冬姫
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冬姫(ふゆひめ、永禄4年(1561年) - 寛永18年5月9日(1641年6月17日))は、織田信長の次女。蒲生氏郷の正室。
[編集] 生涯
1569年、蒲生賢秀が信長に臣従したとき、信長は賢秀の子・氏郷(当時は鶴千代)を人質として取ったが、その鶴千代の器量を早くから見抜いて、冬姫を与えて娘婿として迎えたといわれている。氏郷と冬姫の関係は良好で、二人の間には息子の蒲生秀行と娘(前田利家の次男・前田利政の室となる)をもうけている。
1595年、夫の氏郷が40歳の若さで他界する。一説に氏郷の死去は、信長にもその才能を認められた氏郷の器量を恐れた豊臣秀吉、もしくはその家臣である石田三成の毒殺と言われているが信憑性は薄い。(氏郷を診断した曲直瀬玄朔の記録「医学天正記」から死因は膵臓癌あるいは直腸癌といわれている)氏郷死後、息子秀行 は会津から宇都宮12万石に減封、移封された。
その後、冬姫は我が子と共に宇都宮に移ったが、関ヶ原の戦いで秀行が東軍に与して功を挙げたことから、会津60万石に戻される。しかし1612年に秀行が30歳の若さで死去し、その後を継いだ孫の蒲生忠郷は1627年に25歳で死去。彼には嗣子がなく、蒲生氏は断絶しかけたが、冬姫が信長の娘であることと、秀行の妻が徳川家康の娘・振姫であったことから特別に冬姫の孫に当たる蒲生忠知(忠郷の弟)が会津から伊予松山藩20万石へ減移封の上で家督を継ぐことを許されたが、その忠知も1634年に嗣子なくして早世し、結局は蒲生氏は無嗣断絶となるなど、不幸な余生を送っている。
冬姫は1641年5月9日、81歳で死去した。法名は相応院月凉心英。墓所は京都の知恩寺。
[編集] 逸話
夫の死後のことである。冬姫は美男子であった父・信長の血を濃く受け継いでいたらしく、類まれな美貌の持ち主だった。しかもまだ34歳の若さだったから、女好きだった秀吉は氏郷が死去した後、冬姫に自分の側室になるように望まれる。
しかし冬姫は夫との貞操を守るためにこれを拒否した。これに激怒した秀吉は、1598年に氏郷の後を継いで会津100万石の領主となっていた秀行に、下野宇都宮12万石への減封を命じている。もちろん、表向きの理由は蒲生氏家臣団の争いと、秀行が若年であり会津の大領の地にはふさわしくないとしているが、このとき蒲生氏の減封工作に巧みに動いたのが三成であった。三成は蒲生より、自分と親しい仲にある上杉景勝を会津に入れたかったらしい。つまり、秀吉と三成の蒲生氏勢力削減政策の一環とも言える。 …、とされているが、真実であれば当然三成を秀吉の死後暗殺を企てた七将以上の憎悪をもって付け狙うはずの蒲生家遺臣の多くが三成を恨むどころか石田家に仕官していること、またこの当時秀吉はすでに死を目前にしており新しい側室どころではない状態であることから、この逸話の信憑性は全くないと言って差し支えない。