春光院
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春光院(しゅんこういん)は、京都市右京区花園の臨済宗大本山妙心寺の塔頭寺院で、大庫裏の北に位置する。
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[編集] 起源と歴史
春光院のもとの寺号は俊厳院(しゅんげんいん)で、天正18年(1590年)に、豊臣秀吉の家来で、後、松江開府の祖堀尾吉晴(ほりお よしはる)が、長子堀尾金助を小田原の戦いで失ったので、その菩提を弔うために建立した寺である。堀尾家は三代目忠晴が、大坂冬と夏の陣で徳川側に味方して功を立て、藩内の治政にも見るべきものがあったが、寛永10年(1633年)に病死し、嫡子がなかったため断絶した。その後、忠晴の息女が石川家に嫁いていたことから、石川憲之(いしかわ のりゆき)が、檀越になり、寛永13年(1636年)に、寺号を春光院と改称した。
[編集] 伽藍
方丈前庭は、慶応3年(1867年)に造園されたもので、「さざれ石の庭」と称し、伊勢亀山城主で伊勢神宮崇拝者でもあった石川家の趣向をよく表し、伊勢神宮を型取り、内宮の森、外宮の社とし、庭中に拝石を据えた神道式の枯山水である。
方丈西庭は、「常盤の庭」といい、創建当初に堀尾吉晴が、造園したもの(本来、付属の庭で、「鶴亀の庭」)で、亀島あたりに当時の面影を残している。また、弘化5年(1848年)、裏千家三代千宗旦弟子首座の好みで作られた茶室「来也軒」に露地で通じている。
方丈は江戸中期以後の客殿建築様式の特色を完備した建造物である。 方丈襖絵は金箔画で、京狩野派永岳の筆、東の間「琴棋書画図」、室中「月と雁」、西の間 「花鳥」、同上間「太公望」の題材が描かれている。
方丈裏の大書院は、淀城の寝所を移築したもので、丸木のままの長押や天井にも桃山時代の建物らしさが見られる。
[編集] 文化財
方丈東にある銅鐸は重要文化財「南蛮寺の鐘」と称し、キリスト教会堂で用いられていた鐘で、側面の周囲に太陽の文様の中に十字架とIHS(ギリシア語で、キリスト)を組み合わせた円文を四方に鋳出し、そのうち一方に天正5年(1577年)の西暦年号を鋳出している。
[編集] 観光情報
予約により公開、一日限定 五グループまで。ファックスによるお申し込みは、(075)462-5488で。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
Shunkoin Templein English only.