淀城
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[編集] 概要
淀は淀津と呼ばれ、古代には諸国からの貢納物を集積する商業地であった。従って、河内・摂津方面や大和方面から山城・京洛に入る要衝であった。
今日伏見区にある淀城は、近世になって山城国唯一の大名家となる淀藩の居城として、江戸幕府主導のもと築城されたものであるが、本来淀城は三つ存在する。
一つは、戦国時代に築城された淀城であり、これは納所地区にあったといわれる。納所は木津・桂・宇治の三川が合流するポイントの北岸にあたり、古くからの商業地「淀」の中核都市である。その地名も、古代の貢納物集積地を意味している通り、古代から有名な地方都市であった。この戦国時代の淀城は、羽柴秀吉と明智光秀の山崎の戦いでも利用されたが、応仁の乱でも利用された記録がある。ただ、恒久的に城番が設置され、特定の軍団が配置されていたかは疑わしい。
次の淀城は、豊臣秀吉が側室茶々に与えたものであり、これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。これも納所地区にあったとされ、近年の発掘で城下町が形成されたことが明らかになっているが、典型的な館城であり、戦略拠点となりえるものではなかったと思われる。
徳川幕府によって築城された淀城は、旧伏見城の廃材や二条城の天守などを転用し築城された。三川合流地の中州を干拓し、淀三町と呼ばれる城下町を形成。北の納所地区と南の八幡地区とは、淀小橋・淀大橋でつながれ、城下町の周囲は三川の水に囲まれ、河中の城であった。城下町を貫通する形で京街道が設定され、淀城大手門はこの京街道に面して設置された。淀城はこの中州の西部を指すが、中州自体が大きな水堀であり、古代中国の都城のような構造を持っていた。
幕末、旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いに敗北して淀城に籠もろうとするが、淀藩に拒絶される。しかし、淀城がこのような構造である以上、籠城となれば新政府軍にとって脅威となったであろう。
戦後、淀藩の消滅に伴い、早くから淀城は廃城となる。淀城東部にあった巨椋池の干拓によって地形が大きくかわり、本丸の一部を除いてすべて破壊された。さらに、本丸北西部を京阪電気鉄道が貫通するに及び、淀城の消滅は必至となるが、史跡指定によってようやく保存運動が高まり、今日は本丸周辺の整備が進み、保存されている。