唯物論
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唯物論(ゆいぶつろん、ドイツ語:Materialismus)とは、事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念。非物質的な存在や現象については、それらを否定するか、物質や物理現象に従属し規定される副次的なものと考える。
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[編集] 唯物論の諸形態
唯物論は、文脈に応じて様々な形をとるが、よく知られたものに以下のようなものがある。
世界の理解については、原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの基本的な物質的構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする立場で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定し、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。(経験論、現象学も参照のこと。)
人間の理解に関しては、意識・心理現象・自由意志などの精神活動について、大脳の活動などといった物質的現象のみの所産であるとする機械論、あるいはより極端な自由意志自体を否定するような立場は唯物論として知られており、心身二元論などと対立する。(行動主義も参照のこと)
生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。
歴史や社会の理解に関しては、マルクス主義の唯物史観が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済など物質的な側面によって規定されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因も、経済の形態やその変化によって説明できるとされる。
[編集] 唯物論に対する批判
哲学、思想の領域では、唯物論は、非物質的な存在を信じる立場やそのような題材を扱う思索は形而上学である、非科学的であるなどと批判的に形容することがある。一方、唯物論に対しては還元主義的である、客観主義的である、といった批判的形容が用いられることがままある。
宗教や道徳に関する議論の文脈では、唯物論の人間や生命に対する理解は人間の重要な側面を取り落としている、科学至上主義である、神に対する冒涜である、といった形で批判されることも多い。
[編集] 唯物論の歴史
唯物論は西洋哲学史上はソクラテス以前のギリシア哲学にまで遡り、また現在でも多くの支持を得ている立場である。但し、中世のスコラ学時代には、目立った唯物論者は見られない。
但し、これは必ずしも、数千年の歴史を通じて変わらぬ立場が維持されてきたわけではない。物理学の発達に伴って物質という概念の意味は変遷しつつあり、現代の唯物論においては、物質は、エネルギーや物理的な力、空間のゆがみなど、科学的に観察可能なすべての実在をさす意味にまで拡大されていることが多い。このような物質理解に基づく唯物論は、原子論的な唯物論とはしばしば大きく異なる立場である。
初期古代ギリシア哲学には思惟と物質を分ける思考はなかった。タレスの水を原理として立てる言説にその例を見ることができる。
その後、古典期に入り、パルメニデス、エピクロス、などに唯物論の萌芽を見ることができる。アリストテレスはエイドスがマテリアに本性的に先行することを説いたが、その自然学(ピュシカ)などは唯物論的な解釈を許した。エピクロスの影響下に書かれたルクレティウスの『物の本性について』はルネサンス期に大きな影響を与えた。
中世以降の哲学者としては、トマス・ホッブズやピエール・ガッサンディを伝統的な唯物論者の流れに位置付けられる。反対に、デカルトは二元論的な思想的基礎を自然科学に加えようとした。
近代の唯物論はフランスの啓蒙家ラ・メトリ(La Mettrie 1709年 - 1751年)、人間機械論 に始まる。 他に、フォイエルバッハの他に、ディドロやフランスの啓蒙思想家らがいた。
近代になると、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが、ヘーゲルの弁証法的観念論を逆立ちさせて、唯物論に量的な変化とその過程に関する考え方を加え、いわゆる弁証法的唯物論を導き出した。それを歴史的過程に適用したものが、史的唯物論(一般に唯物史観と同じとされる)である。
近年では、ポール・チャーチランドとパトリシア・チャーチランドが、極端な唯物論を提唱している。すなわち、精神の現象はまったく実在するものではないと主張している。
[編集] 一般的な「唯物論」
日本においては一般的に唯物論は現実的、科学的であると理解され、観念論は、非現実的、オカルト的という構図で捉えられることが多い。
また人によっては、マルクス主義を連想することもある。