筒井定次
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筒井 定次(つつい さだつぐ、永禄5年5月5日(1562年6月6日) - 元和元年3月5日(1615年4月2日))は筒井順慶の養嗣子。実父は筒井順国。妻は織田信長の娘、秀子。
順慶に子が無かったために養嗣子となった。義父、信長没後は羽柴秀吉の家臣となり、大坂城へ人質として赴いたこともある。1584年、順慶の死により家督を相続した。小牧・長久手の戦いや四国征伐、九州征伐、朝鮮出兵など、秀吉が行なった戦争の大半に従い、その功により伊賀上野に移封された。しかし、これは都に近い大和から定次を追い出したようなものであったとも言われている。
1600年の関ケ原の戦いでは東軍に与し、戦後、徳川家康から所領を安堵された。だが1608年、幕命により突如として改易され、ここに大名としての筒井氏は滅亡してしまう。改易の理由については、領国における悪政からキリシタンによる訴訟など、数々の理由が挙げられているが、最近では幕府のでっち上げによる改易ではなかったのであろうかとも言われている。どちらにせよ、定次は改易された後、その身柄は鳥居忠政のもとに預けられることとなった。
そして1615年、大坂の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、自害を命じられた。このとき、定次の子・筒井順定も自害している。