織田信広
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織田 信広(おだ のぶひろ、? - 天正2年9月29日(1574年10月13日))は織田信秀の子。織田信長の庶兄。津田信広とも称したか。実子は娘一人、養子に織田信正がいる。
信秀の長男であるが、生母が側室という立場から家督の相続権はなかった。一般にも『信長の兄』とは認識されておらず、せいぜい織田家の一族という扱いである。
天文18年(1549年)11月、安祥城の城主を務めていた頃、今川義元の軍師・太原雪斎に城を攻められ落城し、信広は今川家に生け捕りにされる。後に、織田家の人質となっていた松平竹千代(徳川家康)との人質交換という形で織田家へ送還される。兄でありながら家督が継げず、家中でも肩身が狭かったと予想され、弘治2年(1556年)に美濃稲葉山城の斎藤義龍と組んで清須城乗っ取りを図るなど一時期は信長と対立するが、最終的に信長の許しを得て織田家臣として落ち着く。
その後は信長の家臣として、永禄12年(1569年)から元亀元年(1570年)まで京都に常駐して室町幕府との連絡役となり、元亀3年(1572年)の岩村城救援など、各地を転戦して武功を挙げた。天正元年(1573年)には、信長の名代として不和となった足利義昭と和議を結んでいる。
天正2年(1574年)、最後の伊勢長島一向一揆攻めに参加。海陸からの兵糧攻めに耐えかね、9月29日長島願証寺が降伏を申し出る。信長は偽ってこれを受け入れ、一揆勢が半ば願證寺を出た時点で一斉攻撃をかけた。一揆の総指揮をとっていた本願寺佐堯や三位法橋は弾丸に倒れたが、騙し討ちに激怒した一揆兵は捨て身の反撃に出て寄せ手本陣に突入、この時信広は討ち死にした。
ちなみに信広の娘は、信長の養女となって丹羽長秀に嫁いでいる。