三好長治を補佐して足利義栄の擁立など、悪評の強い人物ではある。だが、三好氏の分国法である新加制式の編纂にあたるなど、三好長慶の死後に衰退した三好氏を支えようとした忠臣でもあった。
やがて織田信長が上洛してくると、しばらくは三好三人衆と協力して信長と敵対したが、やがて信長の強大さを悟って降伏し、その家臣となりその体制下での三好氏存続を模索する。しかし、彼と不仲であった一族(弟とも)の篠原自遁が長房が裏切りを画策していると讒言する。それに対して怒った長治が細川真之と協力して攻めて来たため、長房は自害を余儀なくされた。